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性差の基準について考える
ジェンダー・フリーって何?
日景鷹羽美(ひかげたばみ)
http://www.bund.org/opinion/20060515-3.htm
@極端でグロテスクな主張!?
最近、新聞の地方欄で気になるニュースを見つけた。東京都の国分寺市が企画していた人権講座が、「ジェンダー・フリー」という言葉を巡って中止されたという記事だ(2006年1月30日朝日新聞)。この講座で講師に名を連ねていた女性学研究者の上野千鶴子・東大大学院教授は記者会見を開いて、「言論・思想・学問の自由への侵害だ」とする抗議文を発表した。
この「ジェンダー・フリー」について、事業を委託した東京都教育庁は「この用語が男らしさや女らしさをすべて否定する意味で用いられることがある」とした上で、「講座でこの用語が使われる可能性があるなら実施できない」という判断を国分寺市に示し、同市でこの企画が取り下げられていたというのだ。
私は、東京都がなぜ「ジェンダー・フリー」という用語に固執するのか、そのときはわからなかった。インターネットなどで検索していると、東京都では当初「女らしさ」「男らしさ」という固定観念をなくし、性別にとらわれない教育を目指して、この「ジェンダー・フリー教育」を導入していたことが判った。
昨年、東京都議会の定例会で、石原東京都知事は(ジェンダー・フリー論が)「ひな祭りやこいのぼりといった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張」だと述べた。また「男と女は同等であっても、同質ではあり得ない。男女の区別なくして、人としての規範はもとより、家庭、社会も成り立たない」というように、ジェンダー・フリー教育を公人として批判している。
確かに男女の同質化が極端に進むと、後でも見るように、教育現場などでロッカーや下駄箱の男女別の禁止だとか、「男女」の名詞を「女男」に変えるなどの行き過ぎを生み出す。だからといって、石原知事のように教育指針として採用したものを、バッサリと切り捨ててしまうのはいかがなものだろうか。彼の言葉の端々に「伝統への回帰」や排外思想などを感じるのは私だけだろうか。
上野教授自身「この用語を使わない立場だが、他人が使うことに反対するものではない。公的機関がこうした用語統制に介入することは言論・思想統制だ」と述べている。私も同意見である。
しかし東京都の対応も含めてここで問題になっていることは、単なる「ジェンダー・フリー」という用語の意味作用だけにとどまらないと思う。
ジェンダー・フリーというのは、東京女性財団のハンドブック『Gender Free』に記載された、「社会的文化的性差からの自由」を目指す考え方である。ただ、この用語は世界共通の考え方ではない。
英語圏では「ジェンダー・イクォリティ」とか「ジェンダー・エクイティ」(直訳すれば「男女同権、同等」)などが一般的で、「gender-free」という言葉は存在しない。唯一、アメリカの教育学者であるバーバラ・ヒューストンが「ジェンダーの存在を意識しない」という意味で使用しているにすぎない。
Aジェンダー・フリー教育
ヒューストンの主張は、ジェンダーによって起こる差別や格差に敏感になって教育を進めるべき(これをジェンダー・センシティブな教育と呼ぶ)というもので、日本において「社会的文化的性差からの自由」運動にジェンダー・フリーという用語が用いられるようになったのは、もともとはバーバラ・ヒューストンの主張の読み違えによるものだった。
その証拠に、日本政府の内閣府男女共同参画局は、「(教育現場の)一部に、画一的に男女の違いを無くし人間の中性化を目指すという意味で『ジェンダー・フリー』という用語を使用している人がいますが、男女共同参画社会はこのようなことを目指すものではありません」と説明している(内閣府・男女共同参画関連用語集より)。ジェンダー・フリーという用語は、アメリカでも、日本政府でも、国連でも、公式には使われていないのだ。
このような背景を持ちながらも、日本の教育現場では根強く「ジェンダー・フリー教育」が支持されている。前述した東京女性財団のハンドブックより引用してみる。
「男女平等という用語は、これまでおもに制度や待遇面での、男女間の不平等の撤廃をテーマにして使われてきましたが、最近ではそうした不平等問題の背景にある、人々の『心』のありかたに関心が払われるようになりました。…性別に関して人々が持っているこうした『心や文化の問題』をテーマにするために、このハンドブックでは『ジェンダー・フリー』というコトバを使っていくことにしたのです」
社会的文化的性差である(とされる)ジェンダーにとらわれず、個々人それぞれが自分らしく生きるための指標として、このジェンダー・フリーという言葉は特別の意味を込められたということができる。
教育関係者の中で、特に女性の権利を守ろうとする人たちは、学習指導要領などの外圧と闘いながら、性による不平等の少ない教育現場を一歩一歩かち取ってきた。理論の読み違いにせよ、ジェンダー・フリー教育が広がることによって、結果的に女性の権利が拡大してきたのは事実である。
しかし一方で弊害も起こっている。学校でクラス名簿を男女別から男女混合にするというのは、実際に多くの学校で行われているようだが、それが行き過ぎると、例えば運動会などで子供に「がんばれ!」と声を掛けただけで、保育士から「ジェンダー・フリーに反する」などと言われたことが報告されている。明らかに価値の逆転が起こってしまっているのだ。
極め付けは、昔話の主人公、鬼退治で有名な「桃太郎」を、女性の「桃子」に変更するというもので、世間で支配的な「男性優位」の風潮を批判するあまり、全く逆の思想になってしまっているという印象を持つ。
男女の平等を目指したはずの教育が、かえって不平等を生んでしまう矛盾。冒頭にあげた東京国分寺市の対応は、その氷山の一角にすぎないのかも知れない。男は強く女は弱いものというステロタイプと、それの裏返しとしてのジェンダー・フリー教育という二項対立では、いつまで経っても「心の平穏」は訪れないと思うのだ。
こういった傾向は、なにも今に始まった事ではない。80年代、欧米や日本で活発に論議されたエコロジカル・フェミニズムも同様の問題を孕んでいた。
Bエコフェミ論争と現在
80年代初頭、アメリカのエコロジカル・フェミニズム運動を担ったイネストラ・キングは、地球の環境破壊と、核による人類絶滅の脅威は、いままで女性の身体や性を抑圧してきた男性優位の思想によってもたらされたと論じた。
70年代のオイルショック以降、環境保護や反原発運動が各地で盛り上り、「ウーマンリブ」の限界を超えようと、「身体の自己管理」を目指した女性たちが、このエコロジーの広がりを家父長制のイデオロギーに支えられた産業主義の矛盾と考えて、積極的にこの運動に関わっていった。
こうして広がっていったエコロジカル・フェミニズム運動は、産業主義に対するオルタナティブであり、フェミニズムとエコロジーとを、社会のパラダイム・チェンジという同一の地平で眺めることの必要性を訴えた。フェミニズムがめざす男性と女性の関係の変革も、エコロジーがめざす自然と人間との関係の変革も、根底ではつながっているという訳だ。
日本でのエコロジカル・フェミニズム論者である青木やよひ氏は、そんなフェミニズムとエコロジーの可能性を追求した女性の一人である。彼女によれば、文明化以前の「未開」社会では、文化概念である「男性原理」・「女性原理」がその社会のなかで均衡を保っていた。しかし文明化によって「男性原理」が肥大化し、そのバランスが崩れてしまった。いまやわれわれ現代人に求められているのは「女性原理」の復権である。とりわけ「産む性」としての母性機能ゆえに、自然により親和的であるという女性の身体性を手掛かりにして、自然界のエコロジーと共に、身体のエコロジーを回復しなければならないという主張を展開している。
上野千鶴子氏は、青木氏がこのように「自然」/「文明」、「女性原理」/「男性原理」という具合に差異を固定化させていることを、単なる二元論だと批判する。「文化/自然の二項対立のうち、自然の側に女性を割り当てる男性優位の文化イデオロギーを実は前提とし、受け入れている」という上野氏の批判は、確かに的を射たものであると思う。
つまり青木氏は、反近代という理念を言うために近代を否定し、それ以前の社会を肯定的に描きだすのである。それは彼女が依拠するイヴァン・イリイチという男性イデオローグの視点からみた近代批判であって、その意味で逆説的に男性優位の文化イデオロギーを無批判に受け入れている。イリイチの近代批判については、彼の「シャドーワーク」という概念のあいまいさが、多くのフェミニストをして、彼を「アンチ・フェミニズム(イスト)」と言わしめる所以になっている。
イリイチは労働を「生産労働」と「非生産労働」とに分割し、それぞれ男性と女性に振り分ける。家事・育児労働を含む「非生産労働」=シャドーワークは、主に女性によって担わされ、その結果ジェンダー差別が構造化されると言うのである。
上野氏によれば、この「シャドーワーク」という概念は、賃労働(市場化された生産労働)の残余カテゴリーであって、女性に固有の労働形態ではなく、育児・家事という女性に押しつけられた労働を、その中に含みはするものの、決して育児・家事労働そのものを表現するわけではない。「シャドーワークの一般化は、女性・子供・老人・心身障害者・下層労働者階級・第三世界の人々に共通の視点をもたら」しはしても、「決してそれらに還元することはできない」のである。
イリイチは、彼自身が措定する「近代」像にあわせてフェミニズムをカリカチュアライズしている。現にアメリカ・バークレーのフェミニスト達は、カリフォルニア大学に講義に来たイリイチのあまりの差別者振りに対して、その場で彼を徹底的に糾弾し自己批判させているくらいだ。
そしてこのフェミニストの敵=イリイチに依って、「女性原理」を過大評価する青木氏を、上野氏は、「イリイチ派フェミニスト」、「性差のマキシマイザー」(最大化論者)と言い切ってしまう。この上野氏の態度はものすごく感情的だ。
しかし、性差を「マキシマム―ミニマム」というように分け、青木氏の近代主義を批判している上野氏にあっては、自身の論理矛盾には気づいていない。
「何でも平等」か「差別なき区別」かという、世相に対して上野氏はこのように論じているのだが、性差というのはあくまで(生物学的な意味で)男女の関係の束であって、それを最大/最小という具合に二分できてしまうほど単純ではない。
つまり青木氏だけでなく上野氏も、性差を認めるか認めないかという論争に入ることによって、戦前の「近代の超克」論争同様の轍にはまってしまっているのである。これでは世界はもとより、本来共闘すべきパートナーさえも救えない。
江原由美子氏はこの論争を評して、「近代主義と反近代主義の双方の言説を、ともに女性に即して解体しつくしていくことこそ、今の女性解放論の課題である。なぜなら、その対立はそれ自体、近代社会システムの一部であるからである」と述べている。その通りだと思う。「近代」を超えようとしたエコロジカル・フェミニズムが、「近代性」に埋没してしまったなんて、ほんと洒落にもならない話だからだ。
C母性とエコロジー
もう一つ、エコフェミ論争の中でポイントになるのは「母性」の評価である。青木氏が性差のステロタイプを解体していく際に引き合いに出すのが、シュラミス・ファイアストーンの『性の弁証法』における「生殖革命」という提起である。
ファイアストーンは女性を妊娠という「雌の屈辱」から解放するために、試験管ベビーや人工子宮といった科学技術の開発を提唱する一方で、性の自由化としてそれまでインセスト・タブーであった近親相姦や、大人と子供間のセックスなどを推奨している。
この著書が世に出たのが1970年だから、もう30年以上前ということになるが、不幸なことに、このファイアストーンの「予言」は実際に現実のものになった。今やクローン技術や分子生物学の飛躍的な進歩によって人間の「優性品種」化が懸念され、フィリピンやタイの国々では絶対的貧困の為、10歳前後の幼い「売春婦」の存在という悲しむべき現実がある。青木氏はこうしたファイアストーンを「科学主義信仰と機能的合理主義の申し子」として退ける一方で、自らも昔は科学技術の力を借りて妊娠や出産という「負担」から解放されたい気持ちを共有していたのだという。
しかしそんな青木氏が決定的に問われたのが、バラ色のはずの科学技術の進歩によって、枯葉剤などの近代兵器がベトナムの女性に雨と降り注ぎ、彼女達の生殖細胞を汚染してしまった現実と向き合った時である。アメリカの原爆資料館で「核兵器は、人類にとってもっとも文明的な戦争の手段だ」と誇らしげに言われた時だったという。
ここにいたって現代社会の「人間」(=マン)というのは、結局「男」(=マン)であり、科学技術に彩られた「男の論理」でしかなかった。だから人間の身体性を徹底的に無視する科学技術への素朴な信頼を捨て去って、人間の身体性に親和的な「女の論理」をつくろうと決意し、それが「母性」の復権という主張につながっていった。ここで青木氏がいう「母性」というのは、もちろん女性と子供の関係という一面的な問題ではなく、「近代的自我とは違う母性我」であり、孕み産み、弱いものと手を取り合う能動的なものである。
ただし、それを主張した、高群逸枝の「日本の母」イデオロギーが、戦前・戦中にものすごい影響力を与えたように、「母性」=「天照皇大神」という天皇制神話が色濃い日本社会が、容易に「母性ファシズム」になる危険性は高い。
青木氏の「母性」の復権という提起は、身体の社会性、自然との親和性を取り戻していこうという試みとして理解することはできるが、彼女の「天なる父と母なる大地」という解放イメージは、抽象的すぎて実際には適応できないと感じる。
一方的な愛(=物資)を供与する存在として母親(=自然)と、それを享受するだけの子供(=人類)がイメージされ、その結果として、生態系を無視した森林の伐採だとか、石油など地下資源の収奪に道を開く。また反対に自然保護の立場に立てば、「あるがままの自然を守れ」とか、環境破壊のことを「自然のレイプ」だとか表現するのに顕著な、自然の積極的・能動的な要素が考えられなくなる。結局、白神山地の「手付かずの原生自然を守れ」というような現状肯定になってしまうだろう。
エコロジカル・フェミニズム論争が起こった80年代当時と比べて、状況は何も変わっていない。エコロジカル・フェミニズムが投げかけた問題提起は、エコロジー危機というアクチュアルな、また差し迫った状況に対して、女性はどのように対応するのかを問うものだった。ジェンダー・フリー教育がめざす「心の平穏」という課題も、テーマこそ違うものの、荒廃する社会不安に女性の社会参加を促そうとするものだった。
残念ながら、男性優位社会を批判し、逆に女性優位社会をめざしたジェンダー・フリー教育も、自然と女性を同一視するエコロジカル・フェミニズムも、ともに近代主義という枠組みの中で目指す方向を見失っている。私は、女性が女性らしく生きる社会をそれとして追い求めるのは、展望が無いと感じている。男性も含め、現実の社会矛盾に対する働きかけや、環境保護の運動を担い、活動していく中から、ともに考えていきたいと思う。
(エコ・アクション21会員)
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(2006年5月15日発行 『SENKI』 1212号5面から)
http://www.bund.org/opinion/20060515-3.htm