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私の、商売上のお友達(50代看護婦)から頂いたメールです。とても面白いので皆さんに読んでもらいたくて転載しました。
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どんなに健康に気をつけていても、いつかは、歩けなくなる、食べられなくなる。 そうしたら、私は、ただ静かに、寝たきりになって、枯れていきたい。昔、高僧は断食行で即身成仏し、象は死期を悟ると密林の奥深く「象の谷」へと去っていった。
私も、ここまでと思ったときは、もう治療を望まないだろう。胃ろうも、経管栄養も、IVHもリハビリも拒否する。たとえ、痴呆になって判断力がなくなろうと、自分が嫌がる事は、無理強いされたくない。食べられなくなったら、それまでの事。親切に付きっ切り傍にいて、食べれ、食べれと言わないでほしい。自然のある所、水の音、風の音、夕陽、月の光、そういうものを楽しみに、最後の時間を静かに、自分の思うように過ごしたい。死の枕元は、静かに。バタバタと、うるさくしないでほしい。できるなら、大好きな、この家で、最後まで暮らし、この家で死ねたら、しあわせ。病院にも、施設にも入りたくない 若い命は、どんなに困難でも、明日へ生きて行くべきだ。しかし、役目を終えた老いの命は、しずかに去らせてほしい。私は、長生きは、望まない。明るく、のん気に、幸せに、死んで行くのを、目指す。そのときが来たら、体と心の痛み苦しみを和らげてほしい、それだけを望む。
それが私の望む死に方、あなたは、あなたで、自分の死に方を、きちんと心に決めておくべきだと思う。自分の死に方を、人まかせ、医師まかせにしていいわけがないし、まして、政治やイデオロギーに翻弄されたくない。世間体も法律も超えて、自然の法の中で終わりたいと願う私。
看護師として長い事、いろいろな病院でお年寄りの死を見てきた。以前の四肢抑制の悲惨さ、時間にならないとオムツを取り替えなかった介護の現場、それは魂の底から傷つく思いだった。今の職場は、穏やかでそういう事はなくなったけれど、いろいろな病院の噂は聞く。
まるで、植物の栽培だと。病院のベッドでずらりと寝かせられた老人達。うつろな目をして、もの言わず、IVHで「入れて」、「出た物を取って」1日、また1日を過ごす。そんな話を聞くと、誰の為の、何のための医療なのか、治療なのか、地獄ではないかと考え、そんな死に方だけは絶対したくないと思う。
大事な親だもの、どんな姿でも、1日でも長生きしてほしいと願う美談に子供のエゴを思う。大事な親なら、親の望む事やおもいを、守ってやるのが、子の勤めだと思う。
現在の終末の医学は、患者を救ってはいない。いや、医学だけではなく、現代社会における終末の哲学が不在なのだと思う。
さあ、骨壷も、死に装束も、終末宣言書も用意できた。後は、押し入れの整理と、私の死に方に付き合ってくれる医師を探すだけだ。