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話を戻しましょう。
例えば、花崗岩から酸素を抽出する技術をもっているとすると、
それはそれで、大変な知識の“部分体系”だとは思うのですが、
大気中から酸素が得られるなら、または花崗岩そのものが存在しない
場所に在ってみれば、さして重宝される知識であるとも思えないのです。
自然科学ですら、化学合成の法則そのものに(固定的な)価値があるのではなくて、
需要状況といった環境要因によって価値というものが規定されているはずなのですね。
もちろん法則そのものの幾何学的な美を愛でる人も居られるのでしょうが、それは、その人という
「心的な環境」が、その法則の美的な佇まいを有価たらしめているに過ぎないのかもしれません。
つまり、初めから知識に価値が封入されているかの話は錯覚であって、それがいわゆる物象化に
過ぎないのであるなら、売買されない知識についても「知識の減価」が生じるはずですね。知識の
使用価値は様々でしょうから、「どの知識に価値を見出すか」、また「知識に(優先的な)価値を見
出すか」どうか、さらには、その絶対的な程度というものも、まさに個別の判断に委ねられるべきでしょう。
しかし、豈図らんや、(交換価値を介さない)「コミュニケーション市場」においても、コミュニケーション内容
(知識)を評価するに当たっては、趨勢が、その評価基準の優位性を絶対化させがちなのではないでしょうか。