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「全体」
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投稿者 メタモルさんに反問(回答)したい 日時 2005 年 4 月 18 日 01:46:45: MVIAIgibpTHXE

‥‥

どうしても全体のなかで個を位置づけなくてはならないか。俺は全体を認識することすら不要だと思っている。
(また認識できる容量も無く、何らかの主観で捨象するしかないだろう。だから、歴史が延びるにつれて、ますます歴史認識も部分化してゆく)
全体を認識せよ、と神からの手紙に書いてあったか?

「全体への意志」には証拠が無いはずだ。
「全体を認識する必要性」「全体が統合される必要性」は、頭の“進んだ”エリートによって宇宙の「解釈」から生まれたに過ぎず、もともと「汝、全体を認識して」「自ら統合されよ」と宇宙がじきじきに明言したわけではないはずなのだ。(宇宙の解釈は、宇宙史観の変遷に沿って随時更新されるだろう)

‥‥

宇宙(全体)ではなく、人格的生命の問題は、人格的生命の次元で考えればよいと思う。
さらに人格的生命の問題においては、しいて人格的生命の世界(全体)を考える必要も無く、人格的生命の「関係の延長可能性」として網羅的に想定しておけばいいはずである。
人格的生命の次元では、関係ということは(場合に応じて)「起きてきても」全体というものは(必ずしも)「出てこない」はずなのだ。(いうまでもなく「関係」をあつかうのが「倫理規範」である)

‥‥

>小さな存在か明らかになる。

たしかに俺は「人格的生命」としては、単に一つの「人格的生命」に過ぎないだろう。

だが、それらの一つ一つの「人格的生命」は、全体としても、その部分としても、何であれ、複数にまとめることのできない「人格的生命」であるはずなのだ。
だとすると、多くの中の一つでもなければ、多くに対して一つでもないのであり、「人格的生命」と「人格的生命」とは、一つに対する一つである、ということだろう。
何かと何か、誰と誰であれ、けっきょくは誰と誰か、お互いが一つと一つだと思っている。(重なりもしない、そういう「人格空間」の認識なのだと思う)

※‥‥そのうえで俺は主観的にも相対化(複数主観化)し、世俗多数の規定であろうところの「無能でエゴイストの病人」ぶりを、そのようなものとして隠していないつもりだ。

‥‥

御前にとっては御前は微小であり、俺にとっては俺は巨大であったり、微小であったりするし、同時的にも、長期的にも、矛盾もあろう。
主観においてはそれでいいだろう。
おそらく、だからこそ、ことさら全体を意識して小さくならなくていいし、全体を崇拝して自分から小さくなってもいいということなのだろう。(特に、問題が何処で区切るかということなら、どれのみが真実ということでもないのかもしれない。俺は俺の周辺の世界で生きているのだろうし)

しかし、客観ともなれば「人格的生命」の次元において、個々はバラバラの一つ一つであって「全体」も「連合」も無いはずなのだ。(俺は意思が完全に繋がった人間を見たことが無いつもりだ。こうした本質的な個別性への決定的な反証は「いま俺が思った内容」を言い当てることで簡単にできるのだろう。しかし、そんなことが、いま出来るか)
自分を巨大であると認識することで、全体が縮小したり、全体が見失われても、それが主観であるというなら、いっこうに構わない(自由の枠内に収まる)と思われる。

自分の主観のみならず、「人格的生命」が判断するようなことは(そのようなものとして)「大勢の主観」や「全員の主観」で決めればいいのであろうから、
俺が巨大と思おうが、周囲がこぞって俺のことを微小と思おうが、主観として『等価』であり、主観として『自由』であるはずなのだ。
つまり、お互い、自分(たち)の主観を『強要』は出来ず、さりとて『主張』ならば出来るというわけだろう。(主観による罵倒も、それがその「人格的生命」にとって「現在の真実」であるという前提で許容されるだろう)

また、その(全体への)認識が客観的事実に即応していてさえも、客観価値としては認めえず、個々の主観に「還元」されるものと思う。
もとより客観価値(倫理規範的意義)というものは、倫理規範にのみ存し、また、その倫理規範に「存在全体」という一般概念は必要が無いかもしれない。〔そんな概念を設定したところで、それこそ「世界の覇者」でもなければ、自分(生涯)の関与範囲である環境・人的環境に、権利としても利権としても「全体」は登場しないだろう。しかし、倫理規範は「世界の覇者」を許容的に認めるわけではあるまい〕

そうだとすれば「全体」という概念は、客観的事実として「認識(可能な)対象」であるにしても、それを有価のものとして支持するのが個々の主観であるならば、必ずしも別の主観がそういう認識を採用する必要は無いということであろう。すなわち「全体」を、主観は拒否しうるはずなのだ。繰り返しになるが、お互い、自分(たち)の主観を強要は出来ず、さりとて主張ならば出来るというのであろう。

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