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教育権は子と親にある
古山明男
「自然権」と呼ばれる基本的な権利があります。たとえば、子どもを産み育てる権利は、どの法律にも書いてありません。
人間にとってあまりにも当たり前のことは、とくに法律にはされず、憲法にも書かれないのです。そのような権利が「自然権」と呼ばれます。人間の生活は、多くの「自然権」の上に成り立っています。
子どもは、自然権として発達を援助してもらう権利があります。たんに肉体的な発達だけではなく、成育に必要なあらゆる面で援助してもらう権利です。
子どもの「発達を援助してもらう権利」は大人の協力によって実現します。子供の発達を助けることは、大人の喜びであり、また崇高なる義務です。
教育は子どもの発達を援助することの一部です。しかし、すべての教育は自己教育です。どのように素晴らしい授業でも、実は子どもがその授業を利用して自己教育しているのです。
子供には自己教育権(学習権はその一部)があります。子供が、自分自身の興味関心にそって活動することは自己教育権によります。親や教師の差し出すものを子供がどうしても受け入れないことは、日常茶飯のことです。これも、子供の自己教育権によります。
子どもは活動や遊びを通じて、自己教育を行っています。いっぽう、子どもはまだ社会を知らず、どのような知識、技術、文化があるかを知りません。また子どもたちは、信頼できる大人との関係を必要としています。子供たちは自己教育の多くを、大人たちに委任しています。
子どもの自己教育権の委任によって親の教育権が存在しています。
親の教育権は、歴史を見ても世界を見ても自明な自然権です。たとえば、就学以前の子どもにどのような教育を行うかはすべて親に任されています。
親は、子どもの必要とするものを提供し、また、自分のもつ最良の文化、思想、良心、知識、技術などを子どもに伝えようとします。子供の行動のまずい点を伝えることも、子供から委任された教育権の一部です。
親の教育権が認められないことは、全体主義国家に特有のことです
子どもが成長するにつれ、教育を親に委任している部分はだんだん小さくなります。15歳くらいになったときには、親の教育権の大部分は、子どもの自己教育権に戻されています。これは、そのくらいの年齢で、親が子供のハンドルを直接握ることはできなくなることで明らかです。親はその後も、援助者の役割を続けます。
親が、教育のすべてを自分で行うことは困難です。そのため一部を教育機関や専門家に委任します。学校は親の委任、または子どもの自主選択によって成り立ちます。
学校教育は、親と子供が教育を委任することによって生じるものです。現在の公立学校教育も、主権者である国民が、国と自治体を通じて教育を委任することにより、存在しているものです。
しかし、委任する必要がない場合、または学校が役に立っていないとき、学校を利用せずに家庭で教育することができます。
学校が委任するに足りないものだったら、親にも子にも、委任を取りやめる権利があります。親と子の学校に対する拒否権がなければ、学校は子供を苦しめる場だったり、洗脳の場となる危険があります。
自然権として子供の自己教育権と親の教育権を明確にすることは、憲法を補強するものであり、憲法に沿っているものです。
教育権は、誰が教育にあたるかを論じるときに現れるものです。いかなる教育権も、子どもを隷属させるためにあるのではありません。
教育において、人間的な理解、共感、良心が最優先しなければなりません。国、親いずれも、教育権を主張して乱用すると子供を苦しめます。人間としての尊厳を尊重すること、個人を尊重することが常にすべてに優先します。
(引用、転載自由)
http://www.ne.jp/asahi/homeschool/renkon/houritu_kyouikuken.htm