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60年前の沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結した直後、本島北部で米兵が民間人を殺害した事件を記録した文書と、殺害現場を撮影した写真が米公文書館で見つかった。発見された文書は米国陸軍司令部記録で、上官を日本兵に殺害されたと思った米兵が復しゅうのために民間人を銃殺する様子や米兵ら約30人の尋問がつづられている。戦時の米兵による民間人殺害行為の記録が見つかったのは初めて。今年9月に琉球大学の保坂廣志教授が発見した。保坂教授は「戦場では米兵も日本兵と同じように民間人を虐殺していた。戦時中の女性への暴行事件など沖縄戦の闇の部分について今後も資料収集する必要がある」と分析している。
発見された文書によると、1945年6月24日、国頭村辺土名で米第10軍第27歩兵師団所属の第568通信対空警報大隊が日本兵の急襲に遭い、大尉が殺害された。翌日、急襲された場所を捜査した別の部隊が民間人の男性3人を拘束した。
民間人3人は、軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問された後、身柄を2人の中尉に引き渡された。文書では「1人は敵兵(日本兵)である疑いがあった」と記述している。
中尉は民間人3人のうち2人を約180メートル先にある墓穴のような穴を掘った場所に連行した後、そのうちの1人を上官の命令で銃殺した。殺害時、周囲には25―45人の米兵が取り囲んでいた。
このほど見つかった尋問調書によると、生き残った民間人の男性(当時21歳)は「銃声を聞いたかどうか尋ねられ、『聞いた』と答えると『(彼の)命はもうない』と言われた」と証言しているが、もう1人の男性の証言は記されていない。
調査官は「処刑の場面には軍政府の責任者がおらず、直接の責任を取る陸軍の将校も不在だった」「拘束された民間人らは軍法会議にかけられたわけではなかった。事件は張りつめた感情と暴力的な士気によって起こされた」と結論づけている。
事件に加わった中尉らは7月中旬に軍法会議にかけられると記述されている。
米軍は45年6月21日に沖縄戦の終結を宣言。23日から本島全域で全面的な掃討作戦に入っていた。
保坂教授は「詳細な尋問記録が残っているのは異例。民間人が不審な挙動によって米兵に虐殺されたと言われるが、この資料で明らかになった。戦場の残虐さを伝えている」と分析している。
(11/18 9:59)