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ありきたりの生活をちょっとだけ良くする
女の幸福ってなんだろう
http://www.bund.org/culture/20060215-2.htm
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結婚を通じて考えたこと
青野加枝
昨年、結婚をした。普通に考えると結婚とは祝福されるべきものである。そして、結婚すると人間関係が大きく変化する。私はその変化に自分自身を見失ってしまった。以下、結婚を通じての個人と社会の関わりについて考え、感じたことを書いていく。
結婚式
結婚式の準備というのは結構大変なものである。招待客、席次表、衣裳、引き出物…。大きなお金も絡んでくる。結婚する二人の意向だけでは進んでいかないものなのだ。両家の家族だけの問題でもない。二人が考えたことをそれぞれの両親に伝える。すると両親が親戚に打診する。今度は親戚の意向が両親の元へやってきて、二人のところへ戻ってくる。それをお互いが付き合わせ、両家のバランスが悪くないか、それぞれの考え方はどうかを付き合わせる。結婚は家同士がするものだと聞いたことはあったが、それ以上だった。結婚式は、親戚ぐるみのイベントだったのだ。
私達は式に先立ち二人で暮らし始めていたので、双方の両親との打ち合わせ時間がなかなかとれなかった。そんな中で、詳しいことを早く決めたい私の母は私をどんどんせっついてきた。「どうなってるの。早く決めて連絡しなさい」。電話で母に怒られることが多くなった。今思えばきっと母も親戚連中にせっつかれていたのだろう。しかし決めなければいけないことは時間がかかるものばかり。そうこうするうちに、私はストレスをためてしまい、だんだんと疲れ果ててしまった。
結婚式当日は楽しい思い出になったが、同時にとてもほっとしたことを覚えている。もうこれで結婚式の準備をしなくていい。全て終わったんだ、と。もう二度とこんな面倒なことはしたくないと心から思った。
主婦生活
私は結婚前に諸事情で退職していたが、予定では結婚後すぐ正社員として働こうと思っていた。ところが結婚準備で消耗し、しばらくの間無気力なままダラダラと専業主婦として過ごしてしまった。すると、そのうちに迷いが生じてきた。〈このまま専業主婦という選択肢もあるのではないか〉以前の仕事は忙しく、9時過ぎに帰宅することも多かった。そのため専業主婦という、毎日ちゃんと家族に夕食を作ってあげられる環境はとても理想的だった。考え進むにつれ、正社員では子供ができたとき産休だけではかわいそうだとか、どんどん考えがもつれていった。やはり専業主婦は夫婦関係の理想の形なのだろうか。そんな考えが浮かぶ自分にとまどいながらも、その迷いから、自分の生き方そのものをどうしたらいいのか分からなくなってしまった。
そのうちに言いようのない不安に襲われるようになった。孤独感が募るのである。しかし同時に退屈でもある。その孤独と退屈を紛らわすために刺激が欲しくなった。なぜワイドショーがスキャンダラスなニュースを流すのか、なぜ昼のドラマはドロドロした展開になるのか、なんとなく合点がいった。それがエスカレートすると、不倫に発展してしまうのかもしれないとさえ思えた。
幸せな主婦もいるのに、なぜ私は孤独なのだろうか。それは自分を自分たらしめる共同体に所属していないからではないか。自分の世界がいつの間にか、「夫婦」という枠組みだけになっていることに気がついた。運悪く、その頃他の人間関係もなくなってしまう状況が重なり、完全に自分を見失ってしまった。その時も組織に属してはいたのだが、結婚準備のストレスもあり、結婚に関する相談ができる人がいなかったため、少し参加が消極的になってしまっていた。
世の中が個人主義的になってきているとはいっても、全ての共同体から離れてしまった私の個人の人脈など数える程しかなかった。結局、日常生活の中で、自分の思ったことを話す相手は夫だけ。しかし相手は仕事でくたくたで、仕事から帰ってきても話し相手になってくれない。全ての感情を夫にぶつける。そんな毎日に陥るのに時間はかからなかった。
こういう状態が、「夫が話を聞いてくれない」と妻が訴え離婚する原因ではないかと思った。「夫婦」以外の、他の人間関係が必要だと、その時痛感した。
地域社会
結婚とは、親戚という共同体への参加のスタートである。私達の祖父母・親世代までは農家が多かったため、結婚するとどちらかの親が土地を少し分けてくれ、そこに家を建ててくれることが多かった。また、どちらかの親と同居することも多かったと思う。そのため親戚の大部分は近所に住んでいることが多く、親戚への参加が地域社会への参加のスタートでもあったと想像できる。
かつて結婚は親戚だけでなく、地域社会への参加の行事だったのではないかと思う。 女性は家にいて、親や親戚の力を借りながら、地域という共同体へ溶け込んでいく。その中で自分の居場所を確保していく。男性は会社という共同体に属し、自分の存在意義を確かめる。それぞれの共同体が構成員として認め、守ってくれていた。
しかし現代では、子供が結婚しても分けられる土地はなくなってきた。子供の側は、親と同居はしたくない。そこで結婚すると若夫婦は、郊外に家を建てたりマンションを買ったりする。
また、結婚以前に自分の生まれ故郷を離れる人も多くなった。学校や就職で都市部に出ていき、そこで結婚する人も多い。親戚≒地域社会という図式が崩れてしまったのだ。昔のようにすんなりと地域社会に入る構造がなくなってしまった結果、地域社会という共同体が弱くなっている。
働く女性が増えてきたことも、地域社会から女性を引き離した。女性も男性と同じように、会社という共同体に属するようになったため、自分の居場所を地域社会ではなく会社に見いだすようになった。ますます女性は、地域社会との繋がりが弱くなった。経済的な面だけを考えても、年金不安、医療費の負担増、増税と、今後ますます女性は家を出て働きに行くだろう。
しかし、終身雇用制度も崩壊し、パートタイムでの就業者も増大した。会社という共同体も、自分の居場所を確保してくれるものではなくなってしまった。今まで、男女それぞれが参加していた共同体が不安定になってきたのだ。
最近では、犯罪防止などの観点から、地域社会という共同体をもう一度再生すべきだという声も多い。しかし、親戚≒地域社会という図式が崩れてしまった以上、個々の世帯を結びつける、親戚にかわる新たな力を見つけなければならないだろう。近所に住んでいるのだから仲良くせよ、というだけでは地域社会は作れないのだ。
ゲゼルシャフト
私は最初は、専業主婦もいいかなと思ったりした。しかし私は、専業主婦ではあるが、地域の共同体からあぶれていたことが分かった。それで苦しんでいたのだった。ならば今から地域の共同体を主軸に生きますかと問われたら、答えはNOだ。私には合わないなと思う。地域社会は小さな共同体で視野も狭い。そういうものも世の中には必要なのだろうが、自分がその小さなところに焦点を合わせられないのだ。もっと大きな視野でものを見たい。もっと社会とコミットしたい。もっと価値観の合う共同体に属したい。そう思うのだ。
私の母は20代の頃、自分の父親(私の祖父)に「女が外に出て働くなんて許さん」と言われたそうだ。しかし母は金銭面だけではなく、社会にコミットしたいという欲求があり、祖父とケンカしながらも社会に出て働いていたそうだ。社会とコミットしたい欲求を無理矢理押さえつけてまで、近所付き合いを女性達にさせても、共同体は上手く機能しないのではないかと思う。
今後私も、子供が産まれたら、子供を軸とした地域の共同体に参加していくかもしれない。しかしそういうものは強制されて参加するものではないと思う。自分が愛するものを守りたいという気持ちが、地域社会に向けば、地域の防犯活動に参加する。もっと大きな規模で子供にきれいな地球を残してあげたいと思うなら、環境保護の活動に参加するだろう。地域社会とは、距離感を持って付き合って行けたらいいと思う。
かつての、半ば強制参加の共同体が不安定になっている現在では、そういった共同体との価値観の違いに苦しみながら身を置くよりも、NGOやNPOなど、自分で選んだ共同体に自分の居場所を作り価値を見出す方が健全ではないかと思う。
私自身、ブントというゲゼルシャフトにいたことは、非常によかったと思う。そうでなければ今頃は、糸の切れた凧のように行き先を失っていたことだろう。目の前にある地域社会ではなく、他の社会に目を向けることによって、自分自身を取り戻すことができたのだから。
結婚後、家族を守るためずっと家にいることが、一番家族にいいことかどうか分からない。『正しい答』を求めても、それは得られないかもしれない。得られたとしても、その間に過ぎてしまった時間は取り戻せない。だから答えはどうあれその時々で、自分ができることをしていくしかないのかもしれない。自分の価値観に合うところで、自分自身を活かせるところで社会にコミットする。そしてその共同体の中で信頼関係を築いていく。そうした姿勢で生きていければ、自分を見失うことはないのではないか。自分の社会的な役割を常に意識しながら、自分ができること、できるだけのことをしていくことができたら、例え失敗をしたとしても後悔をすることはないだろう。
今、個人主義といわれる時代での社会との関わり方が、多くの人達の中で問題になっている。これからの時代は、たくさんの人達がNGOやNPOのような共同体を通して、社会にコミットできる社会になっていって欲しいと思う。そしてその人達が、価値を同じくする仲間を作り、充実した人生を送れるといいと思う。
(主婦)
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里親になりたいという気持ち
岡野恭子
子供が家庭で育つ重要性
昨年の師走の頃、新聞でマリリン・モンローが少女時代を過ごした養護施設が閉鎖されるという記事を読んだ。私は「米国は軍にお金を使い過ぎて、施設への予算を削ってしまったのか。そこで育てられていた子供たちは、他の施設に押し込まれるか、ストリートチルドレンになってしまうのだろう」と思った。が、そうではなかった。
欧米諸国では、子供が家庭で安定して育つことの重要性が認識され、脱施設化が進んでいるのだ。社会的養護が必要な子供のうち、里親のケアを受けている子供の割合は、フランスやオランダで5割以上、デンマークで6割、アメリカやイギリスでは9割にのぼる。それに対し日本は2004年3月末現在で1割にも満たず、8・1%でしかない。
なぜ、日本では里親への委託、家庭での養護が進まないのか。村田和木著『「家族」をつくる―養育里親という生き方』(中公新書)などによると、欧米と違って、キリスト教に基づくボランティア精神が無い、血縁を重視する国民性が原因という意見がよく言われるそうだ。しかし著者はそれよりも、子供が家庭で安定して育つことの重要性に対する認識の低さ、何より施設で暮らしている子供たちに対する社会の関心が非常に低いことをあげている。
子供が家庭の中で育つということは、特定の人との愛着関係を築き育つことだ。愛着関係を持てずに育った子供は、誰とも信頼関係を結ぶことができず、自分の利害によってのみ行動するようになるという。施設では職員がどんなに努力しても、交代勤務で少ない人数で多くの子供の世話をしなければならない。全ての子供の欲求を満たすことは難しいのである。
では、里親制度とはどのようなものなのか。里親制度とは児童福祉法に基づく制度で、民法に規定されている養子縁組制度とは趣旨が異なる。そのため、子供が満18歳になったら、原則として里親子の関係は終了する。養子縁組を結んでいないので、その前に別れが来ることもある。
日本では社会的養護を必要とする子供のほとんどが、児童養護施設で暮らしている。児童養護施設というと孤児院を連想するが、戦災孤児がいた時代とは違って、いまは施設で暮らす子供たちのほとんどに生きている親がいるのだ。
里親には色々なケースがある
また、里親というと子供が小さいときに預かって、自立するまで育て上げると思ってしまうが、子供を緊急に保護する場合や、3日や1週間という短い期間だけ里親家庭を利用したいという要望も多くなっているという。ここ数年、児童虐待の急激な増加を背景に、里親制度が新たに見直されているのだ。
心に深い傷を負った子供たちには、一対一できめこまやかに対応する大人が必要だ。現在、児童相談所に併設されている一時保護所や、全国に552ヶ所ある児童養護施設はどこも満員に近い。
そうしたなかで厚生労働省は、虐待された子供を受け止める場として、里親制度を活用する方向を打ち出しているのだ。 里親制度について私の住む茨城県で調べてみると、長期に預かる場合のほか、親の病気等の理由で短期間(1年以内)預かる制度もある。健全な家庭を営み、付近の生活環境が児童の保健や教育、その他児童の養育上適当である。児童を適切に養育できると認められる者は、単身であっても、また共働き家庭でも可能。里親を希望する者は登録が必要。「里親申込書」を児童相談所または福事務所へ提出し、県は社会福祉審議会の意見を聴き適当と認められた者を登録する。里親が児童を預かると、養育に要する費用が支払われる。里親手当、一般生活費のほか教育費、学校給食費なども払われる、等々が書かれていた。
私も完璧な親にはなれないけれど、家庭を必要としている子供がいるのなら、私にできることをしたいと思う。ただし私が今働いている会社は、産休も育児休暇も無い。夫婦での収入も多いわけではない。一般的に考えれば厳しいと思う。でも、苦労はするだろうけど、昭和30年代くらいの生活水準に戻り工夫すれば、それなりに豊かに暮らせるかなと思っている。
最後に、夫は今のところ里親になることについては消極的だ。まずは村田和木の本を読んでもらおう。
(OL)
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(2006年2月15日発行 『SENKI』 1203号6面から)
http://www.bund.org/culture/20060215-2.htm