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(回答先: パリ燃ゆ〔写真ニュース〕フランス騒乱(破裂)、炎上する花の都パリ ( CORRIER DELLA SERA ) 投稿者 gataro 日時 2005 年 11 月 10 日 00:15:03)
□仏、夜間外出禁止で非常事態宣言 アルジェリア戦争時代の法律を適用 [アルジャジーラ]
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1482032/detail
仏、夜間外出禁止で非常事態宣言 アルジェリア戦争時代の法律を適用
【アルジャジーラ特約8日】シラク仏大統領は8日、発生後12日目となった同国最悪の社会的騒じょう事態を鎮めるため、暴動が起きた市町に夜間外出禁止令を発令するた非常事態を宣言した。
非常事態宣言の布告は9日午前零時から有効となり、当初12日間の期限を設定している。
軍の介入は命じられていない。
シラク大統領の閣議発言によると、「平穏な状況回復が必要であり」、地方行政当局者は「この布告が適用される区域に夜間外出禁止令を出すことができる」。
アルジェリア戦争当時に日付が遡る1955年非常事態法をわざわざ持ち出したことは、フランス国内の数百の市や町に広がった大混乱の深刻さとともに、事態収拾という試練に立つシラク政権の決意を示す尺度となっている。
シラク大統領は「国民とその財産を確実に防護するために、治安部隊に補助的な手段を与えることを・・・・決定した」と語った。
ドヴィルパン首相は、行政当局者は人間と車両の動きを制限し、紛糾地点の周辺に境界線を敷くことができると述べた。
同首相によると、警官、予備役機動隊1500人が出動中の8000人を増強するために配備されるが、軍の介入は含まれない。
パリ北西郊レンシーにある暴動の中心地に近いアミアンの町長は、「悲劇を回避するために」、7日から市としての夜間外出禁止令を出していた。8日に始まる夜間外出禁止令の先駆けとなった。
ドヴィルパン首相は7日夜、国営テレビで、夜間外出禁止の発令権限は、アルジェリアがフランス植民地だった当時、同地の反乱を鎮圧するために採用されて、不成功だった時に使われた60年前の法律に依拠すると語った。
しかし、社会党のギグー議員=パリ北西郊地区選出=は、アルジェリア戦争当時に成立した夜間外出禁止法令の適用は、北アフリカ出身のアラブ人やアフリカ人の出身がほとんどの若者の間で起きた騒じょうと闘うには「最善の法令引用とは言えない」と述べた。
夜間外出禁止の計画を認めた8日の特別閣議の後、サルコズイ内相は「確かに、決定は原則として行われた」と語った。
アルジャジーラのアル=キク駐仏支局長はパリから、警察が騒じょう抑止と暴徒逮捕のために、パリ市内外に監視カメラを設置したと報じた。
民間の警備員も幾つかの地域で導入された。
ルパリジャン紙は郊外の若者たちの言葉として、非常事態宣言に伴う措置は「何も変えない」と引用した。若者の一人は「こんなことは事態を解決しない。弾圧が強まれば、ますます破壊がひどくなる。・・・警官が増えるのは挑発にすぎないよ」と語ったという。
サルコズイ内相は8日、7日夜に1173台の車両放火があったと述べた。6日夜は1408台だったと語った。少なくとも4人の警官が負傷。6日には36人。拘束された暴徒は約330人。
ツールーズでは、若者たちがバス1台、その他車両21台に放火した(警察調べ)。近くのリール市では少なくとも車両2台、ストラスブール市でも2台(ロイター通信の報道)。多くのアラブ系、アフリカ系移民が住み、騒じょうが最初に発生したパリ西郊のイヴリンでは14台、パリ北部セーヌ・サンドニでは17台。
これまでの12昼夜の暴動で逮捕された数百人のほとんどはハイティーンの若者で、それより年下の者もいた。ほとんど全員がフランスに住むアラブ系、黒人系の少数派住民だった。
アルジェリアから1980年代末にフランスに来たジャーナリスト、メジアーネ氏は三人の父親で、ペンキ屋やウェイターをして、今は職が無い。「自分の子どもたちにとって、私は文字通りの落伍者だ。子どもたちが私のいうことを聞いてくれるなんて期待するのが無理だし、誰も私みたいになりたくないよ。私は子どもたちがして欲しいことに『良いよ』と言えたことがないからね。しかも、ここは子どもたちが年中、何かを買いたいという圧力を受ける社会だからね」と話した。彼はパリ近郊のラクールヌーヴに住んでいる。(翻訳・ベリタ通信=日比野 孟)
2005年11月09日17時08分