現在地 HOME > 番外地1 > 1288.html ★阿修羅♪ |
|
知識について
番外編
ll 吉村は、頭も志もあるようだし、回答だけはしておきたい。
ll しかし、理解できる柔軟性があるかというと、余り期待はしていない‥‥。
「知識偏重」と言われるまでもなく、当たり前のように知識が罷り通る「情報社会」であろう。
とはいえ、文明を振り返れば「知は力なり」というのは、近代思想の黎明期に唱えられたスローガン、即ち“近代のパラダイム”に過ぎないはずである。
知識というものが、人間にとって根源的な何かを意味するか、逆に言えば、知識の無い人間が、人間の根本を欠落させているかといえば、そうではあるまい。
しかるに、市井の人間は高級官吏も含めて、知識の優位を唱え、物象化した知識を通貨の如くに信仰して生き、信仰したままで死んでいくはずなのだ。
そういう「時代」の空気であるならば、そういう「時代」に順応し、それなりに成功した者は、己の「成功」を信じざるをえないのであり、それ自体が知識で組み上げられたかの、この世界というものを疑うべくも無いのではないか。ある意味、そういう大きな流れに呑み込まれているのだともいえよう。
こうした知識の世界で、謀略があり、情報戦があるのだとする。また謀略の告発があり、謀略の知識が流通しているとする。
しかし、何が謀略かといって「知識を持つ者が(当然)決定権を占有する」という歴史的プロパガンダに優るものはあるまい。
社会構造というものは、まさに知識程度に応じた、決定権の階級分配そのものではないか。また知識が無くては立ち行かない方向へと、生活様式そのものが複雑化されて相乗効果を上げてもいることだろう。
つまり、我々が社会と認識しているこの日常世界そのものが「知の体系」として在り、個々の決定権を徴収し、再編するようにして組まれている集権構造といえるはずなのだ。
この点を見落としていることこそが、搾取というものを財の次元でしか捉えきれていない者の陥穽かもしれない。
もとより思想というのは、文明をあげての最大の情報戦略であり、情報資源であり、各文明間でしのぎを削る、巨大な輸出産業でさえあるはずだ。
その当の思想が、近代においては神の威光よりも、知識そのものを称揚するようになったと映る。
いわば“知は神である”というわけだ。
ところが、その実態といえば、情報社会下の市場経済では、ただ魅力的な知識が買い漁られ、適者生存するに過ぎまい。
そういう競争に明け暮れる原始状態では、知識の内容に正義も悪も無いだろう。情報戦において正義が悪に優るには、正義というものは少なくとも悪と同程度に魅力的でなければならないかもしれない。
ll さて翻って、番外地掲示板において秘密を小出しにする吉村は面白がられても、管理板では荒らしでしかないのではないか。
ll なぜなら切実に訴えても、情緒的な騒ぎ程度の情報価値しか持たないはずだからだ。
ll 決定権を独占する管理人の意に背いて有利なことは少ないと思われる。
ll それに吉村の皇室への抗議運動にしても、言及するのも何だが、全くといっていいほど、組織力・動員力をもっていなかったと思う。
ll 管理人というのは、情報発信の点ではIT知識に通じ、メディアを所有する、さしずめ有産階級といったところか。
ll それでも“真実の声”が全世界的に抑圧されているのだとすると、高慢な有産階級であれ、頼っていかざるをえまい。
ll 支援組織をもたずに真実を訴える、そういう弱みに対して、弁護士や、この種の「知識的に優位な個人」の恣意が必ずといっていいほど立ちはだかるはずなのである。
ll したがって不当な断定的同定、アカウント削除への批判にも情報価値は乏しく、
ll 阿修羅の陰謀批判も、知識を駆使して壮大なものは目を引くにせよ、批判ばかりでは一般多数にとっては然り、
ll 批判野党にしても、批判のみでは「国民」の支持を得られず、ジリ貧の憂き目に遭うはずである。
これは確かに“現実”であろう。しかし、それでいいのか。
少なくとも、1人の「独立した人間」として、この“知は力なり”という伝統的な世界的風潮に与すべきなのか。
知識内容のレベルで争うなら、知識を駆使して魅力的にやればいいのかもしれないし、また、そうするほかないということだろう。
ただ、そうではなくて、学問や思想・教育に対しても根源から異を唱えるのであれば、逆に既成の流通する知識を用いてはならず、より洗練された高度な手法が要求されるはずなのだ。
(その実践に際しては、この闘争の表層における戦況、それにともなう情緒的な美醜の印象など、さしたる問題ではないと思われる。本質において方法論に適合しているかどうかが、専ら問われることであろう)
ll 圧倒的な質・量の「知識の裏」に気づいている私は、私に期待してくれた何人かに、私のやっていることの意味を説明する使命があると思っている。
ll ひとつには陰謀告発、謝罪要求、荒らし的な罵倒、革命主義、反戦平和運動といった「批判(滅却)専従」の惨めな敗退を、最高度に象徴的に自ら演じ、限界づけること。
ll 他方では、しかし、知識をもって知識に対抗するだけの現状追認派、つまり世界政府などの社会設計(構築)という「知識支配主義者」層に対し、割拠・再臨の由緒を滅却すること。
ll こうしたことを課題としつつ、なおそのうえに「およそ流通価値のある知識とは呼べない、個人的でローカルな情報」によって、それなりの魅力を確保しつつ、逆構築していかねばならないはずである。
ll むろん独りでは手に余るが、その全てに自分だけが正確に気づいているなら、その全てを自分で試みるしかないと思っている。