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重要なのは、荒らしが「小橋」なのか「宮本」なのか、ということではないかと思う。
「宮本」がいるときには「小橋」がいる‥‥。
「宮本」がいないときも「小橋」がいる‥‥。
宮本の投稿量も、総計すれば相当なものであるにせよ、現在は散発的であるのに対し、昼休み4に象徴されるような物量は、小橋の集中力によって齎されているといえるだろう。
宮本が、空虚なところのある思念のようなものだとすれば、じっさいの質量を担う小橋に取り付いて重量化しているのではないか。
むろん、小橋を操って動かしているという言い方も出来なくはなかろうが、それでもまた、謂いようによっては宮本の働きとは(荒らしという点では)片手間に近い、合いの手に過ぎない性格のものかもしれないのだ。
このあたりの事実関係は、ログをつぶさに観察すれば見えてくるはずだ。
そこで宮本が表であり、裏は小橋であるとしてみる。
実名として知られているのは宮本のほうであろう。
犯人を指弾し、呼称する際には、実名でなければ、真相を語ったことにはならないかもしれない。
するとどうしても、宮本の名前が挙がるという心理的な構造があると思われる。
だとすれば両者の投稿を総計し、イメージが合算されることで強大な重力場を形成し、周辺を浮遊する誰もが、エコノミックな単純化という観衆の知覚処理において、宮本に吸収されてしまうはずなのである。しかも、新たなキャラクターが混和されて化け物めいたイメージは膨張し、重力圏から逃れることが、ますます難しくなってきているかもしれない。
そうであるからには、同定は起きるべくして起きたといえなくはないか。
イメージと質量に関する、こうした“法則”を踏まえないような、本件についての論評には、有効な価値を感じない。
(これは全ての元凶が、例えばイルミナティであり、例えば可視的にはモサドであり、例えば卑近にはオウムであり、朝鮮人である、との情報の凝集と相通ずるだろう。情報操作ではなく、よりサイバネティックな引力の再編とでもいうべきオートマトンであるものを、あたかも人格神に物象化しているかに映る)
したがって裁判だろうが、抗議運動だろうが、真相を鋭く突かないものは、空々しく思えるのだ。よって、本件への積極的な情報提供や関与には、いささか乗り気でない。
もとより、小橋という事実上の求心力を、意識せざると見逃しておき、そのことで「実像たる配分」と「悪のネームバリュー」とを同定してしまっていると思うわけだ。
ある意味、被害者ともいえる宮本が、それに言及しないのも、自己アピールの点で、荒らしの中心人物というポジションに、少なからぬ居心地の良さがあるからなのだろう。
これでは真相究明など、絵空事に終始し、それぞれの熱意も、無意識であれ、ポーズに過ぎないと見えてくる。
(それがゆえに、探偵ごっこに関わりたくないのではないか、と自分で思えるのである)