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何故、今、平和憲法を廃棄するのか
私たち日本人は、明治維新で開国後、日清戦争から敗戦までの50年間、日清、日露の戦争、第一次世界大戦(青島攻略)、シベリア出兵、満州事変、支那事変、太平洋戦争と7回の戦争を戦い、外には2000万人ともいわれる中国人民やアジア人を殺傷し、内には350万人の国民が空しく殺されて亡国の憂き目を見た。
多くの国民は戦争の愚かさ、空しさを痛感した。ところが、戦後まもなく、破廉恥、無責任にも再び首相、閣僚、権官たちに返り咲いたA級戦犯とその亜流、及び靖国神社にはその反省はなく、そのマグマが改憲の芽となっている。
しかし、日本は敗戦から今日までの60年、「平和憲法」の下で海外の武力行使は一切禁じる「専守防衛」を国是とし、1人の外国兵も殺さず、1人の自衛隊員も殺されず、稀有の平和を享受し、国際社会、特にかっては日本に侵略されたアジア近隣諸国からも「平和国家」「平和憲法」と賞賛されてきた。戦前の軍部の独走の戒めとして「軍隊」との呼称も自省してきた「自衛隊」も一度も戦争という殺傷行為におよばなかったことを名誉と心得、「日陰者」と蔑視されることもなく、国の内外における災害支援や平和活動は高く評価されてきた。小泉首相も広島や長崎の原爆忌では「平和憲法を遵守し」と声明し、靖国参拝では「心ならずも戦死された英霊」に「不戦」を誓っている。
それなのに、何故、今、慌しく、自民党は、「自衛軍の保持」を掲げ、「専守防衛」の国是を廃し、「平和憲法」の金看板もかなぐり捨てるかと疑われる条項の新設などの「改憲案」を発表したのか。政府も「国民保護法」に基づく国土戦の演習(美浜原発がどこかのゲリラに襲われるという)を予告している。
さらに日本に届きうる距離にある周辺隣国からの対日侵略という「日本有事」の危機を抑止し、または共に戦ってくれるはずとの期待を本旨とする日米安保条約に基づき、日本が過去60年も提供している広大な米軍基地について、冷戦後、その縮小、撤収を願っている沖縄県民など地元住民の意向を全く無視して、今後なおも半永久的に居座り続けるような沖縄県内または本土への移転・強化策が、日米防衛当局のみの案として発表された(沖縄県の稲嶺知事の反対も国と国の約束として米国防長官に一蹴された。彼ら米軍部には日本国民益よりも米軍事権益が優先するのか)。
しかも将来の日本の安全の鍵を握る「6者協議」が続行されているのに、その結果も待たず、米軍の、日本、極東、さらにはアジア、太平洋、中東に至るまでの更なる軍事覇権確立に自衛隊が隷属し、これにまとわりつくような共同作戦や後方支援の詳細が、閣議や国会で討議されることもなく「在日米軍再編――中間報告」として突如発表されたのには驚いた。
自衛隊はガードマンのごとく米軍基地を警護し、宅配業者のごとく国内外の米軍基地間の輸送まで引き受けるという。自衛隊員が哀れである。それほどまでして守ってもらわねばならぬ「核の傘」とか「日本有事」とは何か。そして「平和憲法」にいたるまでの人類の進化とは。
人類の進化――「命どう宝」
百万年単位の人類の歴史は間違いなく進化している。脳容積の拡大など生理的進化は万年単位であろうが、それに沿って「倫理」も確実に進化し、そのテンポは加速している。200年前の米国では奴隷として売買されていた黒人が今や米3軍の長、国務長官、大都市の長ともなっている。日本でも150年前の士農工商の階級制度は、基本的人権が万民平等に尊重される現憲法体制に進化し、婦人の参政権も認められた。そして何よりも2000年の「天皇主権」は「国民主権」に進化した。世界の植民地は一掃された。
そしてこの倫理の進化の方向は、全ての人間が平等にその命、基本的人権が至高の価値と尊重されていくその量の拡大の方向にある。まさに「命どう宝」である。国連憲章も「我らの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値をあらためて確認し」、日本国憲法も「国民は、全ての基本的人権の享受を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民にあたえられる」と定めた。
個々の生命に至高の価値があるならば、これを殺し合う戦争こそ人類最大の愚行であると言わねばならない。
そのため国連憲章も日本国憲法も「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めた。小泉首相が防衛大学校卒業式の訓辞で「人類の大義」と称した米国のイラクへの一方的な侵略は明らかに国連憲章違反の無法である。日本国憲法はその前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と謳い、第九条二項には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とまで定めている。
たまたま私はかねて畏敬していた英国の歴史学者アーノルド・トインビー氏が公明党生みの親の創価学会名誉会長池田大作氏と対談した記録を読んだ。トインビー氏は「戦争は悪です」と断言し、「国家のために自分の生命を戦争で犠牲にしなければならない良心的義務は、私にも他の市民にもないと考えています。もし日本が憲法第九条を廃棄するとしたら、いや、さらによくないことは、廃棄せずにこれに違反するとしたら、それは日本にとって破局的とも言うべき失敗となるでしょう」と語り、これに池田氏も「現代における生命軽視の風潮を生み出している最大のものは戦争です。戦争は、多くの場合、国家がその利益のために人間の生命を手段化し、犠牲にするもので、これ以上の罪悪はありません」「戦争は絶対悪であり、人間生命の尊厳への挑戦です」と同調している。今、自民党と手を結ぶ公明党の憲法観を質したい。戦前の名提督岡田啓介海軍大将は「武人はその現役中、戦の無かったことをもって至上の名誉と心得よ」との名言を残した。
日本の有事と在日米軍
有事とは戦争である。かつて日本の戦争は全て海外の外国領土に出兵して戦った。それは日本が小さな島国であり、海外に紛争の種となる植民地や鉄道、居留民や租界地を持っていたからであろう。戦後の日本はこのような海外の国家権益は無く、島国に閉じこもり、自衛隊は保持しても海外での武力行使は厳禁し、平和憲法と専守防衛を国是として60年の平和を守り続けてきた。戦後の有事とは「国土の戦場化」のみである。
それは日本に届き得る距離にある周辺隣国―即ち中国、ロシア、南北朝鮮―の4国のいずれかの国が少なくとも10万の大軍を率いて一方的に日本本土に上陸侵攻して来る時でしかない。さきに有事法制として立法された「武力攻撃事態」がそれである。
しかし、常識がある者から見れば、前記の4隣国にそのような対日侵攻の名分やメリット、能力の無いことは明らかであろう。今回発表された「在日米軍再編――中間報告」も、このような4国からの本格的な対日上陸侵攻などには一切触れてもいない。
国民保護法による国土戦での国民保護を担当するはずの自衛隊員、警察官、消防員、自治体職員は一体、どこまで、どのように国土戦とその勝敗、犠牲者等を想定しているのか。もちろん、私はそのような有事は起こり得ないと確信している。「武力攻撃事態法」を立法した内閣、国会議員、関係当局者には国家総動員の覚悟もあったはずである。国土が戦場になると云うのだから。
かってチェルノブイリ原発事故に遭遇した当時のゴルバチョフ・ソ連大統領は「今の欧州には200基の原子炉、巨大な石油化学工場が400箇所存在する。核兵器や大量破壊兵器を使うまでもなく通常兵器でこれらの施設の十箇所も爆砕すれば、もはや欧州に人間が住めなくなる」と人類に警告している。
今、この小さい島国で1億2000人の国民は8000万台の自動車、53基の原子炉、巨大な石油化学工場、石油やガスの一大備蓄基地、乱立する大都市郊外の超高層ビルらと共存している。いかに米軍の支持があろうとも本格的な国土戦は戦えないというのが偽らざる実態ではないか。と同時にそれは起こりえない虚構でもあろう。
「不戦」一途に政治、外交、防衛各当局者の献身による平和の永続に期待するほかはないし、それは可能である。
かって私が防衛庁に入庁した当時、陸上自衛隊は自分たちの唯一の出番と心得ていた極東ソ連軍の北海道侵攻を要撃する演習に在日米軍が参加してこないのが不満であった。「一体何のための日米安保か」と陸上自衛隊は怒ったが、米軍は「冷戦下のソ連軍は西に200万のNATO軍、南に中国の400万、東に200万の米国軍と一触即発の対峙の中で、どうしてノコノコと日本のみに一方的に侵攻して来る馬鹿があるか」と陸自案を一蹴したという。
私の退官直後、当時の中曽根首相は国会で「日本の有事とは」との質問に「ソ連が一方的に日本のみに侵攻して来るという軍事シナリオはナンセンス。欧州や中東で勃発した米ソ戦が3海峡の攻防を巡ってアジアに波及してくる時が日本の唯一の有事」と答えた。歴代首相の中で、日本の有事は「巻きこまれ有事しかない」と具体的に語ったのは中曽根氏1人である。
冷戦後の1995年は米兵による少女暴行事件が沖縄で発生し、県民挙げて米軍の撤退を求めた。この時応対した米国防次官補ジョセフ・ナイ氏は朝鮮半島38度線における北朝鮮軍百万人の配備を理由に韓国、日本を合わせてアジアに10万人を駐留させざるを得ないと弁明し、ほぼ10年先に南北朝鮮が和解すれば在沖米軍もハワイに移駐できようと語った(この時、左近允元海将は「それならば在沖米海兵隊は韓国に移駐させよ」と主張した)。
沖縄戦争の末期、自決した大田海軍司令官は県民総ぐる身の戦闘支援に感涙を拭いきれず「沖縄県民かく戦えり。後世格別のご高配を賜わらんことを」との海軍次官宛の烈々たる決別電報を送った。
戦後60年、今なお続く在沖米軍の重圧に、沖縄県民、戦死した兵士、県民の亡霊に、歴代首相、防衛庁長官、外務大臣は何のかんばせ(顔)あって会いまみえる所存か。「沖縄県民を守るため」と在沖米軍司令官が弁明するとすればそれは虚言である。沖縄県に侵攻してくる隣国はどこにも存在しない。
本土でも戦前の60年帝国海軍の鎮守府が存在した栄光の街、横須賀、佐世保の市民は戦後の60年は米空母をふくむ米機動艦隊に母港を提供する恥辱に泣く。かつて孫文は「日本は、西洋覇道の走狗となるのか、東洋の王道の干城となるのか」と戒めた。日本は今も在日駐留も含む米軍の庇護が本当に不可欠なのか。軍事的隷属が不可避なのか。
「自民党新憲法草案」を憂う
敗戦後の憲法で、連合国はいささか理想案に傾きながらも日本の非軍事化を企図したが、日本は第2次世界大戦後の世界の反戦思潮に応じ、逆に居直って「陸海空軍その他の戦力を保持しない」を世界及び日本国民の向かうべき目標として掲げた。そして現実には周辺国に軍事力が存在するかぎりギリギリの自衛力の保持は憲法も禁じていないと解釈し、憲法の趣旨からも海外での武力行使は一切禁じる「専守防衛」を国是とする国防方針を確立してきた。
国連創設40周年総会に出席した中曽根首相(当時)は「日本国民は、祖国再建に取り組むに当たって、人類にとって普遍的な基本的価値、すなわち、平和と自由、民主主義と人道主義を至高の価値とする国是を定め、そのための憲法を制定しました」と自主憲法を世界に誇り、「わが国は、平和国家を目指して「専守防衛」に徹し、二度と再び軍事大国にならないことを内外に宣したのであります」と結び、「来世紀に再びハレー彗星が地球に近づく時、我々の子孫が核兵器の廃絶と全面軍縮を成し遂げたことを誇れるように」との名文句で日本国憲法第九条に期待している。
戦後60年、歴代政権が一貫して語り継いできた防衛政策は世界に恥ずべき詭弁と謝罪すべきものなのか。自衛隊員は「日陰者」と恥じてきたのか。練習艦隊は世界各地で歓迎されている。イラクに派遣された自衛隊は武力行使が禁じられていることを理解されて、オランダ軍や英国軍は心温かく庇護していてくれている。小泉首相が現在の憲法では米国や多国籍軍に十分な支援ができないと改憲をほのめかすのは専守防衛の枠を外そうとするからである。
米国を除く世界は日本にそのような要求はしていない。何故、自衛隊は「軍」でなければならないのか。国家が「軍」一色に変貌したときが恐ろしい。日本では政治家も経済人も、とりわけマスコミが軍に弱い。
やがて自衛隊全体が内部の呼称なども軍事色に変貌しよう。防衛庁内局も陰に回されないか。故後藤田正晴氏は「蟻の一穴」を恐れ、元防大校長猪木正道氏も「私は護憲論者である。なぜかというとこれをいじりだしたら、とてつもなく右傾化してしまう。日本の軍国主義的性質は本当に恐いよ」と警告している。
さらに問題は自民党案の第九条の二、「自衛のための必要な限度での活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和及び安全の確保のために国際的に協調して行なわれる活動」である。ここでは従来の「平和憲法」の鍵である「専守防衛」の国是が廃され、「国連」の名が出てこない。これでは同盟国米国やこれに関連した多国籍軍にも自衛軍は参戦し、海外でも武力行使が可能となろう。そこで戦死した隊員の家族の嘆きはいかばかりか。任意制の自衛軍は離隊者が続出し、志願者は激減しよう。行く道は徴兵制か。
なお現行では自衛隊法に記述されている自衛隊の「治安出動」が憲法の用語となり、到るところで「公の秩序に反しない限り」の連発で軍の公安維持介入が恐ろしい。「平和憲法」「専守防衛」の金看板を廃棄するのは、わが国の安全保障と徳義のため、かつ、周辺隣国への影響からも余りに惜しい。改憲に何のプラスがあるのか。日本は現在その徳義上かつ安全保障上からも朝鮮半島の平和に最大限の貢献を尽くすべきであり、改憲などはその後の問題と私考している。
註 現在の日本が北欧諸国やカナダと同様にイスラム原理主義者を敵視していない以上、米国や自衛隊が警戒しているような日本国内へのテロ侵略を恐れる必要はない。米国などのイスラム攻撃に加担しないかぎりは。
(竹岡勝美)
◇
<編集部注>
この原稿は軍縮市民の会・軍縮研究室発行の『軍縮問題資料2006年1月号』から発行者の許可を得て転載しました。筆者の竹岡勝美さんは、元防衛庁官房長です。
『軍縮問題資料2006年1月号』の内容についての情報はこちらへ。
『軍縮問題資料』HP:http://www.heiwa.net/
http://www.janjan.jp/government/0512/0512080131/1.php