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もし完全な造形原理が、パラメータ群の調和に有るならば、セザンヌは、
そうと知っていながら、自ら“脱落の系譜”を開拓したのではなかろうか。
セザンヌに端を発した“日本美術界”でのアカデミズム(学術的基礎)は、
たしかに堅牢な空間構成(漸層的なボリューム表現や、さらには蠕動する
ムーブマン)を手にしたかに映る。ところが造形原理の王道から“見下ろす”
ときには‥‥それは“新奇を得て普遍を逸する”選択だったともいえるだろう。
他方、音楽においてもマッス‐クラスタ(但し音列とマトリックス〜音群)をシステムで
扱い、伝承的ニュアンスへの自由度(恣意性)を確保した≪黒人系音楽≫は“邪道”で
あったかもしれない。別の意味でドデカフォニーも「個別の、音型のアウラを丁寧に拾う手
作業は厭い、秩序で処理するため、極少の存在感を‥‥壁の向こうに手を回すようにして
掴み損ねる」こととなったようだ。そういうフィルタは、相変わらずミューズを少数のスーパー
エリートのもとに温存しておくには役立ったかもしれないが、“大衆のなかにある才能”を「引き
上げる時機」を徒に遅らせるなど、埋め戻された不毛な年代を重ねることにこそ寄与したのだろう。