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アメリカ・回復者のコミュニティに見る中間諸団体の可能性
「敗者こそ復活できる社会」のために
保科湘子
http://www.bund.org/opinion/20060515-2.htm
アメリカが崩壊しない理由とは
本紙年頭論文で、中間諸団体の可能性と役割について論じられていた。「第三の道」の内容についての提起に強い共感を持った。セーフティネットが崩壊に瀕し社会的連帯が死語と化しつつあるこの日本で、これから先新しい紐帯を結びなおしていく必要を感じていたからだ。そこで中間諸団体の内容豊富化のためのひとつの参考として、アメリカにおけるアルコールや薬物など様々な依存症から回復した当事者のコミュニティについて取り上げたい。
なぜこれを提起したいのかといえば、いまさら「進んだアメリカに学べ」などと言いたいわけではない。映画「華氏911」で描かれたような「超大国アメリカ」の病理である貧富の格差の拡大と同時に、アルコールや薬物等の濫用・依存が深刻な社会問題となっている中、それでもあの国が崩壊しないで辛うじて持ちこたえているのは、社会自浄機能・民衆の回復機能である中間諸団体の活動が大きいと思えるからだ。
最近私は自分の「もえつき」という精神的危機を体験した。その治療の過程で、依存症からの回復者であるアメリカ人カウンセラーのグループワークを受講し、「生き直し」を支える回復者コミュニティの実際と可能性について垣間見る機会を得た。当事者の一人として、そこから知りえた展望を少しでも伝えたいと思う。
アメリカを内側から蝕むアディクション
「戦争依存症」の国、アメリカ。国内では、貧富の格差拡大と犯罪の蔓延という問題を抱える。その社会的排除の実態たるや凄まじい。「負け組」の象徴トレーラーハウス生活者が2200万人を突破する一方、「勝ち組」の象徴として最も可視的なのは90年代急速に増えたgated community(ゲーティド・コミュニティ)だろう。アッパークラスの邸宅のみを壁で囲い込み、ゲートはガードマンの検問を受けないと出入りできない。実際、物理的な「壁」が存在していなくても、勝ち組と負け組は居住空間から厳然と分断されつつある。
さらにもうひとつ、アメリカは内部から深刻な病理に蝕まれている。それが「アディクション」だ。
アディクション(嗜癖)とは、アルコール・薬物・ギャンブルだけでなく、仕事・食べ物・ショッピング・恋愛や性行動などへの習慣的で、自己破壊的なのめりこみ・依存を指す。WHO(世界保健機構)でも認定されている「治療が必要な病気」だ。アメリカでは3世帯に1件がアルコール依存症の問題を抱え、アディクションによる経済的損失は年間10兆円を上回ると言われる。
ブッシュ現大統領が若い頃アルコール依存症になり宗教に帰依して「回復した」といわれているが、全米で最も有名な依存症回復者は、おそらくフォード元大統領の夫人ベティ・フォードだろう。アルコール依存症であることを自らカミングアウトし、回復後に私財を投じて専門の治療施設を設立し自身が会長となったからだ。その名にちなむ「ベティ・フォード・センター」は現在、アルコール依存症者のみならず崩壊家庭で育った子供のカウンセリングや、家族支援のためのプログラム等も備え、回復を求める依存症者が国内外からやって来る治療の世界的メッカとなっている。
彼女の例は二重の意味で象徴的だ。アディクションは貧困層特有の問題ではなく、「ファーストレディー」でさえ例外でなく対象はあらゆる階層に渡ること、そして依存症者のいない家庭でも、どこでも誰にでも起きうる問題であることを知らしめた。また同時に、回復可能な病気であると認識されていったのだ。アメリカでは以前はタブーだったがいまや一般用語となっている。
アディクションは、もえつきと同じく一定のプロセスを辿る進行性の病だ。「内面的な欠乏を外的な刺激によって埋めようとする病」とも言える。治療の柱は、@医学的治療A心理教育BカウンセリングCリハビリテーションDセルフヘルプ(自助)と言われる。医療や他人では完全な「治療」はできない。事態を変えることができるのは本人だけだ。しかしそれは自分のそれまでの生き方そのものを変えることを意味するため、非常な困難をともなう。状況も回復の過程も時間も人それぞれ異なる。その最も困難な回復プロセスにおいて決定的に重要な役割を果たしているのが、回復者自身である。
「生き直し」を支える回復者のコミュニティ
アメリカでは回復者のコミュニティが全ての州に存在する。それだけアメリカが病んでいることの証左に他ならないが、トクヴィルが「アメリカ人は何でも組織化しコミュニティを作る」と描写した伝統が今も生きているとも言えるだろう。
最初の自助グループは、1935年に結成されたアルコール依存症者のグループAA(Alcoholics Anonymousアルコホーリックス・アノニマス)だった。当初秘密結社的に始まったAAは、「医療的にも処置なし」とあらゆる機関からさじを投げられた依存症者たちが驚異的な確率で回復していく事実によって市民権を得てゆき、現在は世界100カ国以上に広がっている。内科的治療の飛躍的進歩にもかかわらず、医療的には依存症をとめる決定打は未だに存在しない。アルコール依存症者の回復に向けて中心的な活動を担っているのは今も昔も自助グループなのだ。そのほかにも、AL-ANON(アラノン・アルコール問題を抱える人と家族の集まり)、Nar‐Anon(ナラノン・薬物依存症者と家族友人の集まり)、Gam‐Anon(ギャマノン・ギャンブル依存症者と家族の集まり)、NABA(摂食障害者をもつ家族の集まり)等等、様々な自助グループがある。
その活動内容は世界共通で、発足当初から現在までほとんど変わっていない。地域ごとに宗教的なバックボーンはあるにせよ、何か神がかった特別なことをするわけではなく、回復の柱はグループミーティングだ。ただ依存症者同士が集まってお互いに自分のこれまでの人生について話し合うだけだ。
批判や批評もなければ高邁な理論の開陳もない。しかしその経験と感情のシェアによって、家庭を崩壊させようが職や人間関係全てを失おうが「どうしてもやめられなかった」アディクションから確実に離れていくことが可能となっている。
さらに特筆すべきは、欧米ではこうした「リカバリング」と呼ばれる依存症からの回復者たちが、ボランティアとして活動するだけでなく、大学教育を受けてカウンセラーやケースワーカー等の援助職の資格を取り依存症治療施設で専門職として活躍していることだ。医師や看護婦が全く常駐していない、セラピストとリカバリングたちだけで運営している治療機関も珍しくない。実にスタッフの全員がリカバリングという施設もあるそうだ。
つまり回復することによって生活の手段が得られるということだ。それは治療のみならず、失業や貧困・犯罪など底辺からの脱出とくっついている。
路上生活者や低所得者専門の治療施設もある。そこをステップにして高等教育や職業訓練が保障されれば、「薬物を使わない生活」「依存しない生き方」を選択することが可能となっている。
リハビリテーションの語源には、「尊厳を回復する」という意味もある。まさに、自分のどん底の体験が社会的に還元されると同時に、それをアドバンテージにして具体的に食っていけることで、誇りを持って生きていけるのだ。
私が直接グループセッションを受けたアメリカ人も、アルコールと薬物依存からの回復者だった。過剰摂取で生死の境を彷徨った後に自助グループと繋がり、大学で心理学を修めて国家資格のアディクション・カウンセラーを取得し、治療施設勤務を経ていまは州児童保護局の職員として働いている。日本で言えばアル中でジャンキーで廃人寸前だったホームレスが、その経験ゆえにスカウトされて国家公務員になったようなものだ。もちろん「世間的に堅い職業」だからいいということではない。一度脱落しても敗者復活することができる。どんな状態になったとしても、何歳からでも何度でも、人は生き直すことができるということを、彼らは体現している。そこにこそ意味があると思う。
「自立した個人」の「自己責任」という幻想
ここから言えることがいくつかあると思う。ひとつは、「自立した自由な個人」という理念がいかに幻想かということだ。「自己責任の国」アメリカ自体が、実はすでに「小さな政府」だけでは成り立っていないことは明らかだろう。
勝ち組・負け組を判断基準とする市場万能主義が蔓延する中では、「成功していなければならない」「強くなければならない」と、絶えず脅迫されているようなものだ。一般的に流布している価値に合致するように無理を重ねていけば、何かに依存せずに生きていくのは不可能なのではないかという気さえしてくる。現にアメリカのメディアを見れば、勝ち組であるはずの「セレブ」達がもえつきたり依存症になって次々と治療施設の扉を叩いているのが毎日のように報道されている。問題は「成功している」かどうかとかではない。自分で自分の生き方を自覚しているかどうかだ。
そこでの分かれ目はなんだろうか。アルコール依存症が「否認の病」と言われるように、依存症は自分の限界や弱点や自己肯定感の低さなど諸々の問題を誤魔化し続けるのが病因だ。だから、「底つき」を認めること、つまりこれ以上ないどん底にいる自分と向き合うことで、はじめて回復の途に就ける。逆に言うと、底つきをしたところからしか次の人生は始まらない。その時、全てを失った状態で、それでも「底つきをしても生きていける」と思えるかどうかが大きな鍵になる。前を行く回復者の存在それ自体が当事者にとっての具体的展望となるのだ。そしてそれは回復者にとっても代えがたい意味がある。実は、「完全な回復者なるもの」がいるわけではない。何度もスリップを繰り返しながら、生きている限り自分の依存的な傾向につきあい続けていくしかない。ただ自分が誰かの支えや展望になりうるという相互関係があることで今までの人生全てが無駄ではなくなる、それによって依存しない生き方を選び続けることが出来るというだけなのだ。
当事者として言えば、実際のところ自らの底つきと向き合うことは容易なことではない。「その時点でもう人間的にダメってことなんじゃないか」「自分はそういう奴等とは違う。傷の舐め合いをするようになったらおしまいだ」といったスティグマ(社会的烙印)による拒否感も根強い。実は私も以前は強固にそう思っていた。それでは、セルフヘルプは不健全な「傷の舐めあい」とどう違うのか。
AAの文献の中にこんな言葉がある。「罪というものはたった二つしかない。一つは他人の成長を阻む罪であり、もう一つは自分の成長を阻む罪である」。自分にできることを人にやってもらうのは依存だが、出来ないことで助けを求めるのは健全だということだ。何でも責任を肩代わりしてもらうことではない。自己正当化して自分を哀れみ、慰撫しおだててなだめすかしてもらっても、それによって回復した事例は一つもない。最後は、本人が自分で立つしかない。回復したい、自分を変えたいと本人が本気で思うかどうかだ。ただその時にどうしても必要なものがひとつだけある。逆説的かもしれないが、「なにひとつ持っていなくても、何も出来なくても、そういう自分でも生きていていいのだ」という無条件の全面的な肯定感だ。
金子勝氏が「健全な競争をするためにこそセーフティネットが不可欠」と指摘していたが、同様に「精神的なセーフティネット」とでも言うべき安心感が必要だと思う。つまり、「競争から脱落し敗者になったとしても、人間的価値まで否定されることはない」というベーシックな尊厳の保障だ。そういう最低限の保障があってはじめて人はリスクを承知で様々なことにチャレンジできるのではないだろうか。個人が「自己責任」を引き受け「自由に自立」していけるのは、そういう確固たる足元のバックボーンがあってこそなのだ。
「敗者になったらおしまい」なのか
これまでの日本は、ある意味自分が敗者にならないように皆ががんばってきたと言える。国家の政策としても「極端な金持ちもいない代わりに極端な貧乏人もいない」ように、なるべく敗者が減るようにしてきた。色々問題はあるかもしれないが、アメリカと比べればはるかにまともな年金や生活保護や健康保険等の社会保障制度があった。それがいま、不況と小泉改革によって破壊されることで、「一度落ちたら底なし沼、誰も助けてくれない」としか思えなくなってきている。
いまは日本全体で「底つき」を拒否しているようなものではないかと思える。皆で「立ち止まったら終わりだ」「まだどん底じゃない、なんとかなる」と現実から目をそらし続けていれば、事態は好転しないだろう。「国敗れて山河有り」と言うが、たとえ国家がなくなったとしても人間が生きられればいい、と思えるかどうかが鍵なのではないだろうか。「失敗してもいい、底つきをしても大丈夫」という具体的な展望が必要なのだと思う。
実際、今の日本では「敗者になったらおしまい」なのか。そうではない、と思う。あまりにも知られていないが、日本でも生き直しを支える中間諸団体の地道な取り組みがある。AAを日本的にアレンジした「断酒会」を始めとして、薬物依存・ギャンブル依存・摂食障害等の依存症者への様々なサポートがあり、回復を求める人たちの確かな支えとなっている。20年ほど前からアルコール依存症や薬物依存症のリハビリ施設も出来はじめ、リカバリング・カウンセラーたちの活躍する場も増えてきている。
ただその数は限られている。AAや断酒会のない地域もまだある。また日本では回復者であることそのものを売りにして食っていける職業はごくわずかだ。一度キャリアから脱落してしまうと回復しても復職や一般就労は難しく、生活保護を受給しながら治療施設や精神障害者作業所に通っている人も多い。その日常の居場所である作業所の運営は、自立支援法の施行によって今後かなり厳しくなると予想されている。地縁共同体が崩壊に瀕し中間諸団体も少ない日本は、これから先はある意味アメリカより苛酷になるかもしれない。
それでも、「日本は遅れている。欧米に学べ」という紋切り型の批評をしても意味がない。歴史的・社会的背景を無視して欧米のシステムを直輸入することは出来ないし、すべきでもないと思う。システムそれ自体が人を救うのではないからだ。
社会的弱者救済というと、それでは「大きい政府」を選択するのかということになるが、高福祉をシステムとしてただ拡大しても「イギリス病」に陥るだけというのは歴史が既に証明している。ネイティブアメリカンやイヌイットのコミュニティでアルコール等の依存症者が多いように、居住地と生存が保障されていても、自分達のアイデンティティである伝統に拠って立つことが出来ない飼い殺し的状況は精神的な荒廃を招く。物質的な生活保障は最低限必要だが、それだけでは人は生きていけない。「結果の平等」の保障だけでは社会は運営できないということだ。国家による最低生活保障があったうえで、なおかつコミュニティにおける役割や他者とのつながりがあって、初めて人は生きていく気力を培っていけるのではないだろうか。言うなれば「生きるための共同性」だ。それをどうやって社会的に創り出していくのかが問題なのだ。そこに中間諸団体の社会的役割がある。
「敗者にこそ復活できる権利がある」
アメリカにしても、現在のような中間諸団体や治療施設自体が初めからあったわけではない。自らが担い手となることによって新しい制度をひとつひとつ政府に認めさせながら、貧弱なセーフティネットを補うだけでなく、必要な具体的支援システムを長い年月をかけて創り上げてきたのだ。
日本でも、これまでの地道な取り組みだけではなく、新しい萌芽が沢山出てきている。たとえば震災時にボランティアが続々と救援に駆けつけたことがそうだし、そのうねりがNPO法人設立に広く門戸を開く法律の成立を大きく後押ししたように、新たな社会的支援の取り組みが広がりつつある。そこに可能性があると思う。
もちろん、中間諸団体が万能なわけではない。どんなに努力しても、どんなにあがいても、どうにもならないことが世の中には存在する。「信じれば必ず夢は叶う」とは限らないし、誰もが金メダリストになれるわけではない。どんな社会体制であれ、その現実から出発するしかない。
では、そうなれない者は必要ないのか。敗残者は無価値で、すべての努力は無駄なのか。そうではない、と思う。その過程で何を得るのか、まさに失敗や挫折によってしか体感できないことがある。だからこそ、敗者になることを恐れて失敗を拒否しチャレンジすることすら出来ない、その状況こそが問題なのだ。そのリスクをも全て個人で負わなくてはならないとしたら、誰もがそんな危ない橋を渡れるだろうか。「勝ち馬」に乗りたいと思ったとしても当然だろう。だから、「ホリエモンの虚業」をいくら批判したところで、それだけでは何の解決にもならない。それ以外の具体的展望を社会変革の側が明示してこれなかったということでしかないのだから。だから、新しい展望を私達がどうやって創り出していくのかが、いま問われているのだと思う。
競争の敗者のいない社会がありえないのだとすれば、敗者になっても生きていける社会を何らかの形でつくっていくしかない。「敗者にこそ復活する権利がある」、そう実感できる社会に少しでも変えていくこと。多くの人と共有したいのはその価値だ。
これから先の日本を分断された「gated community」にしていくのか、それとも「生きるための共同性」にひらかれた社会にしていくのか、それは今を生きる私たち自身にかかっていると思う。
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(2006年5月15日発行 『SENKI』 1212号4面から)
http://www.bund.org/opinion/20060515-2.htm