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Baghdad Burning
バグダードバーニング by リバーベンド
... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...
友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。
http://www.geocities.jp/riverbendblog/
2005年11月18日 金曜日
恐怖の館(やかた)・・・
いま町の話題は、ジャドリヤで見つかったという拷問ハウスのこと。 http://news.yahoo.com/s/nm/20051115/ts_nm/iraq_abuse_dc_1
[11月15日付けロイターの記事。13日日曜夜、米軍の強制家宅捜索により、バグダード市内の内務省の建物の地下に161名が拘束されているのが発見された。そのほとんどが栄養失調で虐待の跡があった。]
世界中の人の前に、ジャドリヤのこの拷問ハウスのことが明らかになった。米軍が近頃捜索したのだ。かつてのジャドリヤはバグダードで最高の地区の一つ。川が流れていて、豊かな緑と清潔さでほかの地区とは一線を画していた。バグダード最大の大学、バグダード大学はジャドリヤにある(別の地区にキャンパスがもう一つ)。ジャドリヤにはすてきなお店やレストランがあって、もちろんバグダードで有数の優雅な邸宅の数々も・・・ところがいまや拷問ハウスがあるという。[ジャドリヤとバグダード大学については、2003年11月9日にも書かれている]
このような拷問牢については、たえず噂があった。戦争直後からすでに、これこれの地区と名があがっていた。なぜ「拷問ハウス」かといえば、見ればわかる。以前はふつうの住宅だったのだ。それがいまは、容疑者と無実の人々に対する拷問施設になってしまった。イラク政府は都合よく「拘束施設」と呼んでいるけれど、イラク内務省が所管し経費も出している。
戦争直後から拷問ハウスで名をはせたのは、バグダードのサドル・シティだ。当時は拷問ハウスとは呼ばれなかったけれど。そこを取り仕切っている連中は、「裁判所」だと言っていた。尋問のためといって容疑者(たいてい普通の市民)を連れ込んでは、罪状や容疑を自白させようと殴打し折檻するのだった。殴打が続くうち、「サイード」なる人物が入ってきて、罪人に刑を宣告する。刑は、時に手や足の切断もあり、死ということもありえた。私たちはこういうことを、おばの近所の人から聞いて知った。その人は誤って捕らえられ、前治安要員の容疑者とされて殴打された。たまたま家族が地区の有力なシーア派法学者とコネがあったから、生きてこの人を助け出すことができた――ぶちのめされ傷だらけになって、でもともかくも生きて。
このような拷問ハウスは、占領が始まってからずっとあった。イラク・イスラム革命評議会(SCIRI)が背後にいるということは広く知られていたけれど、ほかの宗派の政治団体だってきれいな身ではない。アメリカはその存在を知っていた――なのに、この突然のショックと怒りは何? グリーンゾーンのアメリカ人にとっては、ぜんぜん耳新しいことじゃない。このタイミングはたいへん興味深い。このたびの捜索が白燐弾攻撃の全貌が明るみに出た直後に行われたということが重要なのではない。ペンタゴンと米軍が、目くらまし戦術采配の頂点にいるということが明らかになったことが重要なのだ。
つい昨年もガザリヤという地区で、こういうハウスが発見された。今度のより小規模なものだったけれども。いとこがガザリヤに住んでいて、彼の言うには米軍が中に入ったとき、遺体数体と天井から当座の縄でつるされた人を発見したという。近隣の人は何カ月も前から米軍に捜索させようとした。が、気にする者はなかった。米軍はようやく強制家宅捜索に入ったが、それは地区の誰かからその家が暴徒の隠れ家だという情報を得たからだった。昔こんな話を読んだことがある。ニューヨークでは、レイプされそうになったら、「レイプだ!」ではなくて「火事だ!」と叫ばなくてはいけない。「レイプだ!」と叫んでも、誰も助けに来てくれないからだ。イラクの拷問ハウスについても同じこと。捜索させるには、テロリストの巣だと言うしかない。
さらに――ニュースで新生イラク治安部隊の凶行が語られるとき、「内務省の制服を着た男たち」とか「公用車に乗り内務省から来たと言う男たち」とか言うときがあるのに気がついている? それはこういうこと。男たちは「自称している」のでも仮装しているのでもない。「ほんとうに」内務省から来たのだ。イラク人や人道団体を怒らせないために、こういうことはこっそりやるだろうとふつう人は考えるものだ。だけど、SCIRIやダーワ党にとってそんなことは問題じゃない。彼らは民心を獲得しようなんて思っちゃいないからだ。[SCIRIとダーワ党は、1月30日の暫定国民議会選挙で過半数を占めた統一イラク同盟の中心的シーア派政治団体]彼らはアメリカのお気に入り。新生イラクでやっていくのにこれ以上のものがある?
ここ1年以上もバグダードのいたるところで、遺体が思いがけなく見つかる日々が続いている。深夜家から連れ去られた人々の遺体が(最近ではもっと図々しく――連行だろうが何だろうが白昼はばかることなく行われる)、どこかで遺体となって現れる。そのこと自体はたいしたことじゃない。遺体について聞かされることに比べたら。どうしても頭から振り払うことができないのは、遺体の多くは、頭蓋骨に電気ドリルで開けられた穴があったというもの。
アブグレイブ行きはまだラッキーな気がする。
それに、姿を消すのは「暴徒容疑者」だけではないのだ。イラク治安部隊は、地区を襲って隈無く調べ上げ、スンニ派地区では特に12歳から60歳の男性であれば誰でも拘束することで知られている。こういう「テロリスト容疑者」が狩り立てられて連れ去られる。そして、今日にいたるまで行方知れずとなる。
バヤン・ジャブル内務相(SCIRI殺人強盗集団政府のイタリア製スーツに身を固めた高官)は、これっぽっちの隠し球でイラク国民を懐柔しようとしている。
「・・・収容者にはスンニ派だけでなくシーア派もいます・・・」
[11月17日付けAPの記事。イラク内相は同日、収容者はスンニ派だけでなく、拷問と先に伝えられたニュースは誇張であり、傷を負ったものはわずかであったと述べた。]
SCIRIとダーワ党の拷問実行者たちが宗派によって差別しないと知ってぐっすり眠れるようになるわ――新憲法とアメリカ軍のお導きとペンタゴンのお恵みの下で――すべてのイラク人は平等に拷問されるのですものね。
午前0時02分 リバー
(翻訳 池田真里)
2005年11月17日 木曜日
通常の恐怖…
これがコンピュータのデスクトップに5日間居座っていた。 http://www.rainews24.rai.it/ran24/inchiesta/video/fallujah_ING.wmv
[2005 年11月9日にイタリアニューステレビ局Rainews24で放送されたドキュメンタリー番組の映像。2004年11月の米軍によるファルージャ攻撃で化学兵器(白燐弾)が使用されたこと、また攻撃対象には一般市民も含まれていたことを元米兵の証言などから立証]
この映像のことをインターネット上のあるサイトで初めて読んだ日、心が重く沈んだ。ファルージャで白燐弾。もちろん白燐弾についてはなにも知らなかったけれど、詳しいことは知りたくないという思いが私の内にあった。映像を4回もダウンロードしようとしたのに4回とも接続に失敗して、少しほっとした。
E.もこの映像のことを聞いていたのだが、とうとう友達のS.が映像をCDに入れて持ってきた。 S.とE.は部屋に閉じこもって、コンピュータでこの短いドキュメンタリーを観ていた。30分後、E.は部屋の外に出てきた。顔は青ざめ、唇を真一文字に結んでいた。物思いに沈んでいるときの表情だ。できれば話題にしたくないことについて考えるときの。
「ねえ、私もそれ観たいな…」S.と戸口に向かうE.に、私はおずおずと声をかけた。
E.は言った。「デスクトップにあるよーでもほんとは観たくないんでしょ」
それから5日間、私はコンピュータを避けていた。だって、電源をいれるたびに、そのファイルが私の目を捉え、呼びかけるのだから…あるときは悲しげに観てくださいと懇願し、あるときは怒りをこめて私の無関心を非難する。
無関心どころじゃなかった…私の胃に深く腰を下ろしていたのは、一種の怯えだった。小さい石ころを一ダースも飲み込んだような気がした。私はそのフィルムを観たくなかった。頭の中にしみついている殺された市民たちの映像が中に含まれていることを知っていたから。
米軍がファルージャで化学兵器を使用したことについて疑いを持つイラク人はほとんどいない。かれこれ1年以上も前から、にんげんが骨になるまで燃えてしまったというおぞましい話を聞いてきた。だけど私はそのことを確認したくなかったのだ。
私はそのことを確認したくなかった。ファルージャで起こった残虐行為を確認するのは、アメリカ占領下で私たちがイラク人としてどれほどのものを失ったかを証明することを意味するから。そして、全世界が信じられないほど役立たずだと証明することを意味するからー国連、コフィ・アナン、人道支援機関、聖職者たち、法王、ジャーナリストたち…なんでもいいから挙げてみて。私たちはもうなにも信頼することができなくなってしまった。
私はついに勇気を振り絞って映像を観た。そこにはもっとも恐れていたものがあった。この映像を観ていると、内側に侵入されたような気がした。だれかが私の心の中にしのび込んで、私自身の悪夢をこの世に持ち込んだのじゃないかと感じた。男の、女の、子どもの死体の映像が次から次へと続く。あまりにもひどく焼かれ、傷つけられているので、男性か女性か、子どもか大人か、見分けるには、身に着けた衣服で判断するしかない。衣服だけは不気味なほど無傷なのだーまるで、どの死体も骨になるまで焼いてしまった後に、日常の衣装でやさしく着飾らせたかのようだーレース襟がついた水玉模様のネグリジェ…木綿のパジャマを着た女の赤ちゃんー小さな耳には小さなイヤリングが揺れて。
眠っているうちに穏やかに亡くなったかのようにみえる人たちもいる…ひどく苦しんだようにみえる人たちもいるー皮膚が完全に黒く焼けて、焼け焦げた骨から滑り落ちている。
この人たちにどんなことが起きたのだろうと想像してみる。たぶん、自分たちの家で身を寄せ合っていたのだろう。ある人たちはー何十、何千人もの人たちは、町を離れることができなかった。輸送の手段を持たなかったか、あるいはたんに行き場がなかったか。自分たちの家に留まり、アメリカ人について言われていることがほんとうであるようにと望んでいたー巨大な乗り物や無尽蔵な兵器を持ってはいるけれど、彼らも人間なのだと。
そこに爆弾の雨が降り注ぎはじめた…ミサイルがヒュ〜〜ンと落ちてくる。目標に当たって爆発する音…爆発に対してどんなに覚悟を決めたつもりでも、いざ爆発音がするといつもたじろいでしまう。想像してみる。子どもたちは耳を覆っただろう。なかには泣き出す子もいただろう。戦争の機械音を人間らしい泣き声で消してしまおうとして。戦車が近づくにつれ、戦闘機が低く飛ぶにつれ、恐怖は増してくるー親たちは顔を見合わせ、互いの表情を探りあい、恐怖から抜け出す方法を考える。我が家で待つと決めた人たちもいただろうし、いちかばちかで外に出た人たちもいただろうー次の瞬間には自分たちの墓に変わってしまうかもしれない家の中に閉じこもっているより、降り注ぐコンクリートと鋼鉄を恐れながらも外に出たほうが生き延びるチャンスがあると考えて。
それは、アメリカ人たちがやって来るより前に私たちが聞いていたことだったー空襲のときは屋内にいるより外に出たほうが安全だよと。屋内にいると、近くを飛ぶミサイルが窓ガラスを砕いて無数の短剣に変えてしまうし、壁は崩れ落ちるだろう。庭か、それとも路上ならば、よほど近くで爆発が起きたときに爆弾の破片が飛んでくることさえ心配すればすむーそんなことが起こる可能性はいったいどのくらいある?って。
それは2003年よりも前の話…そう、確かにファルージャよりは前のこと。
それは、家から逃れ出た男たち、女たち、子どもたちが、結局爆弾の雨に飲み込まれてしまうより前の話。
去年私はファルージャについてブログし、こんなことを書いた。
「クラスター爆弾はじめ禁止兵器が使われているという噂だ。」 [2004年11月10日付のブログより 同年11月29日のブログでリバーはファルージャ攻撃での化学兵器使用について詳しく書いた。しかし、現在、原サイトでは11月29日の記述は削除されている]
そうしたら即座にアメリカ人たちからメールの集中砲火を受けた。いわく、私は嘘つきだ、どこにも証拠がないじゃないか、アメリカ人がそんな恐ろしいことをするわけがない!今、あの人たちがどうやってこのことを正当化するのか知りたいものだ。ショックを受けてる?イラク人は人間ではないと自らに言い聞かせている?それともただ否定するの?
最近、国防総省の広報担当官はこう述べている。 「これはわれわれの通常兵器のリストにあるものだ。われわれは他の通常兵器と同様にこれを使用する」
http://news.yahoo.com/s/nm/20051116/pl_nm/iraq_usa_phosphorus_dc_2;_ylt=AgdFF_4lSCBbdFP64V7ORgZsb
EwB;_ylu=X3oDMTBiMW04NW9mBHNlYwMlJVRPUCUl
[ 2005年11月16日付ロイターの記事。同日、米国防総省が昨年11月のファルージャ攻撃において白燐弾を使用したことを認めたが、白燐弾は化学兵器ではないと主張し、また、市民に対して使用したことを否定した、とある]
この戦争は「通常の」と言う言葉を定義しなおした。残虐行為が新しい段階に入った。今まで私たちが知っていたことはもう時代遅れになってしまった。「通常の」が恐ろしいことと同義語になったのだ。通常兵器とは、白い炎で皮膚を焼き尽くすもの。通常の尋問方法とは、アブ・グレイブやその他の捕虜収容所で行われたようなもの…
まさに…通常の恐怖。
午前1時32分 リバー
(翻訳 伊藤美好)