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下関空襲とは何だったか
敗戦明確なときの民家焼き払い
関門海峡機雷で封鎖し飢餓作戦 2005年10月22日付
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/simonosekikuusyuhanandaltutaka.htm
60年まえ、下関は米軍による空襲によって、中国地方では原爆を投下された広島につぐ甚大な被害を受けた。それはおもには、1945(昭和20)年3月末からの関門海峡への大量の機雷投下と、6、7月2回の焼夷弾による市街地焼失によるものであった。いま市民のあいだで、被災当時のなまなましい体験が、熱い平和への願いをこめて堰(せき)を切ったように語られている。敗戦まぎわに強行された下関空襲とはなんだったのか、なぜそのような犠牲が押しつけられたのか。11月に開催される原爆と下関空襲展を契機に、多くの市民の体験をとおしてこの問題を浮き彫りにすることが期待されている。
軍事施設の破壊は回避
空襲当時の市民の生活はどのようなものであったか。全国と同様、下関でも屈強な男手は中国やフィリピンなどへ兵隊にとられ、「銃後の守り」とされた婦人、老人、子どもたちによる苦しい生活が強いられていた。コメや砂糖、塩などの必需品は配給となり、母親はおなかをすかせた子どもたちや赤ん坊をかかえて、麦やコーリャンを主にしたご飯を食べさせるにも苦労し、防火訓練や竹槍訓練に参加。戦死公報があいつぐなかで戦地の夫の無事を願うだけであった。
子どもたちは、「ほしがりません勝つまでは」「撃ちてしやまん」と教育され、中学生は三菱造船、三井製錬、神戸製鋼などの軍需工場や農村、塹壕掘りなど、勤労動員に明け暮れる毎日で、勉強らしい勉強はできなかった。
大陸と本土、本州と九州、外航と内航の接点であり、戦略的な要衝である関門地域は西日本最大の要塞地帯であり、歩哨が要所要所に立ち、「人を見たらスパイと思え」という風潮のもとで、憲兵が肩をいからせていた。市内の軍事的に重要な施設の周辺家屋を撤去する強制疎開が指示され、1万人以上が転居を強いられた。
こうしたなかで3月27日夜、関門地域にB2999機が来襲。約1000個の機雷を投下したのが米軍の機雷敷設による日本にたいする「海上封鎖」のはじまりであった。以後、連日のように昼夜を問わず、機雷の投下がくり返された。それは日を追って激しくなった。
関門海峡区域に投下された機雷数は5500個(日本側発表4700個)におよんだ。これは、米軍が日本全国に敷設した機雷1万2000個の半数を占めた。
この結果、関門海域では4月1日、彦島塩浜海岸で第二雁川丸が機雷にふれて沈没して以来、連日のように爆破され沈没・座礁する船があいついだ。船舶の触雷による爆発は500個を数える。すでに海軍はおもな戦艦を失った段階で、その大半の犠牲は関釜連絡船や戦時輸送を担う商船、貨物船から、機帆船、漁船などに強いられた。だが、5000dから1万d級の大型船157隻、5000d以下の船をあわせると350隻ほどが記録に残されているだけで、一瞬にして海底に沈んだ150隻の船舶、乗船員は不明のままである。
関門海峡は爆破され沈没・座礁した船のマストが林立する「船の墓場」と化した。機雷が爆発した海域には、食糧難に苦しむ市民を欺くかのように貴重な穀物や砂糖などが浮遊し、彦島や六連島、蓋井島には、機雷が爆発した数日後に多数の傷ついた遺体、人肉が流れ着いた。機雷による被害は戦後もつづき以後、昭和20年末までに関門海峡での触雷沈没船は12隻にのぼった。その後「安全宣言」が出されたあとも、2000個の機雷が海底に沈んでおり、浚渫作業船の触雷被害が今日までつづいている。
こうして六月時点では関門海峡の輸送能力は3月比で7%にまで激減。7、8月には長期間、海峡閉鎖が宣言され、本土と大陸との経済動脈は完全に絶ち切られた形となった。
100回こす米機来襲 機銃掃射や焼夷弾投下
下関での警戒警報発令は102回におよんだ。市民は毎日のように発せられる空襲・警戒警報によって、灯火管制のもと眠れぬ夜がつづいた。さらに、真昼間から米空母艦載機・グラマンがわがもの顔で下関上空に姿をあらわすようになり、浜辺で泳ぐ子どもたちや、座礁した船の上で作業するものに、低空から侮蔑的な機銃掃射をするなど、傍若無人にふるまうようになった。授業中の子どもたちが急いで帰宅を強いられる光景が日常化した。
こうしたなかで、6月29日、7月2日の未明、B29が下関を狙って来襲。2回にわたる空襲で420d(7月2日360d)の焼夷弾を投下。警戒警報が解除されて市民がホッとしたとき、ガソリンをまいて燃えやすくしたうえに火の玉のように投下される焼夷弾のもとで、バケツリレーなどの消火活動では手のつけようがなかった。彦島・新地をのぞく、旧市内の中心部、前田から宮田町・唐戸町、東大坪、豊前田にいたるおもな地域が猛火に包まれ、焼け野原と化した。
この空襲では清和園で七五人の焼死体が発見されたのをはじめ三二四人が死亡、一一〇〇人が重軽傷を負うなど、被災者は四万六〇〇〇人をこえた。被災した建物は一万戸以上にのぼり、ガス・電気・水道・電話・電車電線などが破壊され、その機能はすべて停止した。また、医療機関の七割が壊滅するなかで、集団赤痢が発生するなど、市民生活は未曾有の打撃を受けた。
下関には、小月に関門海峡を防衛する航空戦斗隊、吉見には海軍防備隊が配置され、火の山、金比羅、彦島などに高射砲台があった。また、彦島の三菱重工下関造船所、三井製錬、長府の神戸製鋼など軍需工場、前田の下関発電所、関門トンネルなど戦略的な重要施設があった。
だが、一般の市街地、民家を平然と焼き払い、幼老男女を焼き殺した米軍が100回以上におよぶ関門地域への来襲で、これらの施設を直接攻撃、破壊したことはなかった。このことが、「おかしな戦争」であったと、市民の大きな疑問となっている。
残虐な米軍の戦略 攻撃対象は非戦斗員
下関空襲が本格的にはじまった1945年3月段階では、第2次世界大戦における日本の敗北はすでに決定的となっていた。この年3月21日、米軍のジョージ・C・ケニー中将は、この半年余りのあいだに「日本空軍は1万機の飛行機を失った」こと、「1月9日のルソン侵攻開始以来、わが軍は敵機にまったく悩まされていない」「日本空軍は壊滅した。もはや脅威ではない」と表明していた。
前年の6月には「確固不抜の要塞」とされたサイパンが陥落。米軍は大平洋の制空権、制海権を掌握しており、あとはマリアナ基地を拠点にした「掃討作戦」と位置づけていた。日本の空軍、海軍力は壊滅的な打撃を受け、戦地の兵士たちへの日本からの補給輸送はもとより、満州、朝鮮、南方からの本土への穀物輸送、工業の原材料を運ぶ船舶は、米軍の空からの爆撃、潜水艦による攻撃でことごとく撃沈。四五年春の段階で、日本の「わずかに残った艦船は燃料がないために廃棄されるか、カムフラージュされて対空施設につかわれているにすぎない」(米軍公式報告)状態となり、自滅的な特攻隊が日本のおもな戦力とされるまでになっていた。
一方、44年7月には東条内閣が総辞職し、天皇制政府は「国体護持」と「武装解除の排除」を条件に敗戦処理の動きをはじめていた。翌年2月にはアメリカとの和平工作を打診してきた吉田茂の提唱で、「共産革命」を恐れて米英への敗北を進言する近衛文麿の天皇への上奏文が提出された。
アメリカは、こうした状況を熟知したうえで、マリアナ基地からB29による日本本土空襲を開始していった。下関への機雷の投下の開始と時期を同じくして、45年3月10日には、東京への大空襲を強行して以後、機雷の投下が全国的に展開されるなか、大阪、名古屋など大都市から全土の中小都市あわせて64都市の市街地の民家を標的にした焼夷弾による無差別殺りく・焦土作戦が拡大されていった。この作戦を指揮したルメイ将軍は、「日本の民家はみんな軍事施設だ」といってのけた。
米軍の機雷による海上封鎖作戦は、ニミッツ提督によって「飢餓作戦」と呼ばれた。その目的として、@日本への原材料および食料の輸入の阻止、A軍隊への補給および移動の阻止、B日本内海の海運の崩壊があげられていた。
こうした徹底した消耗作戦、飢餓作戦はとくに、硫黄島陥落(3月)、沖縄戦の戦局決着(5月段階)以後、だれの目にも顕著となった。海軍のハルゼー提督は5月、従軍牧師グループに「日本がかなり積極的な和平打診をするだろうが、日本を二度と戦争できなくなるまでたたきつぶしてはじめて戦争目的は成就する。われわれはそこまで徹底しなければならない」と発言。アメリカの攻撃の対象はすでに軍部ではなく、はっきりと無辜(こ)の非戦斗員にしぼられていた。
そしてこれと並行して、米軍の機雷投下は7月以後もさらに拍車がかけられ、敗戦の前日8月14日まで執拗につづけられた。この期間だけでも米軍は、14回の出撃で日本海側を中心に3600個の機雷を投下したが、その半数が関門海峡と瀬戸内海であった。
ちなみに米軍が全期間中、日本周辺海域に機雷を敷設した地点を地域別に見ると、関門海峡をふくむ瀬戸内海が7244個で全体の66%を占める。ついで、新潟、舞鶴などの日本海沿岸1900個(17%)、博多・唐津など九州沿岸が459個(4%)で、大平洋方面は総計117個(1%)にすぎない。
これらのことは、アメリカの戦略的な敵はすでにソ連に移っていたことと符号する。下関への機雷投下空襲の1カ月まえの2月27日、ヤルタ会談で、「ドイツ敗北後3カ月以内にソ連が対日参戦する」ことが、秘密合意されていた。アメリカはソ連の対日参戦のまえに、日本を単独占領支配するために、マンハッタン(原爆開発・投下)計画と連動させて、日本本土への空襲を休むことなく強行した。
「国体護持」が狙い 日本支配層は温存
アメリカの下関空襲の狙いが全国各地のそれと同じく、戦後をにらんだものであり、とくに日本を単独占領支配するという野望に貫かれたものであったことは明白である。そのためには、なによりも、日本の国民の反抗を抑えこみ、アメリカのいうことを力ずくできかせる必要があった。そのために、一般大衆を虫けらのように殺りく、殺傷し、飢えさせ、体力・気力を弱体化させ、へとへとに疲れさせる作戦を貫きとおしたといえる。
その後の事実は、そうして早くから定めていたように、天皇を目下の同盟者として従えて支配するコースに狂奔したことを証明している。こうしたことは、「国体護持」を最大の目的とし、そのために人民の決起を恐れ、ソ連の参戦にきゅうきゅうとしていた天皇をはじめ日本の支配階級の利害と完全に一致していた。
アメリカはその一方で日本の支配層と基幹産業を温存し、戦後の政治・経済をアメリカの支配しやすいように従わせる方策を実行していた。三菱などの大工場や施設をそっくり残したのは、広島・長崎の原爆投下で、三菱重工広島造船所、広島機械製作所や、三菱重工長崎造船所、三菱電気長崎製作所が直撃を受けなかったことと共通している。
三菱財閥の頭目・岩崎小弥太は1946(昭和16)年12月、日米開戦後の2日目に、財閥内部の会議で幹部を前につぎのように発言していた。
「在来我が三菱と事業において相提携せるものに幾多の英米人あり。彼等は今日まで我等の友人として同一の事業に提携し、同一の利害に終始してきた。今や不幸にして干戈をまじえる両国籍に分属した。……が、旧誼はこれによって滅すべきではない。されば国法の許す限り彼等の身辺と権益を擁護すべきことは、これ亦道義に立脚せる我等日本人の情義にしてかつ責務である。他日平和克復の日が来たならば、彼等は過去において忠実なる好伴侶であったように、将来においてまた忠実なる盟友でありえよう。かくて両者相提携して再び世界の平和、人類の裨補(ひほ)する機会が到来して欲しい」
また戦後すぐ、「(日本の敗戦は)必ずしも不幸な事ばかりではない。我々は今後愉快に仕事ができると思うからである。昔から武力をもって他の民族を征服することは、それがたとえ一時的に成功しても到底永続しない。それは歴史の明らかに教える処である。……今迄は軍部の掣肘を受けて自由に外国との通商もできなかったが、これからはそれができる。日本の再建も可能である」と語っていた。
同時に、アメリカ政府のなかには、「(財閥には)西欧流の自由主義があり、軍部と財界は意見を異にし軍部が勝って戦争に突入した」という意見が支配的であり、戦後ただちに、三菱と提携していたウエスチングハウスなど複数の企業がGHQに、三菱救援の要請書を出し受け入れられた。
こうした事実からも、米軍の軍事施設や軍需工場を攻撃からはずしたことが、偶然ではなく、きわめて意図的計画的であったといえる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/simonosekikuusyuhanandaltutaka.htm