現在地 HOME > 掲示板 > 番外地1 > 519.html ★阿修羅♪ |
|
奇跡が起きる前、自分が真の力を持ち始めるとき、
それが中途半端に始まったとしても、
あるいは中途半端に終わるにしても、
旧秩序が不調を来し始めるのだろう。
男女3人の異変には関係があるのかもしれない。
三人の、人への寄宿ではなく、むしろ三様の脱出なのか。
だが彼女らが、予想以上の吸引力の強さに近寄ることも
できないとは、傲慢も妄想も、ここに極まれりではないか。
むろん、価値観の奪還を説いてきたつもりだが、そのために
相対化させる魅力は、新しさを除けば、まだまだ小さいだろう。
小さいままで良いかの在りかたこそが、大きくも映すのだろうか。
究極の真実には「服従できる」のではなく、真実の全てが
「服従しなければならない」はずだ。そこに王は居らず、親も
居ずで超越主体が無く、平等が簡単に実現されることになろう。
真実が在り、なおかつ、だからこそ、魅力への服従が「許される」
はずなのだ。それは自分が選ぶ、主体性そのものであり、とりも
なおさず、それこそが自分でしかないとするとどうか。倒さなければ
逃げられない、が、それを倒すことは自分を倒すことでしかないなら。
この意味で、それを倒すことは許されず、禁じるのは自分であろう。
ただ一点、それを倒す魅力が優れば倒して生還できるのだとしても。
だが複数の価値意識に囲まれた者を倒す辛苦は各自に必要なのか。
その魅力に身を委ねてよい、その魅力は自分であり、自分に抱かれる
一つの至高の合一の快楽、そういう特異点、ということなのではないか。
(マドは、この潜在力を先に知っていて、免疫があるかもしれない、
マドが、理想化したくても、その魅力が無いからこそ、生じた力に。
ゆえ、マドの自己愛は完結せず、愛し切れなさの差異を楽しむか)