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11/8 朝刊
『自衛戦』主張した東条元首相を評価
靖国合祀関与『援護行政のドン』
終戦時の阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相の高級副官を務めた美山(みやま)要蔵氏(元大佐、一九〇一−八七年)の未公表の手記が見つかった。東京裁判に対する否定的な考えや東条英機元首相の評価が記されていた。美山氏は戦後、旧厚生省(現厚生労働省)援護局次長などを務め、戦没者の靖国神社への合祀(ごうし)関連事務にも従事。一九六三年の退職後も影響力を持った「援護行政のドン」的存在で、同省がいわゆる「A級戦犯」の合祀に協力した背景にあった思想の一端があらためて浮かんだ。
手記は、美山氏の長男雄蔵氏(70)=東京都東村山市在住=が遺品を整理していて見つけた。一九五二年の博文館自由日記の箱に入っており、中身は五五年の丹流社の日記帳だった。五五年暮れから五七年初めごろまでに書かれたとみられる。
東条氏に言及した一文は「二四・一・六」とあり、一九四九(昭和二十四)年に記したものを後に書き写したらしい。
「東条元大将の戦犯裁判」と題し、「東条さんはなぜオメオメと裁判を受けたか、なぜ潔く自決されなかったか」と批判する人のために「自分の経験したことを書きのこしておきたい」と説明。四五年八月末に、東京・用賀の東条氏宅を訪ねたことなどを書いている。
手記によると、その際東条氏は「(下村定陸軍)大臣に伝えてくれ。第一に皇徳を汚すなと言うこと(中略)第二に皇臣たるに恥じぬこと(中略)自分は皇臣として敵の裁判は受けない」と発言。東条氏はその後、示唆した通り自殺を図ったが未遂に終わった。
東条氏は当時、その戦争責任や自殺未遂をめぐり批判されていたが「批判、観察は既に十分過ぎるほど出ているが真正のものは長い年月を経て中外(内外)の圧迫から解放された後に俟(ま)たねばならない」と弁護している。その上で、東条氏が東京裁判で行った主張を高く評価。「(裁判の記録によって)わが国は天皇制が護持されまた戦争遂行が真にやむを得ざるに出(い)でた自衛戦であることが現在および将来の幾億兆の全世界の民心に永く闡明(せんめい)されたのである。東条さんの自決不成功の悲劇によって」と結論づけている。
美山氏の手記は没後に出版された著書「廃墟(はいきょ)の昭和から」(光人社)で一部が公開されたが、東京裁判を受けての考えなどは、公表部分にはなく、今回初めて明らかになった。
(文中で一部の漢字をかなに直しました)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sei/20051108/mng_____sei_____000.shtml