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ある日突然私を襲った、「もえつき」という名の病
保科湘子
http://www.bund.org/culture/20051125-1.htm
それは突然やってきた
直接のきっかけは、祖母の突然の服毒自殺だった。長く老人性欝病を患い妄想に悩まされた末に、今年2月、自宅にあった農薬パラコートを飲み干したのだ。
片道8時間かけて雪の中の葬式に参列した私は案の定風邪をひいたあげく、祖母の吐瀉物の付いた服からパラコートを吸引し農薬中毒になった。とどめは両親の離婚話の再燃と、微々たる祖母の遺産をめぐる親族内のゴタゴタだった。「私の30年を返せ!」と泣き喚き、父と死んだ祖母を罵る母をなだめ、心身ともに疲弊しきって帰宅した。
地域では大事な闘争の直前だった。米軍座間キャンプへの司令部移転に反対する包囲行動とそれに連動してのハンスト・街頭キャンペーンだ。寒空の下、1週間ハンストで頑張っている学生もいるのに、自分も呼びかけてきた側として倒れるわけにはいかない。2月19日、みぞれまじりの雨の中3000人の「人間の鎖」がつながり行動をやりきった。しかしそこまでが限界だった。
闘争から数日後のその朝、布団から起き上がれなくなっていた。職場に休みの電話を入れて切った瞬間、突如として「死にたい」という思いにとらわれた。しかし「死にたいと思うことすらゆるされない」という縛りがあって死ねない。親友が不慮の死を遂げているため、「自分はどんなことがあっても絶対に死んではいけない」と念じてきたからだ。「でもそれじゃあどうしろっていうんだ!」と頭がバラバラになりそうな感覚に襲われ、「もう皆死ね死ね」と発想が異常に攻撃的になった。
これは本当にヤバイと、かかりつけのメンタルクリニックに電話しようとしたが手が震えてうまくかけられない。精神も身体も自分の制御を離れてしまう恐怖に貫かれた。ようやく電話がつながった時はどっと涙が溢れた。助かったと思った。処方薬を変えてなんとかしのぐことにした。
翌日出勤したが、動悸が激しく、指先の震えが止まらない。自信喪失でビクビクし、電話の音やちょっと話しかけられただけで飛び上がる。「クレームの電話か!?」「また自分は何かやらかしたのか?」。年度末進行真っ最中の修羅場にもかかわらず有休が取れたのは、こうした様子が端から見ても異常だったからだろう。なんとか踏みとどまることが出来たのは、無理やり取った有休でグループワークを受講して「もえつき」という概念を再認識することが出来たからだった。
「それはある日突然やってきた」「ちょうど、電気を使いすぎるとブレーカーが落ちるのと同じ」と経験者は書いていたが、その通りだった。私はもえつきたのだ。
進行性の病
「もえつき」自体は目新しい言葉ではない。看護師の「職業病」として知られているが、医師、ヘルパー、ソーシャルワーカー、ケースワーカー、教師など、医療・保健・看護・介護・福祉・心理関係の援助職、教育関係者にも多い。
最初の事例は1974年アメリカの病院の援助職(ソーシャルワーカー)だった。「バーンアウト・シンドローム(もえつき症候群)」の名付け親である精神分析医ハーバード・フロウデンバーガーは、「自分が最善と信じてきた仕事、生き方、人間関係などが、まったくの期待はずれに終わったことでもたらされる疲弊や欲求不満の状態」と定義している。
実はこれは職業病とは限らない。もえつきは人間関係によって起こるからだ。もえつきの3大要素は、@手を抜けない大変な状況が続くAいくら努力しても報われないB使命感や責任感、思い入れが強いこと――である。主婦や会社員、ボランティアや活動家、そして子どもも燃え尽きることがある。「たとえば、思うようにいかない子育てに一人で悩んでいる母親。家族を長年介護している人。飲酒や、ギャンブルなどの問題を抱えた人にさんざん手を焼いている配偶者・親・きょうだい・子ども。弱い立場の人を支えるボランティア活動や組合活動、自助グループ活動、社会運動などに力を注いでいる人。上司と部下の板ばさみになったり、会社と顧客の間で板ばさみになっているなど、人間関係の調整に膨大なエネルギーをとられている人。そして、ひたすら親の期待に応えるためにがんばってきた子どもや、そうやってがんばり続けて大人になった人も・・・。」(「もえつき」の処方箋/水澤都加佐著より)
なんだ、誰にでもありそうじゃないかと思うかもしれない。そう、実はもえつきはありふれた病なのだ。日本では統計上現れていないが、実際「うつ」「心身症」「対人関係障害」などと診断された人が、もえつきに焦点を移した治療によって回復する場合も少なくないという。では、もえつきは「うつ」等とどう違うのか。決定的な違いは、激しい「怒り」をともなう「進行性の病」ということだ。
もえつきは次のようなプロセスをたどって進行する。@態度の変化:イライラして怒りっぽくなる。不平不満が増える。人や物事に対して疑い深くなる。冷笑的になったり、寡黙で引きこもりがちになる。A逃げの行動:忙しそうなふりをする、仕事を休みがちになる、転職を希望する。Bストレス性の身体症状:疲れ切った感じ、しつこい頭痛、首や背中の痛み、胃腸の不調、不眠など。Cもえつきの否認:自分の価値を実証しなくてはという強迫感で、さらにスケジュールを過密にし、スーパーマン的に仕事をこなして存在をアピールする。D崩壊:こうした悪循環から、不安・怒り・恐怖等がひどくなる。適切なサポートが得られないと(不信感からサポートを拒否する場合がある)うつ状態と攻撃性が強まり、人間関係が保てなくなる。
こうした危機から逃れようとして、「自己治療」に走ることも多い。すなわち、アルコールや薬物の乱用、ギャンブル、逸脱した性行動等のアディクション(嗜癖)だ。それがために社会生活を維持できなくなり、職を失ったり、自殺企図に至ることもある。こうなると、もえつきより依存症としての治療や援助が必要になる。これは本人の意志の強さとは関係ない。むしろ「自己治療」しようとして深みにはまるのだ。最近、教育熱心だった教師が生徒に性的いたずらをするような事件が多発しているが、「大部分がもえつきの結果の異常行動ではないか」という分析もある。児童虐待や介護心中もこの文脈で見ることができる。
いずれにせよ、もえつきは休養すれば治る身体的疲労とは異なる。本人も「このままではまずい」と思いながらもどうしようもなく、そのまま進行すれば結果として人生すらも破壊してしまう病なのだ。
燃え尽きた私
自分自身を振り返ってみると、まさに絵に描いたようにもえつきのプロセスをたどっている。祖母の自殺をめぐるストレスは、最後の一撃だったに過ぎない。それまでの30年ですでにエネルギーを使い尽くしていたのだ。もえつきという言葉を知らなかったわけではない。自分がやりたくて選び自分を懸けてきた活動のはずだった。その活動を続けていくために安定した職業を選んだつもりだった。アトピー等様々な持病とつきあいながら「頑張らないように頑張る」術は心得ているつもりだった。
しかし結果としてもえつきるまでに過剰にエネルギーを投入したのは、活動が己の存在意義の証明という面があったからということは否定できない。福祉職を選んだのも、感謝されることで「自分は役立っている」と実感でき、自己肯定感を満足させられることを無意識のうちに感じ取っていたからだろう。そうであるがゆえに、活動が行き詰まり職場でも苦しくなると、アイデンティティ・クライシスに陥ったのだ。
「期待に応えて成果を出している限り自分は存在していい」ということは、裏返せば「何か成果を出さなくては自分は無価値」ということになる。指導的役割を買って出たものの、今までのようにがむしゃらに頑張るだけでは事態を打開できなくなった時、他人への嫉妬や怒りに襲われた。「自分はこんなに頑張ってるのに!」と、うまくいかないのを人のせいにしてなじる。恋愛でもうまくいかず結婚は破談。うまくいっている(と自分が勝手に観念している)人や、自分にないものを持っている人を見ると嫉妬の念が湧く。そういう自分の醜さは自分が一番わかるゆえにドツボにはまっていったのだ。
それ以前から、職場のポジションが自分にとってはかなりのプレッシャーとなっていた。2年前には勤続10年、年功序列で課のbQとなってしまった。自分のことだけやっていればいいというわけにはいかなくなり、他人のこともひきとる役割期待を課せられた。産休育休職員の仕事を担当して業務量が倍になり、常に仕事に追われる状態が続いていた。
もうひとつ、ADHDとしての引け目があった。「フツーの人でない自分には、この道(活動)しかない」と観念する一方で、「はやく人並みにならなくちゃ」と、毎日通勤電車の中でADHD治療や対処法をまとめるノートを、吐き気や頭痛になりながら憑かれたように取り続けた。そして家族問題。祖母の介護や両親の不和など、放っておけばいいのに仲裁したりして、結局「いい人」でいたかったのだ。
今から考えると、物理的に到底不可能なことをしようとしていた。早晩破綻して当然だったのだ。認めたくなかったが、ついに「このままでは本当に駄目になる」と突きつけられ、もえつきの問題と向き合わざるを得なかった。
治療と回復
もえつきからはどうすれば回復するのか。またどうすれば再発を予防できるのか? もえつきは人間関係によって起こる。それゆえにそこからの回復も、人とのつながりからしか得られない。一人だけでは回復できない。具体的な治療は専門家のサポートが不可欠であり、同時に、同じ経験を持つ当事者の自助グループなどで経験や感情を共有することも大きな支えとなる。ポイントは@価値観の棚卸しA自分の価値を見出すB徒労感や怒りから自由になるライフスタイルや感情の扱い方を身につける、といったことだ。それは「自分を追いつめる生き方を変える」ことを意味している。
もえつきは、「もちきれない荷物を抱え込んでいる状態」と言える。その中で一番重い荷物は「信念」だ。それをまず降ろすことが必要になる。自分の回復過程を振り返ってみると、一番意味があったのはこの「価値観の棚卸し」だった。今まで私は「人生は大変でないといけない」と思い込んでいた。もちろん楽しいことがなかったわけではない。活動を通じて得た新しい出会い、世界が広がったこと。しかしベースには「苦労は買ってでもするべき」という人生観があった。自分のキャパを越えても「これぐらい耐えられなくてどうする」とギブアップできない。
ぼーっとしてると「自分は怠け者なんじゃないか」と落ち着いて休めなかった。しかしそれはもしかして間違いだったのではないかと、思い至り始めた。経験が豊富であることに越したことはないが、わざわざ悲惨な人生を選ぶ必要はないのだと。
数ヶ月を経て、次第に「自分は無力ではない、成し遂げてきた事がある。全ては無理でも、自分には事態を変える力がある。できないことはできないと認める力も持っている」と、現実を原寸大で認識できるようになってきた。
人生はままならない
それにしても、「何か成果を出さなくては自分は無価値」と、どうしてあれほどまでに強固に思い込んでいたのだろう? 根底にあるものは、やはり生まれ育った環境を無視することは出来ない。
もちろん、生育歴が全てを決定してしまうと言いたいわけではない。私自身、いつまでも親のせいにしたり過去の埋め合わせで生きるのは御免だと思ってきた。「自分は親がアルコールや薬物の依存症だったわけでもないし、暴力的な虐待を受けたわけでもない。自分より凄絶な経歴の人はいくらでもいる。大したことじゃない」と。実は強硬に否認する人ほど、その問題が根深い場合が多いようだ。
問題なのは、繰り返すことで学習された行動パターンや発想のクセだ。たどってきた人生は変えられないが、今後の行動は変えられる。言い訳にするのではなく、自分の傾向として自覚すること、それだけで自分を追い詰めるスパイラルから抜け出すことが容易になるのだ。この過程で気づいたのは、「母のようにはなりたくない」と思いながら、実は母とそっくりの発想パターンになっていたことだ。
今から考えれば母は完全に共依存の人だった。嫁姑関係で父と父方の祖母に恨みを30年抱き続けながら、「あなた達(子供)がいるから別れられない」と離婚せず職にも就かず「いい妻・いい嫁・いい母」であることをアイデンティティとしてきた。子供に暴力を振るうことはないかわりに、自分で買い集めてきた貴重な皿を年に数回突然叩き割るのだった。それは「私をこれ以不幸にしないで!」という無言のメッセージを発していた。
13年前、包丁を持ち出して止めようとする母を振り切って家出して活動を始めた。生きがいと仕事をもち自立して生活して、「無力で不幸な母」の存在をとうに越えたつもりでいた。ところが、トラブルがあったり相談を持ちかけられると「なんでこんな面倒事持ってくるんだ! もうこんなにいっぱいいっぱいなのに、これ以上私にどうしろって言うんだ!」と反射的に思っている自分がいた。
それはまさしく母が発していたのと同じメッセージだった。母もまた、燃え尽きていたのだ。そして理解した。思ったほど人と違う生き方が出来るわけではない。それを受け入れた上で、それでも模索しながら自分が納得できるように生きるしかないのだ、と。
私の生きる道
人はみなそれぞれの時期に人生の危機を迎える。おそらく私は30代の危機を経験したのだろう。「これを越えたからもう大丈夫」「私は悟りを開いた」なんてことはありえない。たぶん40代には40代の、50代には50代の危機があるのだろう。大変だとは思うが、乗り越えていくのは自分次第、少なくとも自分の中にはその力があると思える。それは自分が個人的に強くなったと言うことではない。最後の一線で踏みとどまらせてくれたのは、他者との紐帯だった。結局は、それに尽きると思う。
一所懸命やって報われず人を恨むのも嫌だが、だからと言って何もかも思い入れず深入りせずフラットにただ生きていくのもつまらないし、自分はそれには耐えられない。そもそも活動を始めたのは、「泣き寝入りを強いられている人がいる限りは自分も幸せになれない」と思ったからだった。自分が幸福に生きるために必要不可欠な要件だったのだ。だから活動によって不幸になったら本末転倒なのだ。その原点に戻って、自分の幸福追求権の行使として、もえつきないように活動を続けていきたいと改めて思う。
そういう意味では、ブントの唱える「コナトゥス(自己保存欲求)に基づく運動」というのは、今更だがかなり妥当だと思う。言い換えれば、「自分のニーズをキャッチ」して自分をきちんとケアすることが出来るようになるということだろう。それは自分の限界や失敗を認めて、ただしたり周りにヘルプを求める力をつけていくこととくっついている。
これは活動に限った話ではない。政党でも行政でも企業でも、無謬を旨とし「間違った事は決してしない。万事OK」と言い続けていると、問題が発生した時に隠蔽し粉飾し立ち行かなくなる。失敗を隠さず、弱い己を見据えてそれを糧に変えていける、持続可能なのはそういう内実ではないだろうか。
そうは言いつつも、この文章を書いているそばから、入れ込みすぎて危うくもえつきプロセスにはまりそうになった。これからも多分やりすぎては転びかけて立て直すという繰り返しだろうが。そういう自分を認めたところで、人生の楽しみ方が本当にようやくわかってきたのだと思う。出来ることはそう沢山あるわけじゃない。正しいことが通るとは限らない。ままならない世の中で、それでもやれること・やりたいことはある。
これから先は、変えられないものを変えるという自己満足のためでなく、「変えるべき」という教義のためもでなく、ただ変えたいものを変えるために、あるいは変えうるものに変えていくために歩んでいきたいと思う。誰の為でもなく、誰のせいでもなく、自分が自分自身の人生を生きていくために。
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(2005年11月25日発行 『SENKI』 1196号6面から)
http://www.bund.org/culture/20051125-1.htm