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転換期に立つ日本の農業
農薬禍で父を失って考えがかわった
http://www.bund.org/interview/20051215-1.htm
所沢で無農薬農業を実践する荻野茂喜さんに聞く
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おぎの・しげき
1951年生まれ。埼玉県所沢市で農業を営む。安全で持続可能な農業の在り方を模索し、15年前から有機農業に取り組んでいる。1992年2月、テレビ朝日の『ニュースステーション』で所沢のダイオキシン汚染問題が報道されたとき、自分の畑のお茶のダイオキシン汚染濃度を公開した。
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埼玉県所沢市で5代続く農業を営む荻野茂喜さんは、15年前から有機農業に取り組んでいる。農薬中毒になった父親の死が、そのきっかけだという。現代農法への批判を荻野さんから聞いた
――荻野さんは代々続く農家ですよね。
★私の家がこの地で農家を始めたのは江戸時代の末期。私は5代目です。昔農家は家督相続ですから、次男三男は口減らしのために家から追い出され丁稚奉公に出された。初代の奉公先がたまたま藍染をやっている所で、初代は最初藍染めの職人になったようです。初代は染色の市場が急に拡大した時期に紺屋でヒットしてその金で農地を手にし、その後染色をやめてしまった。農家といっても小作人を雇って自分では手を汚さない農民です。家事も女中にやらせる。その時その時で養蚕をやったりお茶をやったり植木の苗木を作ったり漬物など、いろいろ儲かりそうなことをやったみたいです。それ以外に自分たちが食べるために陸稲や麦、さつま芋、みそ、醤油を作っていた。
ところが戦後農地解放がありました。小作人はいなくなり、女中も減りました。それでも私は何歳かまでは女中の手で育てられた。ただ自作農主義になって、全部自分で耕さなくちゃならなくなった。ところが祖母の世代は働かないで贅沢ばっかりしてきた。農地解放で土地を取られたし働き手がいないから、収入がなくなる。それで仕方ないからどんどん土地を売ってしまった。似たり寄ったりのことはこのあたりでたくさんあったようです。大地主というのは往々にして怠け者で、土地をもてあまして不動産屋や西武鉄道が欲しいというと売ってしまう。そういう流れがあって、所沢の市街地というのは形成されたわけです。
金融業界も借りる人の資金運用能力、利益、リターンよりも、土地という担保があれば金を貸すのです。それを利用して地上げ屋が闊歩する。農業ではなく、そういうことに展望を託す農家もたくさんいました。今はそれが崩壊した。けれども、いまだに夢を捨てきれず、公共事業で土地を買ってくれることを期待するといった構造が農村にはあります。これはまったく有機農業とは相容れない世界の話ですがね。
そんな現実に私は不快感というか恐怖感を覚えました。人間が生きていくのに欠かせない農地がなくなってしまう。人間は土によって命を永らえる。その土地がどんどんつぶされていくのですから。農地を守るという気持ちは強いです。
農薬事故による父の死
★しかし有機農業を志すというのは、やっぱりそれなりの動機付けが必要です。大きな転機になったのは親父の農薬事故です。父はランネートっていう商品名の農薬を身体に浴びて、一時意識不明になった。農薬の多くは第3石油類です。農薬の主原料である有機リン剤と石油は非常に結合しやすい。そこに乳化剤を入れて水と混ざりやすいような状態にしています。これを乳剤といいます。それに対し粉剤はゼオライトっていう粘土鉱物に農薬をしみこませて、ヘドロ状、泥水状にしたもので水和剤といいます。
ランネートは水和剤です。水和剤はなかなか水に溶けないので、バケツの中にいったん入れて少しずつ水を入れて練っていきます。流動性が増してきたら、散布のためにドラム缶に注ぎます。昔は農薬散布するときにポリタンクがなくて、200リットルのドラム缶に農薬を入れて使ったのです。昔は耕運機の後ろに、リヤカーみたいなものをくっつけて、その上にドラム缶を積んで農薬を散布していました。最近は軽トラックを使いますが。ドラム缶の蓋というのは少し周りが高い縁状になってお盆のようになっている。
ドラム缶に注いだときに、液が入りきらずに蓋の上に残っていたんですね。散布しているとだんだん液がなくなってきますから、最後まで使いきるためにドラム缶を斜めにしようとした。父は農薬の残液が上にたまっているのを知らないで倒した。手前の方に引っ張ったときに、農薬が肩から腰にかけてかかってしまった。それで意識不明になったわけです。昭和50年代中ごろのことですが、その数年後の昭和61年に父は亡くなりました。
意識不明になった時はたまたま回復しました。父は非常に肝機能が弱いことがわかり、その事件があってから私が畑に農薬散布した。父にはさせませんでした。一番茶が終わって二番茶になる頃は一番病害虫が発生する時期で、ハマキムシとか、チャノミドリヒメヨコバイなどがいっせいに繁殖期に入ります。父が亡くなる1ヶ月前に私がランネートをまいたんです。農薬はガス化します。気化した農薬を虫が吸収して死にますが、農薬をまいた後に父がそこで除草の仕事をしていました。それから身体が非常にだるいだるいって言い出しまして、そのあと呼吸が切迫し、最後は窒息死です。農薬中毒などで最終的に死に至るのはほとんどアレルギー疾患です。父の場合も、肺繊維症という膠原病の免疫不全の一種でした。
医者でも権威といわれるところに任せれば大丈夫だと思っていましたが間違いでした。農薬一般が言うほど安全なものではないと痛感しました。感受性の問題もあります。他の人が大丈夫だったら自分は大丈夫ということはない。また農薬の害について医療界の認識が非常に甘い。昭和50年代中ごろの父がおかしくなったときに、応診に来た医者に農薬をかぶってしまった状況や、その後こうなったと説明しているのに、農薬なんてそんなに作用しないと頭から否定するわけですよ。
しかし、うちに家畜の予防注射や診療に来ている獣医は、父のレントゲン写真を見て肺繊維症だとすぐわかりました。すりガラス状になっているというんです。真っ白になるか真っ黒になるかではなくその中間色、すりガラス状になるのが肺繊維症の特徴だと。獣医の世界では、犬などが農薬のかかった草を食べておかしくなったときにこういう状態が出るという。レントゲン写真だけで診断できるし、聴診器を当てると呼吸音のザーザーと擦れあう音がして、特徴的なんだと教えてくれました。
獣医というのは専門領域がないのです。動物全体を見なくてはいけない。消化器系・呼吸器系・慢性疾病・関節のような整形外科的なものまで、全部をカバーしなくちゃいけない。それでいろんな動物に起こる病理現象を全体的に捉えることができたんですね。
農薬も化学肥料もやめた
★この事件で農薬危害の問題を実感しました。自分の命は自分で守らなくてはいけない。農薬の中止を始めました。家畜を飼う有畜複合経営には先進事例がありました。近所で豚を飼い、豚の糞尿を茶畑にまいて、すばらしい茶園を作っていた人がいたんです。もともとうちもお茶をやっていたので、同じようにやろうと思い豚を飼って、その堆厩肥をお茶にやりました。しかし農薬散布をやめると収入が得られるかどうかわからないので不安でした。他の農家もそれが不安で農薬をやめられない。
農薬をやめたときに化学肥料もやめました。化学肥料といってもうちの場合は配合肥料ですけどね。菜種かすと骨粉とそれを補正するように、硫安とか尿素とか塩化カリなどの化学肥料を混ぜ合わせた配合肥料を使っていました。また特に窒素肥料を必要とする5月の前の新芽が伸びてくるときに、追い肥みたいに硫安を単独でまく場合がありました。
しかしあるとき誰かに言われた。「荻野、お前の家は豚肥えがいっぱいあるんだから肥料なんかいらねえだんべ」ってね。それまでは堆肥はあくまで堆肥。肥料は肥料って考え方を信じていた。
土壌肥料学会が堆肥というのはあくまでも土壌改良剤で、栄養分としてはちゃんと肥料を施さなくちゃいけないよと指導しているわけですよ。成長を促すためには堆肥だけでは不十分で、化学肥料とか配合肥料を使いなさいよって。そういう講義を指導機関がやっていた。でも実際それは余分なものでした。土壌分析すると日本の畑は明らかに肥料のやりすぎなのです。
茶畑を見てください。他の家の茶畑はすごく繁茂していて、うちの茶畑は貧相ですよ。でも来年の4月になって見て下さい。うちの芽はよそのお茶と一緒にちゃんと出てきます。暑い盛りにお茶が繁茂したって全然意味がない。全部刈って捨てちゃうだけだから。結局捨てるために肥料まいているのと同じなのです。
農協と肥料屋と御用学者と試験場。みんな肉骨粉なんかを宣伝しちゃったから、まず肥料ありきで農業を組み立てますが、まったく意味がないのです。農家は科学を装って物事を言う人たちの数字を信頼する。しかし作為的に作られたものも多い、罪深いと思いますよ。
今言ったように日本には、農薬や化学肥料を大量使用することを促すシステムがあります。私はお茶を作っているので、お茶の研究会に入り品評会に出していました。静岡や鹿児島、三重、京都などで品評会がありました。農林大臣賞とか天皇賞とかいろいろあります。
入賞すると、茶畑の前で夫婦そろってスナップ写真をとり会場に飾られ、入賞した茶畑の防除暦、農薬の散布の履歴が掲げられます。いつ何をターゲットに何の農薬をどれだけまいているか、肥料は何を何キロまいたとかというものです。10アールあたりの窒素施用量も記されます。
硫安の場合で窒素含有量は20%くらい。20キロのうち4キロ近くが窒素です。菜種かすの場合は5%ぐらいで、20キロだと窒素は1キロくらいしか入っていません。菜種かす20キロで1キロですよ。
当時昭和50年代から昭和60年代にかけての品評会の入賞茶園は、10アールあたりの窒素施用量が180キロとか200キロです。とんでもない量の肥料が施されていることがわかります。防除暦なんかみると年間通算20回前後も農薬散布しています。これは農薬と肥料をいっぱい使うとおいしいお茶ができますよというキャンペーン以外ではありません。
行政と肥料会社、農薬会社のタイアップ
豚も飼育している ――品評会はどこが主催するのですか。
★それは農水省や全国茶業協会、全国茶商工協会や関係団体です。各県の生産者団体や市町村や県の茶業協会のほとんどは、役所の人間で事務方が構成されています。行政が養豚協会や酪農協会、園芸協会とか植木組合などと組合・協会を作って業界を束ねて、それを農政課とかいう事務方を置いて一元管理している。
しかもほとんどの品評会は、いわゆる肥料工業会とか製茶プラント作っている協会みたいなものがみんな入ってきて、一大イベントになります。メーカーとしても宣伝のチャンスですから。各県も茶業試験場を抱えていますから、そこが協賛して技術指導して賞取れば、職員もほめられる。行政主導で、農薬メーカーや肥料メーカーのお手盛りで品評会が行われるシステムなのです。
ところが品評会で入賞した人の中に、若くしてガンや白血病で死んでしまう人が見受けられます。ガンは肺とか胃とか臓器の病気だと思われていますが、実は免疫疾患です。免疫疾患にはいろいろな要因がありますが、農薬も大きな要因だと私は思います。
約10年前、所沢茶業研究会で静岡県本山に見学に行きました。安倍川の支流で藁科川という川の上流に、山間部に近いところで高級茶をつくっている本山というところがあります。そこに天皇に献上している献上茶を作っているお茶農家があります。農場に行きますと「献上茶茶園」って立派な看板があって、そこを見学してきました。
農家向けの『茶』っていう静岡茶業会議所が出している月刊誌がありますが、毎年10月ごろになると品評会の成績が出てきます。それから数年後、その茶園の名が見えなくなった。友人に聞いたらあいつはもう死んじゃったよって。まだ40代ですよ。ガンで亡くなっていました。私より1歳年下の茶農家の知人も胃ガンでなくなったのですが、彼も施肥や消毒を熱心にやっていました。私が有機農法やったら顔を背けるようになってしまったけど。
みんな農家は農薬がうすうすやばいことはわかっています。それでもやめられないんですね。人間の愚かしさですかね。そこそこ収入があがっていると慣行を変えることができない。やばいと思ったら、全部でなくても部分的に農薬をやめて、そこがどうだったか検証すればいいのですが。
最初は茶毒蛾がいっぱいでた
――お父さんの事故がおきるまではかなり農薬散布をやっていた?
★虫を追っかけまわして農薬をやってましたよ。だからうちでは事故も起きたのです。ただうちの嫁さんが妊娠したときは、お前風下にいるなとか、逃げてろとか言って、できるだけ危険なことはさせないで1人で仕事するようにしてましたけど。リスクを考えざるを得ませんでしたから。それでいまでこそ元気ですけど、私も前は疲れると風邪を引いてダウンすることが多かった。小学校中学校高校ぐらいまでは風邪を引いてもすぐ治っていたのに、農作業するようになってから3、4日も、長いときは1週間くらい熱が下がらないようになった。豚小屋なんかほとんど自分で作ったようなものですが、朝から晩まで豚の世話して、溶接やセメントなど土建屋仕事までめちゃくちゃ働いた。ところが20代のなかばくらいから急速に体力が衰えて、免疫力、回復力がなくなったことが目に見えてわかった。なんでだろうって。原因はわからなかった。今から考えると農薬の影響だったと思います。
それで結局平成2年の9月から農薬をやめた。平成元年に茶工場作って、その年の夏場まで農薬をまきました。そのあとはまかなかった。父のことがあったので、その前から農薬の回数は極端に減らして半分以下にしていた。だんだん減らしてきて、もうこれは大丈夫じゃないかって手ごたえを感じていたのでやめたのです。
でも最初はひどかったですよ。茶毒蛾が出てね。茶畑がケムシだらけになった。葉っぱがなくなっちゃう。最初は手でつぶしたりしてました。小さいうちは素手でも大丈夫なんです。そのうち手がひりひりしてくる。熱くなってくる。それでゴム手でつぶした。でも、手でつぶすのでは駆除しきれない。雨の日とか朝夕に出てきて、それ以外は引っ込むので、自分では取ったつもりでもまた出てくるのです。これはとてもやれない、そういう年が何年かありましたね。しかしだんだんバランスが取れてきたのです。
最初は茶毒蛾がたくさんでてきたときは、そのお茶の木の根元から切り落としていた。やがてそういう木はでなくなった。尺取虫が増えてある面積を丸坊主にしちゃったとかはありましたが。茶の木には導管と篩管がありますが、ズイムシという虫が篩管に入って養分がいかないから、結局葉柄が枯れてしまうとかもありました。
経営的にどうかっていうと、直売をするとか、荒茶を売るのでも、そこそこやっていけますよ。最近はどこのお茶屋さんを見ても、昔みたいに何10回消毒したとかを威張る人は1人もいなくなった。いかに減らしたかを自慢する人の方が増えてきました。それで人々が健康になってくれればいいのですから、私は自分のしたことが報われたと思っています。
――害虫に対する対応はどうしているのですか。
★『現代農業』にも紹介されていますが、雨が降る時期に茶毒蛾には感染症があるんです。それで死んだケムシを集めてすりつぶして、冷蔵庫に取っておいて、翌シーズンになったときにそれを薄めて畑にまくと、そのウィルスみたいなのがケムシに感染して滅ぶということはあります。
しかし私のお茶畑には、今は対策はしていないんですよ。野菜畑の方は秋口に防虫ネット。アセビ団子。馬が食べると酒に酔ったようになるというアセビを煮出して、その汁にメリケン粉と米ぬかを入れて団子を作って、それを日なたで干して白菜などに使います。あとはヨトウムシなど芽がでると茎をかじって駄目にしてしまう虫がいるので、それはこまめに見つけてはつぶします。自分たちで食べられる面積だから半日やればだいたい終わります。
ほかにもいろいろテクニックはありますけど、うちはそんなことくらいしかしていない。昔はダイジストンという農薬を野菜の根本の周りにまきました。するとガス化して葉っぱが吸収する。オルトランという農薬は根から吸収させて、植物の細胞全体に毒物を至らしめ、それを食べると虫が死んでしまうというものです。
でも、こうして作られた野菜を安全だと思いますか。無農薬の時代になってきたので良かったと思いますよ。
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(2005年12月15日発行 『SENKI』 1198号4面から)
http://www.bund.org/interview/20051215-1.htm