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特報
2006.04.29
職員会議『挙手・採決禁止』の何で?
東京都教育委員会が、都立学校の職員会議で先生の挙手、採決を禁止した。これに対して教員は十分に議論ができるのか、校長に指導力は生まれるのかと疑問の声が上がる。多数決による採決は民主主義のルールでもあったはずだ。禁じるのはなんで?
「挙手するな、採決するなというのは、発言するなというのに等しい。こんなことをすればだれも職員会議で意見を言わなくなってしまう」
元都立高校長(62)は、職員会議での挙手や多数決による採決を「不適切」とした都教委の通知に、教育現場の危機をみてとる。
校長時代、職員会議で教員全員に意見を言わせた。異論が出ても結論を焦らず、議論が尽きるのをじっくり待った。「議論なくして教育現場に活力はない」という信念があったからだ。
「都教委は職員会議が障害になり、校長がリーダーシップを発揮できないという。しかし本音は、都教委が言うことを校長がリーダーシップをもって徹底させろということだ」とこの元校長は皮肉る。
都教委が職員会議で挙手や採決によって職員の意向を確認しないよう、中村正彦教育長名で「適正化」の通知をしたのは十三日のことだ。
都教委が今年一月、約二百六十校の都立学校に対し、職員会議について調べたところ、十数校で挙手などによる採決をしていた。「校長の意思決定を拘束しかねない運営が行われていた」と学務部学校経営指導担当の加藤裕之課長は説明する。「採決するな」はこの現状を是正するための措置と言いたいようだ。
そもそも学校における職員会議とはどういう位置づけなのか。通知は「校長の職務を補助するための機関」とし、「教職員に対する報告、意見聴取および連絡に限っている」という。意思決定機関はあくまで校長や副校長(教頭)、主幹教諭らからなる「企画調整会議」なのだ。だからこそ挙手や採決によって職員の意向を確認するような運営は、「実質的な議決機関となりかねない」うえ「不適切」と言い切っている。
しかし前出の元校長は、「校長の意思決定など、とっくにできなくなっている」とあきれる。
「いまや学校はコンビニで、校長は店長みたいなものだ。生徒や親、地域のニーズに沿って何でもあるように見えるが、実は本部から仕入れ品や品物の並べ方まで全部指導されている。校長は何もできない雇われ店長でしかない」
■考課導入で締め付け一層
教育現場でモノが言えない風潮が顕著になったのは一九九九年の石原都政誕生以後だ。都内の中学の四十代の男性教員は「校長が教員を五段階評価する人事考課制度が二〇〇〇年に始まってから、校長の方針に反論する教員が目に見えて減った。ただでさえ職員会議での発言が減り、議論が少なくなっている。今回の通知で締め付けが一層厳しくなる」とため息をつく。
これに対し、前出の加藤課長は「採決が不適切といっても、議論するなということでは全くない」と反論する。
「例えばこの生徒を進級させるかなどという重要な問題を採決で決めていいのか。学校の責任者はあくまで校長。責任を問われない人が重要なことを決めるのは、一般の人から見てもおかしいはずだ」
都教委の方針を支持する教育関係者もいる。
別の元都立高校長は「職員会議で『生徒や保護者に満足を与える教育サービスをしよう』と話してもなかなか響かない。教員の負担が増えるような提案は反発される。職員会議は学校経営の方針を徹底する場にした方が効率がよい」と話す。
都内の中学の二十代の女性教員も「私を含め若い教員が職員会議で発言することは少ない。ただでさえ授業の報告書作りで忙しいのだから、職員会議は早く終わってくれた方が助かる」と明かす。
一方、方針には強い反対の声が出る。都立高の五十代の男性教員は「進級を例にしても、個々の生徒の顔を知らない校長らが、テストの点数や出席日数だけで一方的に判断していいのか。進路指導や部活動、家庭訪問をはじめ、私たちが毎日やっていることは何のためなのか」と訴える。
今回の都教委の措置には伏線がある。二〇〇〇年の旧文部省が出した「職員会議は校長の職務の円滑な執行を補助するもの」とする通知だ。
この通知では挙手や採決が不適切とまでは断定していないが、文科省初等中等教育企画課の担当者は「校長の意思決定を不当に拘束する事態を解消するための措置であれば特段問題ではない」と、都教委の措置に理解を示した。
これに対して都内の保護者らを中心に集う「学校に自由の風を! ネットワーク」の丸浜江里子さんは、通知に反対の立場から「職員会議の形骸(けいがい)化はすでに進んでいる」と話す。
「『校長』、『教頭』のほかに『主幹』という職位ができて、重要な決定はすべてこの三者の会議で決まる。学年主任であっても主幹でない教師は『作業層』と呼ばれ、意見は反映されない。そうやって、教師がものを言えなくなる方向へ着々と進んでいる。教師がものを言えなくなれば、子供たちも言えなくなる。何よりも、それが怖い」と危惧(きぐ)する。
東京都公立学校教職員組合(東京教組)の吉田一徳執行委員長は「実は一九九八年に都教委は学校運営規則を変えて、職員会議を校長の補助機関と位置づけた。あらためてこの方針を補強したということでしょう」と分析する。
元中学教師で教育評論家の尾木直樹氏は、通知の問題点を説明する。
「都教委は、リーダーシップを発揮できずにいる校長を助ける目的で支援センターなるものをつくった。その初仕事が今回の通知だと説明している。だが問題のある学校があるならば、個別に指導すればよく、全体に網をかけるという方法がおかしい。ファシズムのにおいを感じてしまう」
尾木氏はこう続ける。
「こうした傾向は日本全国の中で東京都が極端に突出している。教育委員に特殊な思想的傾向を持った人が目立つし、石原都知事の意向を反映していると言って間違いない。おそらく今年の東京都の教員採用試験の応募者は激減するだろう。教職を志す学生たちの間で『東京がおかしい』という認識は常識になりつつある。優秀な学生は皆、やりがいのある職場を求めて他府県に逃げていく。都民は、これが異常な事態であるともっと感じなければ」
二十八日、教育基本法改正案が閣議決定された。「これで教育現場の統制は、さらに進むのではないか」と翻訳家の池田香代子さんは不安を感じている。
「戦後に生まれた現在の教育基本法は、憲法と同じく『われら』を主語にしている。つまり私たち主権者が、これはしてはいけないと国に命令する法律だ。ところが与党改正案からは『われら』が消えた。変わって『国』『国家』という言葉が二十六回も出てくる。この法律が成立すれば、日本の大きな転換点になりかねない」
<デスクメモ> 指示待ち人間はダメと学校で教わった。会社でも同じ。職員室で上意下達が進むと、先生は生徒にどういい訳するのか。なにより教育行政は「教育の自主性」を踏まえなさいと規範を示したのが教育基本法。戦前の学制が官僚や政党にゆがめられ、国家主義や戦争に走った反省からできた。とこれも習ったが。(学)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060429/mng_____tokuho__000.shtml