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異端の肖像2006 「怒り」なき時代に  日本ツキノワグマ研究所理事長 米田一彦 【東京新聞】
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投稿者 愚民党 日時 2006 年 5 月 01 日 12:46:11: ogcGl0q1DMbpk
 

異端の肖像2006 「怒り」なき時代に

日本ツキノワグマ研究所理事長 米田一彦(58)

 これまでに二千頭ものツキノワグマに出会った。そのうち八回襲われた。

 「よく生きてると思うダろ。でもクマ追いがクマに食われたら、笑いものになるガラね」

 西中国地方のクマを保全するため、広島県の山間地に移り住んで十五年以上になるのに、東北弁丸出しのしゃべり方が抜けない。

 在野のクマ研究者。捕獲したクマを殺さず、発信器をつけて山に戻す「奥山(おくやま)放獣(ほうじゅう)」を自ら提唱し、日本に定着させた。

 風変わりな転入者は、地域の有名人でもある。「日本ツキノワグマ研究所はどこですか」と数キロ離れたところで道を尋ねると、行商のおじさんは「あぁ、クマ先生のとこか。この先の山の上だよ」とすぐ教えてくれた。ヨネダではなく、マイタと読む珍しい名字も名刺代わりだ。もっとも有名であることは、必ずしも好意を持たれていることを意味しないが…。

 青森県三本木町(現十和田市)で育った。秋田大学を卒業後、秋田県庁に就職し、一貫して鳥獣保護行政に携わる。「動物好きで在学中からクマやニホンカモシカを追い回していたことがそのまま仕事になった」というから、まずは順風満帆だったといえるだろう。

 しかし度を越した物好きは、その後の人生行路を大きく変えてしまう。

 一九八五年に当時の環境庁が始めたクマの生態調査に個人の立場で参加したことで、役所仕事と両立が不可能になった。米田が捨てたのはクマ追いではなく、安定した役所勤めの方だった。

 調査が終わった後、九〇年に広島、島根、山口三県にまたがる西中国の山間部に向かった。この地方のクマは絶滅に瀕(ひん)していた。

 勇んで乗り込んでいったのとは対照的に、住民から受けた視線は冷たかった。

 「そんなにクマが大事なら、秋田に連れて帰れ」と何度罵声(ばせい)を浴びせられたことか。クマ被害に日常的に悩まされている住民は、実態も知らずに「保護」を振り回す都市の自然保護運動に、生理的な嫌悪感を持っている。米田もその手合いと同一視された。自宅には石や爆竹を投げ入れられ、車を鉄片で傷つけられた。

 「あのころは疲れ切っていた。それでもここを離れなかったのは期待してくれる地元の人もいたからだ」

■防護柵感謝され広島に定住決意

 畑をクマに荒らされたおばあさんのために、電気の流れる防護柵を作ってあげたところ効果はてきめん。おばあさんは「先生さま、ありがとうございました」と手を合わせた。人に感謝された単純な感動が、広島への定住を決意させた。

 西中国のクマは、民家の周辺や屋根の上に出没する。秋田ではこういうクマは見たことがなかった。いきおい人とクマとのニアミスが頻繁に起こり、「有害駆除」と称する殺害に拍車がかかる。絶滅が危惧(きぐ)されるようになったゆえんだ。

 もともとクマがすんでいた山にはスギやヒノキなど金銭価値の高い樹木ばかり植林され、クマが食べる木の実は激減した。そこに押し寄せた過疎化の波。腹をすかせたクマは人影少なくなった集落に寄り付いてくる−。米田はこう考えた。

 「人間とクマの距離のバランスを壊したのは人間自身だ。クマが集落に出没する現状そのものを変えなければ解決にならないのに」

 行政の無策に強い不満を抱いていた米田は九一年十一月、「生涯忘れられない場面」に遭遇する。その日、捕獲されたオスグマを射殺するという連絡を受け、立ち会うことになった。

 「ズッバーン」。至近距離から首を撃たれたクマは、おびただしい血を流しながら、なお仁王立ちしている。ゆっくり頭を下げると、今度は自分の血を弱々しくなめ始めた。「ピチャ、ピチャ、ピチャ」。失われつつある自分の命をもう一度、体に引き戻そうとしているように。そして、赤く染まった大地に崩れていった。

 「もういい! クマを殺すやり方は間違っている。ほかの方法を探さないと、クマは絶滅してしまう」

 思いついたのは、米国で七〇年代から行われている奥山放獣だった。

 単にクマを無罪放免にするのではない。放す前にトウガラシ入りのクマ撃退スプレーを鼻先に吹き付け、「人間は恐ろしい」と学習させる。こうしておけば、クマが人里に戻って来る可能性は格段に低くなる。

 あのオスグマの死から二週間、奥山放獣第一号を送り出した。山に戻っていくクマの後ろ姿に声をかけた。「二度と捕まるなよ」

 奥山放獣はきれいごとのクマ保護ではない。原点にあるのは「一度だけは許す」という考え方だ。その代わり再び里へやって来て農作物に被害を与えたり、人家に入り込めば酌量の余地はなくなる。捕獲した際、発信器をつけておくので、“再犯”かどうかはすぐ判別がつく。「被害が頻発している状況を考えれば、捕殺もやむを得ない場合もある。その判断は私がする」

■嫌がらせも達観 自分がはけ口に

 奥山放獣はこれまでに米田の研究所が六十八頭、これとは別に中国地方の行政主体で七十五頭実施され、「西日本方式」として全国のモデルになった。

 住民からの嫌がらせは今もある。「クマが絶滅してもだれも困らない」という考えは根強いのだ。だが「自分がはけ口になるなら」ともはや達観している。

 米田が厳しい目を向けるのは、住民よりもむしろクマと背中合わせに暮らす住民への共感を欠いた自然保護運動に対してである。

 二〇〇四年秋、日本海側の北陸、東北地方を中心にクマが大出没した際、兵庫県西宮市の自然保護団体が七−八トンものドングリを山にばらまいた。食べ物が十分あれば、里に出ては来ないだろうという発想だが、これには米田もあきれる。

 「クマは食べ物があるうちは、居着いて同じものを食べ続ける習性がある。一カ所にいるのでかえってハンターの的になる。クマにエサを恵んでやるという発想は、実はクマを危険にさらすことにしかならない」

 米田は広島市民や高校生に参加者を募り、クリや柿の木の幹にトタンを巻いて、クマが登れないようにする「トタン巻き救世軍」をやったり、クマが集落に近寄ってこないよう、柿の実をもぎ落とす活動もしている。「都市の住民たちに『行動の税金』を払ってもらうことで、クマ被害に遭っている人の苦しみを体感してもらう」のが狙いだ。自然保護団体への米田なりの反論でもある。

 役人を辞めて二十年になる。収入は著作の印税や講演料などだけで、昨年の年収は六十二万円だった。自称「無冠・貧乏帝王のクマ追い」。企業や研究機関から浄財は受けているが、すべて研究所の運営資金や所員の給料に充てられる。

 「この前、確定申告したら、還付で六万円戻ってきたんでうれしガったよ。忙しく走り回ると、原稿が書けないんで、その分貧乏になる仕組みデね」

 そこまでして、なぜクマを守るのか。人生の半分以上をクマ追いに費やしてきた米田でさえ、その答えは持ち合わせていない。「クマはもともと人との接触を避けようとする動物。おらドの祖先は、クマに出くわしても当たり前のように見過ごしデきた。そんな日を取り戻すのが理想ガな」 (敬称略、浅井正智)

 まいた・かずひこ 1948年青森県生まれ。秋田県庁で鳥獣保護行政を担当し、86年退職。90年西中国地方のクマ保全を目指し広島県吉和村(現廿日市市)に転居する。91年日本で初めて奥山放獣を手がけ、97年以降は韓国と中国でも保全事業に取り組む。現在、特定非営利活動法人・日本ツキノワグマ研究所理事長。著書に「生かして防ぐクマの害」「ツキノワグマを追って」など多数。

<デスクメモ>

 一昨年の夏から秋にかけ、相次いでツキノワグマが人里に出没し騒ぎになったが、昨年は捕獲される例が大幅に減ったという。過度の駆除が原因との見方もあるようだ。国内で約一万頭と推定されるツキノワグマだが、九州はほぼ絶滅、四国も数十頭とか。「行き場を失った動物」たちの姿が象徴するのは…。 (透)

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060501/mng_____tokuho__000.shtml

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