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(回答先: 【殺人の自由化】無善悪1【コンパスと定規と6つの角】まだ読んでないが参考になりそうで…ここに保存したい、いいかな? 投稿者 SV問題 日時 2005 年 12 月 10 日 08:46:38)
【2】
◆殺人を悪とする側の
その言い分について
さて、では試みに、動物的かつ文化的に「殺人を悪い」としている我々のその価値観を
今一度、冷静に分析してみようではないか。
1/もしも、あなたが自分の愛する者が殺されたら、
感情的に、その殺人者を嫌悪するのは実に簡単な事だ。
それには「なんの知性も必要ない」。
2/もしも、自分と利益関係にある者が誰かに殺されたら、
犯人を極悪人とそしるのは実に簡単だ。
これにも、「なんの知性も必要ない」。
3/そして、もしもTV報道で殺人者が捕まったのをあなたが見たら、
その者を悪人と言うのは、「なんの知性も必要ない」。
そして、ほとんどの人々やマスコミは、殺人行為が悪である理由として、
次の言葉を言う事だろう。
・・・・・・・・・
1/「法律だから、殺人が悪いのは、そんな事は当たり前だろう」
2/「もしも好き放題に人を殺したら、社会の秩序が保たれないだろう」
・・・・・・・・・
3/「何人も、他人の生きる権利を妨害してはならない」
4/「もしも自分が殺されるとしたらどうなのだ。殺される方が受ける苦痛というもの
を、他人の身になって考えれば殺人は良くない」
5/「残された家族や知人の悲しみを考慮したら殺人は悪いことだ」
・・・・・・・・・
6/「法律以前の問題として、人間として殺人が良くないというのは良心の問題だ」
7/「命は大切なものだから、粗末にしてはいけない」
・・・・・・・・・
これ以外にも、理由を思いついた方は、意見を寄せて戴きたいが、とりあえず、
この7つの一般論について考えてみよう。
あらかじめ結論から言えば、
実は、この7つの常識は、どれひとつとして、
「殺人は悪い」という絶対的基準には、なり得ないのだ。
1と2についての検証
1/「法律だから、殺人が悪いのは、そんな事は当たり前だろう」
2/「もしも好き放題に人を殺したら、社会の秩序が保たれないだろう」
法律というものは、その時代と国家、すなわち「時間と空間の位置」によって、
ころころと変わるものである。
法律とは、共存する集団が、自らの生命の維持にとって利益となるような、
{自分勝手な定め事を「多数決」によって決めただけのもの}である。
しかも、多数決で決めたというのも実際には正確ではない。
なぜならば、多数決すらも絶対的に優先されたためしもほとんどないからだ。
署名運動も無視され、選挙違反もあり、国民の声などどこにも届かない。
それに、さらには多数決が「正しい」という根拠もどこにもないからである。
多数決とは「普遍的に正しい」のではなく、
「多数の人間にとって同意できる方針である」という事に過ぎない。
この事に反論する前に、地動説が、いかなる扱いを受けたか思い出すがいい。
そして戦時中に戦争反対を唱えて投獄された非国民のレッテルを張られた人達の事を。
当時反戦を唱えた者は「社会の秩序を乱した者」として投獄されたのだから。
従って「法律や社会秩序をもってして殺人を悪とする」1と2の見解は完全に整合性に
欠けている。下品に言うと、この御意見に対しては「NOW GET OUT」。
(とっとと失せろ)なのである。
むろん、そうした法律が出来上がった歴史の背景には、文化、人間性、モラル、宗教観
などがあるのだろうが、それらについての疑問も、以下で展開してゆくことになろう。
3・4・5についての検証
3/「何人も、他人の生きる権利を妨害してはならない」
4/「もしも自分が殺されるとしたらどうなのだ。
殺される方が受ける苦痛というものを他人の身になって考えれば殺人は良くない」
5/「残された家族や知人の悲しみを考慮したら殺人は悪いことだ」
「権利」というものは、そもそも妨害されるものなのである。
いちいち権利などを叫ばねばならないという事自体が、
それが、もともと妨害される可能性のものである事を端的に表している。
というのも、当然の風習となっている物事には、人は権利など主張しないからだ。
すなわち「権利、権利」といちいち叫ぶこと自体が、その権利は危ういものであると言
っているようなものである。
同じように、「義務、義務」と叫ばれるものは、それは義務を怠る可能性が十分にある
という事なのである。
だから、そもそも、「権利」だの「義務」というものの種類がやたらに増える社会ほど、
その社会は「病気なのだ」と思えば間違いない。
原住民の社会には、多少の掟こそあれ、「六法全書」などは存在しないのだから。
有史以前には、誰も生きる事を「権利」としてなどを叫んだりはしない。
そこには、単純な弱肉強食原理があり、死ねば悲しみ、生き残れば安心するという、
ただそれだけの事である。
いちいち、誰かや国家に権利を保証してもらったり、
果たすべき義務などを押し付けられてはいない。
すなわち、何もかもが、「自然」だったのである。
しかし、この自然を大きく歪めてしまったものは、共存や平和や愛という名の元に、
自然な物理的闘争を不自然に制圧した事や、自然死すべき命を延命した事、
そしてこうなってしまった最大の原因は、
人間が自然動物として生きるために、もともと従うべきではなかったような、
数々の『偽善的な宗教教義の感染』や『直感的本能による人口管理』能力の喪失、
そして下手に脳が発達した事からきた、食物の乱獲であろう。
こうした他民族との共存や、増え過ぎた仲間との共存問題に直面した人類は、
結局は「定め事」や、「罰則」によって秩序を作り出して解決しようとするのだが、
そのしわ寄せはすべて我々の無意識化に抑圧される。
だが、我々は、そもそも生まれたその時から、共存の知恵と同じぐらいに、
「闘争や殺戮の自然本能」を備えているものなのである。
・・・・・・・・・
人間が、身体的にあまりにも「弱い動物」として生まれた事と、
「暇を持て余した脳」によって発達した科学は、
やがて人類の生存領域を他の太陽系の惑星へと移動することは時間の問題であろう。
だが、この惑星で不幸だった人類が、どんな星の楽園へ行ったところで、
結局はその内面が不幸である事には変わりはないものなのである。
環境を変える事で人間の本質が変化したためしなど、ただの一度もないからだ。
・・・・・・・・・
そしてまた、後でも詳しく述べるが、権利といっても、
人間は自分たちの生きる権利ばかりを主張する。
人間以外の生物の権利など何ひとつも認めてはいないのだ。
また、人間は「自分たち民族や自分たちの宗教の」生きる権利ばかり主張する。
時には、「自分の家族だけの」生きる権利を主張する。
最後には、「自分一人だけの」生きる権利を主張する。
すべての権利を平等に認めるなどという事は、もともと不可能なことなのだ。
もしもそれを行えば、その事自体が無秩序になってしまう。
だから、生きる権利とは、「そもそも妨害されて当然」なのである。
「ならば社会に殺人者が溢れるような状況をあなたは容認するのか??」という質問を、
もしも私が尋ねられたらば、その答えは明確に「YES」である。
本当に殺戮が不快であり、不幸と一人残らず実感するまでは、
「心底それが嫌になるまで」は、人類は殺人や殺戮を繰り返せばいいのである。
・・・・・・・・・
このように言うと、ある種の者たち、ある世代の者たちは、
「日本は終戦の時には誰もが、もう戦争は嫌だと感じた事がある」と主張するだろう。
しかし、日本国民は決して「殺戮は、もうこりごりだ」と実感したのではない。
そうではなく彼らは『負け戦』にこりごりしたにすぎない。
もしも太平洋戦争に勝っていたら、「日本万歳!」と叫んでいたことだろう。
なにしろ、自分の国が全く攻められない時、つまり他のアジアの国に攻め込んでいる時
には、日本国民は自国の神聖さと天皇の栄誉を称えて歓喜していたのだから。
これで一体どこが「戦争や争いが嫌になった」と言えるのだろう??。
だから、日本国民は、終戦によって「戦争や殺戮にこりごりした」のではなく、
生まれて初めて本土を爆撃されたり、徴兵制度で愛する者と別れたりして、
その結果として自分たちに起きた「不自由な生活」にこりごりしたに過ぎない。
人は戦争や殺戮それ自体を嫌になったわけではなく、
戦争によって自分に起きる、「生活苦」や、
戦争による「悲惨な人間模様」が嫌であったにすぎない。
いわば、負けた時は「ギャンブルは二度とごめんだ」などと言うものの、
勝って儲かれば、またギャンブルをやる賭博屋のようなものだ。
・・・・・・・・・