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知識がもつ「2重の使用価値」の“発効”を、基本的なレベルから考えてみましょう。
読書や、紙媒体・電波媒体・電子媒体での情報チェックの感興というものが「学ぶ
楽しみ」や「浸る楽しみ」であるのだとすれば、すでに、そこには第1の効用が成立
しているのですね。さらに取得した情報を活用することによる、好ましい結果に対する「想い」であれ、
形式的な「充足」という(主観的主体側の)満たされかたであれ、それが第2の効用の姿なのでしょう。
情報発信者・情報収集者・情報提供者の立場に成れば、その「役割り」において、
情報を賞味させ、活用させる過程の一翼を担うことで情報を形式的には活用して
いることになるはずです。自身、一助のみならず、むろんフル活用とまではいかなく
とも、提供者として提供内容を賞味しもするでしょうが、何れにしても、その情報は
己に有意だったと看做しうるはずなのです。それ故、情報を応用できず、己を経る
情報を生活運動的な実践に供せない在りようまで問うのは、不要にして余分では
ないかと思うわけです。(※ここでは広く「情報」と呼んでも、知識も含むのですね)
さて社会環境から押し寄せる情報に対し、直接にリテラシーを育てる労がはしさは避けてもよいはずです。ならば
虚偽を真実と称して流す意味での「有害情報」(有害知識)の放散に、如何に対抗できるのか、ということでしょう。
それは、有志が自主発信する真実の情報量を増大させ、受信範囲を真実側への単一指向にと狭窄させることで
混濁の濃度を下げていくことに他ならないですね。これこそが“パブリックな”活動であり、貢献だと思っています。
だとすると、真実の情報が有する自身にとっての有用性を、自身は利用するいとまも無く、知識を応用するに事欠き、私生活では
自滅的に潰れていたとしても、情報を媒介した実績を以て、一定の役割りを果たしえたと評価されることが有ってもよいはずです。
もとより、現‐社会の趨勢を見るに、特定の情報へは「知識という称号」を冠して優先性を与え、
コミュニケーション内容において「知の社会」たる“世俗の位階”を構築していくのですね。なかん
づく「知識」は労働に纏わるものが夥しく見え、労働には「国威」「国防」に関わるものも多いだろうし、
労働は「国富」そのものでしょうから、知識それ自体に無防備である在りかたは、如何なものでしょうか。
有用な知識を労働者がインストールすることで、設備財に位置づけられ、国際競争力のある生産体制の
構築に組み込まれる事態は国策の顕れでしょう。人身の解雇・代替と人身の教化は共に機械化ですね。
体制だけではないでしょうが、同調圧力・同型圧力として趨勢が少数に強いる知識量と、その、
価値づけの「虚偽」性や「脅迫」性には“暴力的なものが有る”と思いますし、知識主義は必然で
知識差別に直結するでしょう。少なくとも、社会環境によって知識の価値が規定されることを常態と
する以上、今の社会状況を肯んじえないのであれば“知識の価値”の次元から社会を疑うこともできる
はずです。だからこそ、俗説・学知を形づくる“知識の価値”の「自他の不共有」をお伝えしたいわけですね。