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STOP!劣化ウラン弾キャンペーン 旧ユーゴ劣化ウラン弾被害調査報告
http://www.bund.org/news/20051015-2.htm
劣化ウラン弾はバルカンの大地に深く食い込んでいた
谷沢健二
STOP! 劣化ウラン弾キャンペーンは、9月19日から26日までの8日間、90年代にNATO軍によって10トンを超える劣化ウラン弾を打ち込まれたセルビア共和国とボスニア・ヘルツェゴビナを訪れ、NGOとして初めて劣化ウラン弾被害の現地調査活動を行った。最新のドキュメントを掲載する。
イラク戦争や湾岸戦争で大量に使用された劣化ウラン弾。戦乱収まらぬイラクで調査が進まないことをいいことに、米軍は今も「ガンなどの疾患と劣化ウラン弾との因果関係はない」と劣化ウラン弾を使い続けている。日本政府もこうした米軍の見解に従い、劣化ウランに汚染されたイラクに自衛隊を派兵し続けている。では、イラク以外で使われた劣化ウラン弾の被害はどうなっているのか。私たちSTOP!劣化ウラン弾キャンペーンの有志4名は、イラクと並んで大量の劣化ウラン弾が投下された旧ユーゴを訪れ現地調査を行った。
9月21日 ボロバッツの劣化ウラン弾回収現場
セルビア共和国の首都ベオグラードは、ウィーンから飛行機で1時間。コーディネーター兼通訳のダリボルさんと運転手のバーネさんが、私たちを空港まで迎えに来てくれた。夜、ホテルでフォトジャーナリストの森住卓さんと合流する。森住さんは1週間前から取材でコソボに入り、ちょうどベオグラードに戻ってきたばかり。明日からわたしたちと一緒に行動する。
9月21日早朝6時、ホテルを出発する。今日は、マケドニアとコソボの境近くにあるボロバッツという山村で行われている劣化ウラン弾の回収作業の取材をする。ベオグラードから南に350キロ、延々車に揺られ着いたのは午後1時近くになっていた。
NATOの空爆時は、この場所に発泡スチロール製のダミーの戦車が置かれていた。それを狙って劣化ウラン弾が打ち込まれたため、弾は炸裂せず不発弾となって地中に埋もれている。近所に人家はないが、周囲には地元で使う水源が4か所ある。汚染が心配だ。
回収作業はセルビア軍と科学環境保護省、ビンチャ核研究所の3者の共同作業として行われている。作業時間は2時までなので、急いでテントのなかでセルビア側が用意してくれた化学防護服に着替え、長靴とマスク、ゴム手袋を着け、現場に出た。
作業している周りは鉄条網で囲ってあり、回収作業は1班が4〜5人体制で行っている。作業員は、緑色の雨合羽を着ており、足下は長靴、ゴム手袋をし、防護メガネ・防護マスクをしている。ユンボで土を剥ぎ取り、小山にした土を鋤簾(じょれん)を持った2人の作業員が少しづつ崩していた。それを2人の作業員が放射線測定器で測定し劣化ウラン弾があるかどうかを確認する。見ていると、ものすごく地味で、根気がいる作業だ。
水が溜まっている直径30〜40センチの穴があった。劣化ウラン弾が発見された場所だというので放射線測定器を近づけてみる。0・065マイクロシーベルトという数字だ。通常の2〜3倍の高さだ。周辺は平常値で、不発弾が入っていた場所だけがピンポイントで汚染されている。
現場から出て、休憩用テントで科学環境省環境保護局副局長であるスラビサ・シミッチさんの話を聞く。軍の調査によると、セルビアで劣化ウラン弾が使われた場所は4か所。撤去作業は2002年から始め今までに2か所が終了し、今回の地区が3か所目になる。来年の5月には残りの1か所、レニャンという地区の撤去を開始するそうだ。撤去作業の終了後は結果を公表し、大気・土壌・水のモニタリングを継続していくという。
撤去作業の資金は、連邦政府とセルビア共和国から出されている。今回の撤去作業にかかる費用はおよそ3400万ディナール(日本円で約5800万円)。UNEP(国連環境計画)もここで劣化ウラン弾の使用を確認したが、国際的な支援は特に行われていないとのことだ。
最後に森住さんが、「劣化ウラン弾被害はセルビアのプロパガンダだ、という意見があるがどう思うか?」と質問。シミッチさんは、「セルビアはこの作業をまじめな態度で取り組んでいる。多額な経費をかけているし、こんな狭い土地にあんなにウランが発見されることが自然なことですか? プロパガンダではないことは、政府の代表として言えます。NATOの関係者にも是非見学してもらいたい」と少々むっとしながら答えていた。
9月22日 ビンチャ核研究所
翌日は、ビンチャ核研究所を訪ねる。ここには回収された劣化ウラン弾が保管されている。まずは兵士や周辺住民の健康調査について、所長のミロイコ・コーワシェビッチさんに質問する。被曝調査は、兵士や放射線を取り扱う職業の人には行っているが、一般の人の検査は行っていないとのこと。かつて劣化ウランの検査を兵士や住民に呼びかけたこともあったが、戦後の混乱で思うような調査にはならなかったそうだ。
これまで回収できた劣化ウラン弾は、3か所でおよそ520個。そのうちボロバッツの現場では22個回収したという。旧ユーゴで使われた劣化ウラン弾は10トンだから、わずかな量でしかない。
回収された劣化ウラン弾が保管してある倉庫をみせてもらった。事務所から車でほんの2〜3分の所に倉庫はあった。劣化ウラン弾を取り出してくれる。生でみるはじめての劣化ウラン弾だ。測定器を近づけると、13・98マイクロシーベルトという高い数値が出た。通常の500倍近くの数値だ。倉庫の奥には、50センチ四方の金属の箱が10箱ほど積み重ねられていた。箱の中にさらに白いプラスティックのような入れ物があり、その中に劣化ウラン弾が保管されていた。だが劣化ウラン弾が保管してある倉庫にしてはかなり老朽化していた。職員に聞くと「新しい倉庫を造る計画はあるが、資金がなく進んでいない」とのことだった。
調査団メンバーの一人・今井俊政さんがつけていたポケット線量計はわずか20分で6マイクロシーベルト(放射線従事者に定められている1日の規制値は10マイクロシーベルト)を示した。作業員や周辺の住民への影響はないのか心配だ。
9月23日 ハジチ村旧戦車工場
23日はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国サラエボ近郊のハジチ村旧戦車工場を訪ねた。95年の9月、NATOはこの工場に2600発もの劣化ウラン弾を打ち込んだ。旧ユーゴ最大の戦車や装甲車の修理工場だったからだ。工場では現在、車の整備や軍・警察関係の防護服を作っている。
ここに打ち込まれた劣化ウラン弾は、昨年政府の市民防護局が回収済みとのことだが、とりあえず敷地内を案内してもらう。戦車修理工場だった建物は空爆で屋根が破壊され、壁がなくなりぼろぼろになっていた。壁にも弾痕がある。少し歩いていると白いタイルの壁に30センチ四方の穴があり、赤ペンキで囲ってあるのが見えた。劣化ウラン弾が打ち込まれ回収された跡だ。測ってみると1・01マイクロシーベルト。現在働いている人で、劣化ウラン弾の影響で健康を害した人はいないというが、本当だろうか。
次にサラエボにあるセルビア人共和国医療センターに向かった。空爆後、ハジチ戦車工場周辺にいてガンになった人の多くが収容されていた病院だ。スラフコ・ズドラーレ院長に話を聞いた。ズドラーレ院長は空爆から4年後にハジチ出身の患者にガンが増加していることに気付いた。それ以後、2002年まで統計をとったが、発症数の増加もさることながら、一度に胃ガンと腎臓ガンなど二つのガンが同時に発病する多重ガンが多発していることが特徴だという。そして、ズドラーレ院長は、劣化ウランに被曝しガンなど同時に3つの病気になった元セルビア軍兵士を紹介してくれた。さっそく彼を訪ねることにした。
サラエボからおよそ30キロ離れたところにあるブロージュグラディシュテ村。苦労の末、元セルビア軍兵士のジェリュコ・サマルジッチさんを探し出した。ジェリュコさんは92年から96年まで軍に在籍していた。サラエボの近くにある基地にいた時空爆にあい、被曝。しかも弾丸の小さい破片を記念に持ち帰ってしまった。初めて皮膚疾患の症状がでたのが99年。直腸ガンと腎臓ガンも同時に発病し、脳にも米粒大の腫瘍があった。
サマルジッチさんは、2002年にベルギーで開かれた国際会議にズドラーレ院長と一緒に参加し、自分の経験を話した。しかし2日後にNATOの人間がやってきて「因果関係はない」と否定されたという。だが尿検査では高い濃度の劣化ウランが検出されており、因果関係は明白だ。一緒に爆撃を受けた仲間も消化器系のガンなどにかかり、ほとんどが死んでしまったという。
サマルジッチさん自身、あれだけ重い病気にかかり、今生きているのが信じられないと語っていた。サマルジッチさんには3人の子供がおり、いちばん下の男の子は6歳。健康状態を聞くと元気に育っているとのことで少し安心した。
9月24日 ボスニアのヒバクシャたち
24日は、ハジチ村にいたセルビア人が集団移住したブラトナツを訪ねた。サラエボから北東におよそ100キロ余り。ハジチ村から2000人の住民がこのブラトナツに移住してきた。その半数にあたる約1000人がガンで亡くなっている。43歳の女性スネジャナ・グラボバッツさんを訪ねた。義姉のグロズダ・グラボバッツさんがハジチの工場で働いていたが、昨年子宮ガンで亡くなっている。
村の共同墓地では、掃除に来ていたハジチ村出身の老婦人に話を聞くことができた。70歳になるゾルカ・ミルコビッチさん。息子さんを戦争で亡くし、夫も2000年に直腸ガンで亡くなっている。夫は空爆後、ハジチ村戦車工場の清掃作業に動員されていた。とにかくハジチ村出身者はガンによって死亡する人が多い。誰もが劣化ウラン弾のせいだと疑っている。
今回調査したなかでは、劣化ウラン弾の影響をいちばん受けていたのは、このハジチ村の人々だろう。しかし、UNEPの調査では、「影響なし」とされてしまった。
旧ユーゴにおける劣化ウラン弾による被害はわたしたちの想像を超えるものだった。しかし戦後復興もままならぬセルビアやボスニア政府は劣化ウラン汚染の除去で手いっぱい。劣化ウランと健康被害の因果関係の立証にまでは、とても手が回っていないのが現実だ。国際社会の支援は不可欠だが、旧ユーゴを取り巻く現在の複雑な国際関係の中でそれを実現させていくのには、私たちNGOの努力以外にないとの思いを強くした。
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内戦の傷跡が重苦しい空気のように漂っていた
横澤典子
2日目に訪れたビンチャ核研究所で私たち調査団は、汚染除去の際回収された本物の劣化ウラン弾を見せてもらった。といっても、同行したフォトジャーナリストの森住さんに、「妊娠の可能性のある女性はやめたほうがいい」といわれ、私は車の中で待っていた。他の4人は被曝覚悟の調査である。「証拠を見つける」と口で言うのは容易だが、実際に調査をするとなると危険がつきまとうことをあらためて実感した。
NATO空爆があったハジチ村出身者の多くが埋葬されているブラトナツの墓地では、2002年位から若者の死者が多いことがわかってゾッとした。劣化ウランの影響は10年後くらいから出る。95年の空爆時に使用された劣化ウラン弾が原因だとしたら、戦後も人を殺し続けていることになる。
放射能被曝の恐ろしさもさることながら、この旅では「人間同士が殺し合うこと」が人々に残す傷跡の深さについても考えさせられた。それは生々しく、重苦しく漂う空気のようなものだった。
ボスニア内戦終結から10年、99年にコソボ紛争の停戦合意がなされてから6年。ベオグラードのクネズ・ミロシェ通り(別名空爆通り)にある政府系ビルはNATOの空爆により壁に大穴が開いたままだった。戦時中セルビア狙撃兵が動くものはすべて標的にしたというサラエボのスナイパー通りの建物も、銃痕がいたるところに残っていた。
セルビア・モンテネグロから国境をこえてボスニア・ヘルツェゴビナへ行く道すがらには、壁や屋根のないボロボロに壊された家がいくつもあった。セルビア人によって破壊されたモスレム人の家だという。クロアチア生まれのセルビア人である通訳のダリボルさん自身も、内戦が勃発してすぐ生まれた町の家が爆破され、セルビアに避難してきたという。
旧ユーゴの人々は今、自分の生活を立て直すので精一杯。仕事や家をなくした人々は明日どうやって食べていくか考えなければならないし、身内が殺されたり人々の心の傷も癒さなければならない。劣化ウラン弾は不安だが、それどころではないというのが人々の実状だった。しかし、旧ユーゴ現地では、劣化ウラン弾によると思われる多重ガンや白血病による死者は確実に増加している。次のヒバクシャを生み出さないためは、劣化ウラン弾を廃絶する以外ない。私たちNGOにできること、やらねばならないことはいっぱいあると思った。
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【解説】ユーゴ紛争と「バルカン症候群」
ソ連・東欧社会主義国の崩壊を受け1991年、「自主管理・非同盟」を掲げていた旧ユーゴスラビア連邦人民共和国は崩壊。92年のスロベニアとクロアチアの独立に続き、ボスニアもムスリム系住民が主導権を取る形で独立を宣言。これに対してボスニア領内のセルビア人が武装蜂起し、この勢力をセルビア共和国の大統領ミロシェビッチが支援したことで「隣人同士が殺し合う」悲惨な内戦に突入した。
その過程でセルビア側が行った「民族浄化」が欧米諸国で大問題となり(実際はクロアチア人やムルリム系住民も虐殺を行っていた)、これを阻止するという名目で95年米軍主導のNATO軍はサラエボなどに大規模な空爆を敢行した(ボスニア紛争)。98年にはセルビア共和国内のコソボ自治州で分離・独立を求めるアルバニア系住民の動きが活発化し、セルビア系住民との衝突が繰り返された(コソボ紛争)。99年、NATO軍はこの紛争に再び介入し、セルビア共和国への空爆を行った。
NATO軍は、95年と99年の旧ユーゴ空爆で10トンもの劣化ウラン弾を投下した。ボスニアでは1万8000発、コソボでは3万1000発にのぼる30ミリ劣化ウラン弾が使用された。
2000年12月、コソボ平和安定化部隊に参加した兵士の中にガンや白血病で死亡した例が多数あることを西欧のメディアが報道、劣化ウラン弾の影響が指摘された。同じく大量の劣化ウラン弾が使用された湾岸戦争でも帰還兵やその家族に健康被害が多発、「湾岸戦争症候群」と呼ばれていたのにならって、「バルカン戦争症候群」と呼ばれるようになった。
(編集部)
(2005年10月15日発行 『SENKI』 1192号3面から)
http://www.bund.org/news/20051015-2.htm