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□イラク新憲法について/ラフール・マハジャン [反戦翻訳団]
http://blog.livedoor.jp/awtbrigade/archives/50077041.html
2005年10月12日
【イラク新憲法について】ラフール・マハジャン(2005/10/10)
原文:Radio Commentary -- Iraqi Constitution
http://www.empirenotes.org/
翻訳:earthspider
今週土曜、まったくの茶番と化した過程の新たなる段階が見られるだろう。米国が「イラクに民主主義をもたらす」という謎の文句で呼んできたものだ。
私はべつに、なんでもかんでも反対する輩ではない。民主的選挙はいいものだし、人権を尊重する憲法も素晴らしい。
フセイン政権下のイラクにはどちらも存在しなかった。だが不幸なことに、米国がイラクへこれらを導入しようとしているのは、占領支配に役立つ場合に限るのだ。
今年1月の選挙は米国の意図に反し、アヤトラ・シスターニ師の主導で行われた。米国はイヤド・アラウィを支援しようと密かに干渉をこころみたが、それにもかかわらず選挙はイラクの歴史のなかでもっとも公正なものとして終わった。もっとも、イラクは主権国家ではなく、米軍の行動を制限することはいかなる点でも許されないということを除いての話だが。
それでも、2005年の選挙は自由民主主義の勝利などではない。高校の社会科の授業で習うような政治がはじまったわけでもない。有権者が各候補者・各党の政治計画を評価し、政策案について理解し、政治家が何を達成してくれるか考え、それにしたがいおのおのが投票する、というようなものではなかったのだ。
そうではなく、国政選挙は基本的にいって、民族別の人口調査のようなものだった。そこではクルド人が過剰に代表され、スンニ派が非常にごくわずかしか代表されていなかった。
実際、1958年の革命のほうが多くの点において、はるかに民主的な過程であった。国政選挙は行われなかったが、数十万の民衆が街頭に出て、いくつもの大衆運動を巻き起こした。忌み嫌われていた外国の傀儡政権は打倒され、貧困にあえぐ多数派の問題にほぼ真正面から取り組む、現代イラク史において最初の政府へと道を開いた。
革命はまた、アブデル・カリム・カセムの軍事独裁政権をもたらした。当初彼ははっきりとした人道主義と反植民地主義を心に抱いていたが、徐々に独裁者と化し過ちを繰り返すようになり、さいごには革命を担った民衆運動を破壊することに全力を尽くすようになってしまった。
だが、1958年の革命をこの結果でもって評価するのであれば、今年1月の選挙はどうだろうか。選挙の結果生まれたのは、政府と結託した準軍事組織集団が殺人と拷問をほしいままにする(そして犠牲者の姿を国営テレビで放送する)ような、警察国家だった。政治家は宗派間の紛争にばかり没頭し、政府ができる3ヶ月前から人々が待ち望んでいたような要求にはろくに取り組もうともしない。
そして、自由のない警察国家の建設はあらたな段階に達した。民衆は無視されつづけるが、ときおり選挙が行われる。すなわち、新憲法というわけだ。
政府が作られる時点ですでに、政府内の民族・宗派集団が互いになんとか長期的に妥協できる点を見出す力量など持っていないことが明らかになっていた。3ヶ月たったあとでさえ、せいぜいできるのは難問を先送りにすることくらいだった。
無謀なことに、米国はこの反目しあう集団に憲法案を8月15日までにまとめ、10月15日に選挙で承認するよう要求した。米国支持派のクルド人政治家であるマフムード・オスマンですら、このように語っている。「時間がない?それはアメリカ人のせいだよ。彼らはいつも短い期限を押し付けてくる。まるでハンバーガーかファーストフードでも作るみたいに」
今回の米国による押し付けは、支配力を増すためではないし、イラクを安定させるためですらない。単に数日間のあいだ、メディアの注目を集め、米国内で大々的に報道させるだけのためなのだ。
新憲法の中身はもっと厄介なものになっていたかもしれない。が、実際はそうでもない。クルド人とシーア派は高度の地方自治を認めようとしており、少数派であるにもかかわらず数世紀にわたり単一国家を支配してきたスンニ派を憤らせている。イスラム法は神聖なものとされている。これにより米国による占領が多かれ少なかれイスラム教徒に対する戦争であるとみなされることは確実だろう。
より問題なのは過程だ。憲法の最終草案はまだ配布されはじめて間もない。投票前に草案を読むにあたってほとんどのイラク人は、1週間あるいはそれ以下の時間しかないのだ。イラク人は憲法の内容に基づいてではなく、自分が属する宗派によって投票するとみなされている。
クルド人とシーア派は、しばしば理不尽なこともあるスンニ派の反対を押し切っていこうとしている。これにより、すでに広がりつつある宗派間の分断はさらなる深刻化を避けられないだろう。
結局、新憲法が承認されるにせよ、それはイラク人の現実の生活にも、市民的・政治的諸権利にも何ら関係のない、無意味な紙切れにすぎないだろう。
そのようなものとして、新憲法は占領の完璧な象徴となるだろう。