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(回答先: この国はどこへ行こうとしているのか 湯川秀樹氏夫人・湯川スミ氏―「毎日新聞」 投稿者 天木ファン 日時 2005 年 10 月 21 日 17:15:56)
http://www.mainichi-msn.co.jp/tokusyu/wide/news/20051007dde012040020000c.html
◇「もうろく帳」に熱き思い−−京都からの発言
戦後60年の夏が過ぎ、騒然のうちに衆院選も終わった。京都を訪ねたい、と思った。東京はあわただしすぎる。ほんの少し、立ち止まって考えてみたい。この国はどこへ行こうとしているのか−−。
◇改憲の国民投票負けてもいい、日本をさらして真実明かせば
朝からぽつりぽつりきていたのが、本降りになった。鴨川のほとり、京大会館の赤レンガの壁もびしょぬれ。申し訳ないなあ、と気をもんでいたら、哲学者の鶴見俊輔さん(83)、にこにこしながら、現れた。大きな鞄(かばん)をさげて。
「いやあ、おもしろい文章があったんだ。ついさっき読んだばかりなんだけどね」
いかにも愉快そうである。聞けば、それは「婦人公論」(10月22日号)の巻頭コラム、文芸評論家、斎藤美奈子さんの「いよいよはじまる、『新保守』への道」だった。小泉純一郎首相と自民党の歴史的大勝について書いている。
<憲法改正? それは当然射程内でしょう。来年九月のポスト小泉政権いかんによっちゃ、防衛庁が国防省に格上げされるくらいは覚悟してほしいわ。ソフトな徴兵制なんかも導入されるかも。徴兵制とは呼ばず「ボランティア」などの名目で、もちろん男女共同参画で……。おどしすぎ! と思うだろうけど、まあ見ててごらん>
「彼女、へっぴり腰じゃないんだよ。がーんと言ってるだろ。状況をきちんと把握して。文体に力があるんだ。日本にこういう人がいたのかって、驚いたんだ。東大教授なんて彼女ほどの力ないよ。みんな頭蓋骨(ずがいこつ)の中に豆腐が入ってるんだから。脳みそじゃない。タイヘンな時代になったんだ、タイヘンな時代になったんだよ。それなのに、だ」
●戦争を止める
ぎょろりと目を見開き、いきなり、大演説のはじまる予感。母方の祖父は明治の有力政治家、後藤新平、父は雄弁家として知られた鶴見祐輔である。そのDNAのせいなのか。ぐっと身を乗り出して。
「私が生まれたときは、まだ黒船のころに生まれた連中がうろうろ歩いていたんだ。だから、ざっと150年がつかめる。日露戦争の終わった1905年が分岐点だった。それまでの日本はまだよかった。指導者が偉かった。児玉源太郎は南禅寺にある山県有朋の別荘、無燐庵で開戦にあたって会議を開き、戦争を止めるべきときは、どんなことがあっても止めてくれ、そう言っている。勝った、勝ったとうかれて、あのまま戦争を続けていたら、日本は負けていた。日本がなくなっていた」
●一高、東大
時間のモノサシがとてつもなく長い。おまけにとびっきりの博覧強記とくる。こぼれ出る歴史のひとこま、ひとこまが豆腐どころかオカラみたいな不勉強のアタマじゃ、追っつかない。で、好きな紅茶を飲みながら、老哲学者の語りはますます熱をおびる。
「あの大東亜戦争、どこでどう止めるか、ゼンゼン、見当もつけずにやったんだ。ゼンゼン、ゼンゼン! あんなの負けること、3歳の童子でもわかりますよ。勝てるわけない。3歳でもわかることが一高1番、東大1番のやつにわからなくなってたんだ。それが1905年以降の日本なんです。この体制はまだまだ続きますよ。100年か200年、そして日本は滅びる。私はそう思っているんだ」
●1番は石橋湛山
ところで、小泉さんをどうご覧になっておられます?
「彼のじいさんを覚えているよ。小泉又次郎、黒めがねかけて壇上に座ってたな。ごろつきみたいな感じで。政党じゃなく、院外団に影響力のあった人だった。ひとつ、小泉を評価しているのは90年ものハンセン病患者の隔離政策を断ち切ったことだ。官邸でハンセン病の患者に会っただろう。しっかり手をつかんで握手した。感心した。あれだけで、すぐぶっ倒れていれば、小泉は歴代宰相のなかで2番目に偉大な人として残ったと思うよ。1番は石橋湛山。惜しいかな、あのあとが……」
コテンパンだけれど、温かみもにじむ。京都といえば、民主党代表になった43歳の前原誠司さんはいかがです?
「ハハハ、京都の政治家としては無産党の代議士だった山本宣治ほどの男じゃないね。根底が違う。山本は若くしてカナダに渡って苦労しながら働き、ハイスクールで学んだんだ。反戦を掲げて国会議員になり、暗殺された。前原は人間的にはいいよ。いつだったか、小選挙区で落選したとき、復活当選はしたんだが、翌朝、道ばたで感謝の演説しているんだ。えらいものだと思った。好感は持ってるよ。でも、日本の戦争体制を支持してるんだからなあ」
●風土記
よっこらせ、とばかり鞄を引き寄せると、そこからメモ帳がどっさり出てきた。「もうろく帳っていってるんだけどね」。けらけら笑って見せてくれた。ふと思いついた言葉を書き込み、詩歌の載った新聞の切り抜きが張ってあった。ある日はこんな具合。
<国家、社会? そうは思わない。私にとってこの町内が公だ。国家はぼんやりしている>
「ああ、それは国家の終わりについて浮かんだとき。風土記にたどり着いた。2000年前の出雲風土記なんかだね。浦島太郎が出てきたりする。比叡山の上から見たら、このあたり一円、これがクニ。原爆ができて、国家はより有害な組織になったんだ。それを批判するものは許さない。クニは、そうじゃない。せいぜいこれだけのもの。そう考えていく。唯一の被爆国がいまだに気づかない。国家に固執して、世界一の強力な国家であるアメリカにくっついている。私は未来に風土記を見るんだ。風土記から世界が再編できるんじゃないかって」
先の斎藤美奈子さんのコラムの通り、ここにきて、おぼろげだった憲法改正が、くっきり視野に入ってきた。鶴見さんは文化人らでつくる護憲グループ「九条の会」の呼びかけ人のひとりである。体を張って阻止されようと?
「いやー、たくさんデモをやるとかは……。私は憲法改正のための国民投票を避けるみたいなことはやめたほうがいいと思う。国民投票なんてやるならやって、惨憺(さんたん)たる負けになったらそれでいいじゃないか。それを世界にさらすんだ。日本国民とはこういうものなんだ、おもしろいだろって。アメリカの大統領が来たら、イエス、イエス。そんな日本を天下にさらす。真実を明らかにすればいいよ」
●粛軍演説
いささか開き直ってのジョークめかした言いっぷりだけれど、その目の奥は怒っていた。悲しそうでもあった。やや間をおいて、鶴見さん、但馬の生んだ政治家、斎藤隆夫にまつわる話をしてくれた。知ってるか、と。
「彼は2度の粛軍演説をして国会を追放されたんだ。だが、翼賛選挙で非推薦候補として地元の人たちが押し上げて当選したんだ。アメリカに負けたとき、彼が議席を持っていたこと、それはナチス・ドイツとわずかながらもひと味違った。日本の誇りだった。このたびの選挙は、どうだろう。私の見るところ、いまの国会にひとりの斎藤隆夫もいない。ひとりも、だよ」
鞄からまた出てきた。ごそごそ探して、これ、あげますよ。「もうろくの春」と題された布装のちっちゃな鶴見さんの詩集だった。ぱらぱらめくると、こんなのがあった。
<出鱈目の鱈目の鱈を干しおいて/夜ごと夜ごとに ひとつ食うかな>
さっと読めば、言葉遊びっぽくて楽しい雰囲気なんだけれど、鶴見さんは、どんな思いでこの詩を書いたのだろう? 愚直なまでに反戦・平和を叫んできた行動派の哲学者、自由と豊かさを享受したものの、忸怩(じくじ)たる思いを抱えているのではないか。そんなふうにも読めるのである。
「戦争が終わって、日本はよくなるんだって思っていましたよ。でも、悪くなった。若い人は頼りにならない。むしろ亡くなった後藤田正晴なんかのほうがずっと頼りになった。彼は何者かでした。悪辣(あくらつ)なところもあったけれど、ちゃんと目が覚めていた。それと宮沢喜一も何者かですよ。彼は私と同じ小学校の2年上でね。ものすごくできた。テレビで見ていると、捨てゼリフを吐いていたよ。自衛隊のイラク派兵のとき、これで昔と同じ道をたどるような気がするってね。ただ野性に欠ける。野蛮人じゃないんだ」
たっぷり2時間、哲学者と対面した。凡人にはしんどくもあった。雨はさらに激しくなってきた。あの暑かったころがうそのように冷えてきた。小泉劇場の熱狂のように。「じゃあ、さよなら」。降りしきる雨の中、大きな鞄をさげて、鶴見さんは帰っていった。ひと雨ごとに秋の色が濃くなっていく。【鈴木琢磨】
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これから晩秋にかけ、金曜日のこの欄で、古都の賢人に聞くシリーズを掲載します。
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■人物略歴
◇つるみ・しゅんすけ
1922年、東京生まれ。15歳で渡米、ハーバード大学で学ぶ。戦後、丸山真男らと「思想の科学」を創刊。京大、東工大などで教べんをとる。「ベ平連」でも活躍した。