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日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
第四編 治安維持法と政治運動
第一章 治維法・特高・憲兵による弾圧
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-122.html
第二節 流言飛語の取締り
以下に官憲の目にとまった言動のうちいくつかを年代順にあげておこう。
岐阜・陶器画工・二四歳――「今度の支那との戦争は侵略的である。支那と戦争して領土を占領しても我々無産者には何等の利益等ない。結局戦争は資本家が金儲けするだけでこんな侵略的戦争は反対だ。早く止めて貰いたい。仕事がなくなるから。」(数回にわたり数名に宣伝、一九三八年二月、造言飛語罪で禁錮四ヵ月)
和歌山・農業・五二歳――「今年は百姓は悲惨なものだ。連日の降雨のため麦や罌粟は皆腐ってしまった。これは今度の戦争で死んだ兵隊さんの亡魂が空中に舞っているから、その為に悪くなるのである。戦争の様なものはするものではない。戦争は嫌いじゃ。」(理髪店で話す、同年五月警察犯処罰令で科料一〇円)
岐阜・畳職・五二歳――「こんなに働くばかりでは銭はなし税金は政府から絞られるし全く困ってしまった。それに物価は高くなるし仕事はなし、上からは貯金せよといって絞り上げる。実際貧乏人は困っている。よいかげんに戦争なんか止めたがよい。兵隊に行った人の話では全く体裁のよい監獄じゃそうな。兵隊もえらいしええかげんに戦争は止めたがよい。日本が敗けようと敗けまいと又どこの国になっても俺はへいへいといって従っていればよい。日本の歴史なんか汚れたとて何ともない。」(或一人に話す、同年九月、陸軍刑法第九九条違反で禁錮六ヵ月)
福岡・理髪業・三一歳――「皇軍兵士が戦死する場合無意識の間に天皇陛下万歳を叫んで死ぬ様に新聞紙に報道されているが、それは嘘だ。ほとんど大部分の者は両親兄弟妻子恋人等親しい者の名前を叫ぶということだ。」(数名に話す、同年一〇月、陸刑九九条で禁錮五ヵ月)
岡山・製繩職工・二四歳――落書「労働者諸君賃金待遇に不平はないか、資本家はもうけているぞ、ファッショ倒せろ、賃銀値上せろ、涸落政党打倒、戦争する軍事費で失業者にパン救済せよ。」(同年七月二個所に落書、三九年三月、不敬罪で懲役二年)
東京・飛鳥山公園便所に落書――「正義を愛する者は戦争に参加するな。」(三八年九月、捜査中)
山形・応召軍人妻・三三歳――「兵たいさん父さんおかいしてくださいおねがいです。母さん病きでねています。私はまいにつないでいます。ごはんないのでばはいやにいもおもらった父っやんおかいしください。兵たいさんめくんでください母っやんぜにかないています。」(同年一〇月、歩兵三十三連隊本部へ投書、説諭処分)
北海道・農業(区長)六五歳――「農家ではこの忙しい時に兵隊には取られるし頼りとする馬も徴発され仕事をするに大支障がある。とにかく戦争等は早く終って貰いたいと念願している。もう戦争は嫌になった。」(三九年二月、産組事務所で数名に話す、戒飭)
石川・学生――第四高校内三教室に不穏落書(黒板に白墨で)「………この社会的動乱の渦中、立って賢明なる諸君は苛酷なる搾取と残虐なる戦争とを事とするブルジョアジーの味方をするか、それとも人間性の尊重と共存共栄との社会主義社会の建設を目指すプロレタリアートの味方をするか(授業が始ったら消して下さい)」および不穏文書(教壇教師用机の前方に「侵略戦争絶対反対」、「ファシズム反対」の小紙片貼布)。(検挙送局)
福島・農業女性・三八歳――「国家なんて虫の良い事ばかりするものだ。足袋もなくて働け働けといわれても仕方がない。それに増税だ何だと是では百姓がやりきれない。是も戦争がある為だから戦争なんて敗けてもよいから早くやめて貰いたいものだ。」(一九四〇年、厳諭)
岐阜――四〇年四月、二名の家人を前に新聞掲載の皇太子の写真に、「こんな良い服や靴を着て何じゃ、我々国民があって初めてこんな良い服が着られるのだ、こんなもの何じゃ」といいつつ該新聞紙をクシャクシャに丸め、これでストーブ上の油を拭き廻したのち「こんな者は早く死んで了え」とストーヴの火中に投じた。(七月、不敬罪で送局)
山梨・芸能人(石田一松)、三九歳――同年五月甲府の劇場において、「稼いでも稼いでも喰えないに、物価はだんだん高くなる、物価は高いのに子はできる、できた子供が栄養不良、いやにしなびて青白く、あごがつんでて目がくぼみ、だんだん細くやせてゆく、日本米は高いからパイノパイノパイ、南京米や朝鮮米でヒョロリヒョロリヒョロリ」なる歌詞の時事小唄を演奏した。(演奏中止、厳重戒飭)
千葉・五九歳――同年八月、小学校の時艱克服聖戦完遂村民総動員大会の席上で、「我々は今子供を二人も戦争にやっているが、もう戦争も大概に止めて貰いたいものだ」と発言。(厳重戒飭)
和歌山・警察署長あて投書(新聞の皇族写真同封)――「署長以下署員皆様この御写真を見て如何に思うか。新体制が叫ばれている折今日この二方の服装はどうだ。上等の高価の毛皮の襟巻を着て堂々と新聞紙上に出すではないか。下人民の手本となるべき人はこの様な派手なことをするとは陛下の赤子として立腹の至りだ。現下の国民はいかなる苦難を忍びつつあるか。我々の生活の有様を推察せられ前記御二方へ厳重御意見を直接宮中へ出されよ。なお新聞紙に反答せられたし。一市民より。」(同年一一月、捜査中)
大阪・五一歳――「天皇陛下も人間なら我々も人間だ。天皇陛下が米を食べられるのに我々国民が米を食べられないはずはない。天皇陛下が米を食べられないのなら、自分も食わずに辛棒する。我々は銃後の産業戦士だ。このような事で銃後の治安もくそもあるか。」(一九四一年二月、米穀共同販売所で発言、不敬罪としで送局)
長崎・海軍徴用工員二名・三二歳および二七歳――一九四一年四月、両名は公休日に郷里に行き帰途の列車内で「オイ皇太子殿下に会って来たか(子供の意)。」「皇太子殿下に会わんが皇后陛下に会って来たよ(女の意)。」……と不敬会話をなし居るを同乗の移動警察官が検挙。(徴用工員のため憲兵隊に引継)
山梨・農業・三九歳――「先日自分の出した供出米が一俵不正だとかで村の連中がとやかくいうが、あの位の事が悪いなら何の法律でもよい罰してもらいたい。このように種々と窮屈になったのも戦争のためでこの戦争を誰が頼んだものではない。政府が勝手にやっておるのでこんな事が永く続けば銃後はやりきれぬ。」(同年八月、某宅で雑談、科料五円)
新潟・教諭・三七歳――同年九月、農林学校三年生四二名にたいし作文授業中、与謝野晶子作「君死にたまふことなかれ」の歌を板書し、生徒に筆記させ、「天皇は身自ら戦の庭に立たぬのだから我々も戦死する必要はない」との趣旨で説明を加えた。(厳重戒飭)
兵庫・工場寄宿舎舎監・四一歳――事変に応召して召集解除となったが、戦地より支那軍捕虜殺戮現場写真等を持ち帰り、一九四一年九月以降一〇月、職工にたいし継続して、前記写真を提示しつつ、皇軍を誹謗し反戦反軍言辞を弄す。(四二年一月、神戸区裁で禁錮六ヵ月)
北海道・訓導・二二歳――四一年一〇月、主として校長にたいする反感より、校長宅不在中、奉安所鍵を持ち出して奉安所を開扉し、箱中より今上陛下御真影および教育勅語を持ち帰り、火鉢にてまず教育勅語に火をつけ、更に御真影を焼却した。(一一月、懲役三年判決)
群馬・農業・四五才――「日本もハアどうすることもできなくなってしまっただからね、皇族だっても我々と同じ国民ではないか、宮様の御祝儀だなんてあってこともない騒ぎをして一体皇族なんてものは何をして食っているんだべ。」(同一〇月、区長宅の常会席上、二二名の前で発言、一一月不敬罪で送局)
大分・日稼・四四才――一九四二年三月、常会席上班長から国債購入の勧誘を受けたのに対し、「自分達はその日稼の苦しい生活をしているものだ。こんな事は下の者に無理にいうより戦争を止めるのが一番良い。そうすれば国債を売付ける必要がない。無理に戦争に勝とうとするからこのような国債売までするのだ。早く戦争をやめてもらいたい。」(検挙)
東京・代議士(尾崎行雄)八四才――同年四月の総選挙に応援弁士として五回演説した際の言辞、「優れた天皇陛下がお出になってもそのお方が御在世の間は実に良い仕事ができますが、その次のお方が必ずしも同じ様でない時には今度は度々悪くなります(注意)……明治天皇陛下の聡明な御方が御崩れになって今日は二代目、三代目(注意)……。」(強制収容、起訴決定、取調中)
岡山・役場吏員・三八才――十数回にわたり町村長、農会、警察署長等に投書、「商人丸丸と肥り、農村子弟戦場に血を流す。」「米の供出を御命令になるのは良家が闇をしている事になる。農家の親分として言分がある。農家の子弟が戦場で血を流し商人が儲けている。御承知あれ。」(六月、言論出版集会結社等臨時取締法ならびに臨時郵便取締法違反として罰金一〇〇円)
大阪・鉄工仕上工・二○才――六月中旬工場において八―九名にたいし、「こんな戦争は勝っても決して我々労働者には何の得にもならぬ。お上の人は闇をしてはならぬと強調しているが、その人達が何をしているのか判ったものではない。」「天皇陛下がなければこんな戦争をやる必要はない。」(一〇月、言論出版集会結社等臨時取締法一八条違反として略式命令により罰金五〇円)
神奈川・農業・四九才――四一年六月、国民学校における故陸軍兵長の村葬に参列し、埋葬に行く途中、村長にたいし、「国家のため戦死された英霊を何故国民学校の裏門より出発せしむるか」と質したのに対し、村長が「正門には御真影奉安せられあり、恐れ多いから臣下として御遠慮中し上げる」と答えたのに対し。「恐れ多い恐れ多いといったって天皇は我々が食わせておくのではないか、遠慮なら仕方がない。」と不敬の言辞を弄した。(四二年一二月、不敬罪として送致)
北海道・生徒・一九才――四二年七月、道路において梨本宮殿下の御宿舎を望見しつつ同僚にたいし、「梨本君まだ来ないのか」と不敬言辞を弄す。(不敬罪として送致)