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□ムスリム同胞団の変遷 [ル・モンド・ディプロマティーク]
http://www.diplo.jp/articles03/0309-2.html
ムスリム同胞団の変遷
フサム・タンマーム(Hussam Tammam)
ジャーナリスト・研究者、在カイロ
訳・近藤功一
エジプトに民主化の風が吹き、改革を求めるデモが相次いだ。不平等に満ちたこの国の政治が、今までのような茶番ではなくなろうとしている。多くの運動は、イスラム教を看板にしているが、イスラム教の解釈については議論が大きく分かれる。強大な組織、ムスリム同胞団も例外ではない。[フランス語版編集部]
エジプトの政治情勢は、憲法第76条の改正により複数候補が認められた大統領選が、2005年9月7日に開催されることで様変わりしつつある。多くの評論家は、ムスリム同胞団がこの状況を利用し、以前よりも広がった自由を活用するだろうと考えていた。しかしながら、起こったのはその逆のことだった。この組織は、未曾有の危機に見舞われている。
1970年代初め、刑務所から釈放されたムスリム同胞団の幹部は、国家の統制下にある複数政党制などという政治のあり方が、イスラム国家の創設という自らの大構想とは両立し得ないとみていた。体制に不信感を抱き、政府との対立は不可避であるとして、そのように強く確信した。そこから、自らの目的を実現するためには、国家と治安機関の網にかからない組織を作り上げていく必要があると結論付けた。時には極度に困難な事態にも対処できるような組織とならなければならない。サダト大統領(1970年から81年)が、54年から禁止されている同胞団の現状を黙認はしたが、合法化するつもりは一切なかったという状況下ではなおさらだった。
同胞団の再編成戦略は、秘密機関出身の世代によって指揮された。この軍事部門は52年のエジプト革命以前に結成され、ナセル率いる「自由将校団」の政権奪取に貢献したが、その後地下に潜った。70年代後半には、すでに戦略の成果は驚くべきものとなる。同胞団は、ライバルを吸収しながらエジプトで最大の宗教運動となった。大学で非常に強い影響力を持っていたイスラム団の指導部は、再生を遂げつつあったムスリム同胞団への加盟を決意する。
成功に勢いづいて、同胞団の指導部はこの路線を継続することになる。「禁止だが黙認」という立場ゆえに、合法政党に要請される透明性や明確な綱領を要求されることもなかった。81年ムバラクが大統領に就任したとき、この方向性は強められた。ムバラクは、就任後すぐに大統領宮殿でムスリム同胞団以外のすべての反政府勢力の指導者と面会した。ムバラクがサダトと同じくムスリム同胞団の非合法化を続けた事態をみて、近い将来に認可される見込みはないと同胞団の指導部は確信した。一方、新しい世代は、法的な枠組みの中に入り、70年代前半に築かれた組織巨大化の戦略と決別することを望んでいたが、彼らの望みはかなえられなかった。
80年代前半、同胞団は政党創設の行政認可という法的な枠内に入ることのないまま、政治的な地位を確立した。84年にはワフド党、87年には社会労働党、社会自由党との連携を受け入れ、一部の党員の当選を後押ししたが、長期間におよぶほどのものではなかった。組織内部でさえも政党を作りたいという声は強まっていった。しかし最高指導部は、体制が同胞団に関係のある政党は一切認めないことを論拠に挙げ、依然この声に耳を傾けようとはしなかった。そのためアブ・アラー・マーディは、同胞団を離れてワサト党(中道党)という新しい組織を作り、党としての認可を幾度となく当局に要請したが、認可は未だ得られていない(1)。
デモへの出遅れ
同胞団は、ムスリム国家というユートピア的な構想を抱くも、その定義をはっきりさせず、法的な枠組みの外で巨大な組織を作ることに専念している。そして、市民社会や国家、労働組合、行政機関の中に潜り込むことに成功した。しかし指導部は、軍、警察や、大統領府、内閣府、外務省への潜り込みという一線は越えようとしなかった。
仏語で「可能にすること」、英語で「エンパワーメント」と訳すことのできるタムキンという計画が、70年代、80年代に加盟した優秀な幹部によって作成された。この未公表文書は同胞団の再編と近代化の基本となった。その中では、国家の統治機構を徐々に掌握し、平和的に政権奪取する段階とプロセスが定められている。92年に警察によって発見されたこの文書によって、一大国家の様相を呈し、しかも通常の国家につきものの幹部の老齢化や汚職といった欠陥のない同胞団の勢力を、政府の側も推し量ることができた。
同胞団は、月々の会費を納め、末端組織であるウスラ(家族)のメンバーである活動家を10万から15万人かかえ、それに加え数多くの支持者もいる。正確なデータが存在しないのは、同胞団の位置付けがあいまいなうえ、支持者の把握が困難であるためだ。指導部もデータを明瞭にしようとすることは一種の裏切りとみなしている。ムバラク大統領の就任以来、エジプトは経済の自由化の代償に政府が政治を独占するという方程式によって統治されている。政党規制法によって、当局は完全に政党を支配している。その結果、政治活動は瀕死状態に陥っており、70年代の複数政党制の試みは幻滅に変わった。こうした状況からして、ムスリム同胞団が法の枠外で活動していく選択をしたのは正しかったように思われる。
しかしながら、数十年来動きのなかった政治舞台は、内外からの圧力によって活性化され始めた。憲法76条の改正と大統領選の複数候補制の容認は、政権側の後退の第一歩となった。決着の時が近付き、同胞団に大きな注目が向けられた。同胞団の春は近い将来となったのか。
幻想は長くは続かなかった。反ムバラク運動を指揮するキファーヤ(もう十分)運動が2004年12月12日にデモの先陣を切ったとき、同胞団の出足は鈍かった。彼らが新たな状況を見極め、3月27日にデモを行うまでには3カ月以上かかった。「小集団」でしかないキファーヤと張り合わねばならないことは同胞団の指導部にとって痛恨であった。しかし、下部組織ごとの人数がキファーヤ全体よりも多いという組織力をもってすれば、運動の主導権を取り戻すことは困難ではないと考えていた。
薄められたイスラム色
組織の大きさは弱みともなる。2005年5月6日には、同胞団のスポークスマン、イサム・アリヤーンと複数の指導者が自宅で逮捕されている。拘留者の数は2000人以上におよび、彼らや家族への支援という負担が同胞団に重くのしかかる。デモの中断が決定された。この後退は、その一方で、エジプト国民を自由の道へと導いていこうとする意志よりも、戦術的な思惑に結びついていたと言えそうだ。
この失敗は弾圧のせいだけではない。同胞団の指導部も、その誹謗者も気づかなかったのは、イスラム世界の情勢が1970年代から激変したことだった。
当初、ムスリム同胞団はイスラム主義イデオロギーの公式の担い手であり、イスラム国家の建設を中心的な主張としていた。この主張は、貧困層にとっては社会的抑圧からの解放手段、中産階級にとっては道徳心の向上と社会的流動性を意味するものとして、双方の要求を「包括する」主張となり得ていた。
そして時は流れ、ムスリム同胞団はもう以前の同胞団ではなくなった。現在、政治への関与を強めた同胞団は、イスラム国家という壮大な物語も、カリフ制の創設といったイスラム国家に関わる主張も語らなくなった。その綱領は他の政党、特に自由主義を標榜する政党と何ら変わりなくなった。
同胞団は、イスラム色にこだわらず、民主主義を無条件で支持し、シューラ(合議)の概念すら用いようとしない。政権交代と国民の審判は、それらがシャリーア(イスラム法)と合致してもしなくても受け入れる。すべての市民の市民権と平等性を力説する。ムスリム教徒とコプト教徒(古来のキリスト教徒)との差別を否定し、コプト教徒があらゆる役職に付く可能性や(2)、コプト教の政党や共産党の創設さえも認めている(3)。
この主張がすべての同胞団メンバーのものとは言うことはできない。それは、主に新世代の幹部によるものである。特に代表的なのがアブドゥル・ムヌイム・アブル・フトゥーフで、今や同胞団の主導権を握っており、さしたる対抗勢力もいない(4)。
ムスリム同胞団は、その一方、経済分野でエジプトに起こった根本的な変化に影響を受けた。インフィターハ(門戸開放)と呼ばれている自由化は、貧困層を犠牲にしている。ところが、それまであらゆる階層の国民の代表をひきつけることに成功してきた同胞団は、97年に決定された農地改革改悪を含め、政府の自由主義路線を支持した。時が経つにつれ、支持者の勧誘は、新しい形の宗教心を行動基準とする中産階級に重点が置かれるようになった。同胞団の幹部や活動家には、中産階級出身者が徐々に増加した。要するに、実業家がより大きな役割を担うようになったムスリム同胞団は、リベラル右派へと向かっていったのだ。
組織の拡散化
反対に、貧困層と疎外された者は排除され、そして綱領、スローガンからも消されてしまった。彼らが経済変革に苦しんでいるまさにその時期に、同胞団は彼らの代弁者たることをやめてしまった。ある元幹部は、「同胞団のメンバーには飢餓に苦しんでいる者は一人もいない」と語っている。その一方で、政府発表によれば17%だというエジプトの貧困率は、反政府勢力によれば40%にも達している。同胞団と大衆の分裂を象徴するのが、今春のデモに大衆が参加しなかったことだ。評論家の中には、同胞団がわざとデモ動員にブレーキを掛け、暴走を避けるために政府と密約を交わしたはずだと考える者もいる。
貧困層の代弁者となったのは、80年代に同胞団と関係を断ち、政権との直接武力対決を始めたイスラム団だった。そのように理解しているのが、以前マルクス主義組織に属していたことから階級問題に意識的なムスリム思想家で政治家のアーディル・フセインである。彼は、このイスラム主義組織から、郊外の貧困層出身の幹部を自分の社会労働党に引き抜こうとした。ただし、入党にあたって武装闘争は放棄するよう要請した。庶民層の代弁者となろうとするこうした試みは、社会労働党とイスラム団との不和、そして当局による同党の禁止によって終止符を打たれた。しかも、政府は2万から3万人のイスラム団のメンバーを拘留していた。
一方、同胞団は宗教心の厚い中産階級の唯一の代弁者でもなくなった。特にアムル・ハーリドのような新しい説教師(5)などをみても分かるように、この分野での選択肢はかつてないほど多様になっており、また政治的色合いも薄くなった。しかもこうした政治分野に関しても、青年層の信者は、同胞団より縛りがきつくなく、危険も少ない団体を見つけることができるのだ。
唯一の政治的イスラムを代表する立場を失った同胞団は、自ら思い描く一枚岩のイメージからは程遠い寄せ集め集団になった。同胞団の中には、アズハル大学の学生、サラフ主義者(原点回帰主義者)、ジハード主義者、他の政治組織で経験を積んだ幹部もいれば、一切政治教育を受けておらず、上層部の命令をそのまま実行するだけの農民や労働者もいる。
会合出席率は低下しており、現在は40%と見積もられている。加入も低迷しており、メンバーの老齢化が進み、規律は失われている。加入の目的すら変化した。人脈を利用し、ある種の日常的な手続きスムーズにし、さらには商売の儲けを上げることを目的に同胞団のメンバーになる。そういうわけで、指導部が組織の将来について、また単に9月7日の大統領選ひとつとっても、合意に達することは困難だった。同胞団は、さんざん迷ったあげく投票を呼びかけたが、候補者を立てることはなかった。
ムスリム同胞団は、新たな時代に突入した。彼らは以前の計画を葬り去ったものの、新しい計画も打ち立てることができないでいる。創設以来、政府と対等にやり合い、民衆に基盤を広げてきた組織のイメージは、過去のものとなった。体制は流動期に入っているが、同じ指摘はムスリム同胞団にも当てはまる。
(1) ウェンディ・クリスティアナセン「ムスリム同胞団とは何か」(ル・モンド・ディプロマティーク2000年4月号)参照。
(2) 同胞団の筆頭副指導者のムハンマド・ハビーブは、コプト教徒も「それ以外の」すべてのエジプト人も完全なる市民権を持つことを認める文書を作成していると発表した。
(3) 最近、同胞団の最高指導者ムハンマド・マフディ・アーキフは、コプト政党の創設を支持すると発言した。
(4) アブドゥル・ムヌイム・アブル・フトゥーフのアラビア語著作『改革者だ、浪費者ではなく』(カイロ、2005年8月)および同書中の文書「グローバルな変化に関するイスラム主義的な観念」参照。
(5) フサム・タマム、パトリック・アニ「エジプトでもてはやされる今風のイスラム」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年9月号)参照。
http://www.diplo.jp/articles03/0309-2.html
(2005年9月号)