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(回答先: いやがらせじゃないですって! 投稿者 いけこ@負け犬にお成り。冗談ですよ(笑) 日時 2005 年 1 月 26 日 03:16:52)
思考は抽象、作品は写実、なんですね。
一見、スナップ写真(電柱のスナップってのもナンですが)に見えますが
スナップ感覚で撮れないものだということは、私も映像の人間だからわかります。
撮影中、通りすがりの人に、不審がられていることでしょう。
ビデオでもスチールでも、街を撮影したことがある人なら思い当たると思いますが、
電柱、電線は「邪魔もの」です。
けれど例えばどこかの風景や建物を記憶するとき、電柱・電線は記憶から欠落するようです。
記憶をたよりに撮影ポイントへ行くと、邪魔な電柱があったり、電線が何本も走ってたりして
絵にならない、ということがよくあります。
不必要なもの、見苦しいものは記憶から除き、ないことにしているのでしょう。
なんだか「自己家畜化」の一つみたいで、ぞっとします。
駆け出しディレクターの頃は、電柱が邪魔しない撮影ポイントを探すのに苦心したものですが、
ある時、たまたまモニターに映し出された電柱・電線込みの映像が、なぜかとても気にかかり、
それを画角から外して撮ろうとしていたカメラマンに、「電柱込みで撮ってくれ」と
リクエストしたことがありました。
「猥雑さを撮りに来たんじゃないだろ、俺にはわからんよ」なんて呆れながら撮ってくれました。
まあ、制作する作品にもよりますが、生活感のリアリティが違ったのでしょう。
もちろん肯定でも否定でもありません。
切り取った映像で、私は電柱・電線を意識していますが、それを強調するほどの表現には
なっていないし、したくない。
けれど肉眼で見るほど、「除去」もできない。といったところが良かったのかもしれません。
今から思えば、ですが。
電柱・電線は、電気を供給されて、我々が便利で快適に暮らしていることを思わせます。
便利、で思い出しました。
もう亡くなりましたが、祖母に初めて電灯が点いた時のうれしさを聞いたことがあります。
(もっとも婆さんは、ランプのホヤのスス掃除をしなくてすむのが嬉しかったそうですが)
当時はきっと、「あんたのとこにはもう電柱立ったかね?」「うちらのとこはまだや」なんて
待望された頃もあったんでしょう。想像ですが。
それが今は、「まだ地中化してないの?遅れてるわね」なんてことになりつつあるようです。
いつの間にか景観を邪魔する無粋で見苦しい存在になった電柱・電線。
私は時々、それが「便利・快適」とはこういうことだ!と反逆の主張をしているように
思うことがありました。
電線が地中化された街は、我々がどうやって電気を手に入れ、日常生活を営んでいるのか、
ふと立ち止まって考えるチャンスすら奪うようで、不快です。胡散臭くて好きになれません。
「見苦しい電柱・電線がないのがキレイな街」などという価値観を押しつけられるのはごめんです。
そんなことを言うとよく「じゃああるのとないのとどちらの景観が美しいか」と問う人がいますが、
私は迷わず「電柱が無粋に立ち並び、電線が見苦しく張り巡らされた街」だと答えましょう。
電柱のない、すっきりキレイな街を歩くときは、その地下に人の目から隠されてた電線が埋まって
いることを想像しましょう。
電気のない不便な暮らしに戻れるとも、戻りたいとも思いませんが、その痕跡すら消していく
人間の営みの恐ろしさを、自分自身を振り返りながら、ちゃんと見てやろうと思います。
飼い慣らされてたまるかい。