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2006年 年頭論文  国家を見すえる中間的諸団体の時代がやってきた  【虎田五郎】
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 12 月 21 日 05:44:41: ogcGl0q1DMbpk
 

2006年 年頭論文

世界を市場原理主義が席巻している

国家を見すえる中間的諸団体の時代がやってきた

虎田五郎


http://www.bund.org/opinion/20060101-1.htm


 「小泉改革」は日本社会に激震をもたらした。これによって自民党は党内の旧体制が根本から揺らいでいる。かつて自らの依って立ってきた政権基盤であり、利権の温床でもあった前近代的で不透明な家父長的・ムラ的共同体が崩壊しようとしているのだ。それは国民の多くが望んだことだった。だからこそ、そうした政治の刷新を求める民衆の声を背景に小泉自民党は衆院選で圧勝したのである。

 だが、この「改革」の行き着く先を小泉首相は明らかにはしなかった。代わりに、アメリカの『年次改革要望書』がそれを明らかにしている。アメリカは日本社会のひずみにつけ込み、アメリカ型の市場経済で日本を再編成しようとしている。その具体化こそが小泉改革なのだということが、しだいに明らかとなりつつあるのだ。

 しかも小泉自民党は、靖国参拝をはじめとして改憲案や教育基本法の改定案を公にし、再び日本を前近代的で全体主義的なナショナリズムで塗り固めようともしている。2006年は政権党である自民党の、このアイロニカルな自己矛盾に日本国民は翻弄されることになるだろう。

 「自由主義」の名の下でのアメリカへの従属と、「下流社会」にたたき込まれる無数の人々が生まれつつある。改革の名の下で実際には自由主義が否定されている。今、日本では背反する事態が同時に進行しているのである。この矛盾の突破の彼方に日本民衆の未来は存在する。突破しない限り、主権者である国民の未来は暗いものになる。

1 「改革」は米の要望に沿うことだった

小泉改革の目的は米『要望書』の実現

 「米国は、小泉首相の公社・公団の再編と民営化の取組みに関心を持ち続けてきた。この改革イニシアティブ(=「要望書」)は、競争を刺激し、資源のより有効的な利用につながるなど、日本経済に大きな影響を及ぼす可能性がある。米国政府は、日本郵政公社の民営化という小泉首相の意欲的な取組みに特に関心を持っている」

 これはアメリカ大使館のウェブサイトに公開されている。2004年版『要望書』の一部なのだ。全体に目を通せば、なるほどこれが下敷きになって日本の「構造改革」が進められているのかと納得させられる。

 『要望書』の作成が決まったのは1993年7月の宮沢・クリントン会談だ。アメリカが外圧を加えるための武器として日本に突きつけたものだ。アメリカは個別産業分野の市場への参入問題や、分野をまたがる構造的な問題の是正で、日本をアメリカナイズしたがっていた。翌1994年に最初の『年次要望書』が提出された。以降毎年発行され、1997年に「規制撤廃および競争政策に関する日米間の強化されたイニシアティブ」となり、今日でも『規制改革および競争政策イニシアティブ』という名前で毎年10月に発表されている。翻訳されるといずれも年次改革要望書だ。だが、日本のマスメディアはこれまでまったくこれを取り上げず、関岡英之『拒否できない日本』の発刊(2004年)以降、初めてその存在は注目を集めるようになった。

 『要望書』は在日大使館のホームページで全文日本語に翻訳され、公開されている。  ところがである。昨年8月2日の国会で民主党の櫻井議員が『年次改革要望書』の中身を紹介した上で、「(郵政)民営化というのは米国の意向を受けた改正なのか分からなくなってくる」と発言した際、竹中郵政担当大臣は「見たこともありません」と答えた。小泉首相は「それは櫻井さんね、思い過ごし」と答弁したのである。白々しいにもほどがある。

 『要望書』でアメリカから要求された各項目は、日本の各省庁の担当部門に振り分けられ、検討され、審議会にかけられている。しかもアメリカと日本の当局者が定期的に会合を開き、進捗状態をチェックするシステムさえも存在している。翌年3月にはその進捗について米通商代表部が議会に報告書さえ出している。それを一国の首相が知らないとしたら、それこそが大問題ではないか。小泉政府はアメリカのいいなりに動いていることを、国民には絶対に知られたくないのだ。

 『要望書』は実は日本の側からも出されている。形としては両国の意見の交換ということになっている。だが実際は日本の『要望書』はたいして重きは置かれていない。逆にアメリカの側の『要望書』は、そこに記された内容がほとんど実行に移されている。誰がどう読んでも「思い過ごし」どころか「構造改革」の教科書なのである。

アメリカに仕組まれた郵政民営化

 「小泉改革」の目玉となった郵政民営化も、アメリカの書いたシナリオをそのまま実現したものにすぎない。関岡英之は『文藝春秋』12月号の「奪われる日本」では次のように書いている。

 「いまからちょうど10年前、1995年11月21日に米国政府から日本政府に提示された『年次改革要望書』のなかに、郵政三事業のひとつ簡易保険に関して次のような記述がある。〈米国政府は、日本政府が以下のような規制緩和および競争促進のための措置をとるべきであると信じる。…郵政省のような政府機関が、民間保険会社と直接競合する保険業務に携わることを禁止する。〉それ以来、米国政府は簡易保険の廃止を日本に要求し続けてきた。1999年の『要望書』ではより具体的な記述になっている。〈米国は日本に対し、民間保険会社が提供している商品と競合する簡易保険(カンポ)を含む政府および準公共保険制度を拡大する考えをすべて中止し、現存の制度を削減または廃止すべきかどうか検討することを強く求める。〉…官業としての簡保を廃止して民間保険会社に開放しろというロジックの淵源は、米国政府の要望書のなかにあったのだ」

 しかも関岡は「米国が10年来一貫して標的としてきたのは、郵政三事業のうちの簡易保険のみであり、郵便事業と郵便貯金にはほとんど関心を示してこなかった。なぜなら、米国政府の背後で圧力を加えてきたのが米国の保険業界だからである」という。その例証として、昨年2月に来日した米国生保協会のキーティング会長と自民党の与謝野馨政調会長との会談と、そこでの郵政民営化の陳情について挙げている。2月9日の朝日新聞のインタビューのなかで、郵政民営化に関してキーティング会長は「米国の生保業界にとって最も重要な通商問題だ」と、堂々と明言しているのである。

 2004年10月14日付の『年次改革要望書』には、郵政民営化に関して以下のような要求が列挙されている。  「日本郵政公社の金融事業と非金融事業の間の相互補助の可能性を排除する」

 「特に郵便保険と郵便貯金事業の政府保有株式の完全売却が完了するまでの間、新規の郵便保険と郵便貯金商品に暗黙の政府保証があるかのような認識が国民に生じないよう、十分な方策を取る」

 「郵便保険と郵便貯金事業に、民間企業と同様の法律、規制、納税条件、責任準備金条件、基準および規制監督を適用すること」

 「新規の郵便保険と郵便貯金が、その市場支配力を行使して競争を歪曲することが無いよう保証するため、独占禁止法の厳格な施行を含む適切な措置を実施する」等々。

 アメリカはここまで踏み込んで、日本に具体的な郵政民営化のあり方を指示しており、小泉政権はこれを忠実に実行しているだけなのだ。「小泉改革」とは、実はその仮面をはがせば「ブッシュ改革」に他ならなかったのである。

目的は米保険会社の日本市場制圧

 このようなプロセスを通じてアメリカは、自国の保険会社による日本市場の完全制圧を準備している。日本の民間保険分野は、以前から、米国の激烈な市場開放攻勢にさらされてきた。90年代の日米保険協議の結果、医療保険やガン保険などの分野は外資が優先され、米国系保険会社が制圧してきた。かつてバブルの時代には「ザ・セイホ」ともてはやされてきた保険業界の本丸というべき生命保険分野でも、2004年度の業績でついに業界最大手の日本生命が、個人保険契約件数でアメリカンファミリー生命(アフラック)に、新規保険料収入でもAIGに抜かれ、戦後初めて首位の座から転落した。最近外資系に買収された日本の生命保険会社は「奪われる日本」によれば以下のとおりだ。

 東邦生命→AIG(米)、千代田生命→AIG(米)、平和生命→マスミューチュアル(米)、協栄生命→プルデンシャル(米)、オリコ生命→プルデンシャル(米)、第百生命→マニュライフ(カナダ)、日産生命→アルテミス(仏)、日本団体生命→アクサ(仏)、ニコス生命→クレディ・スイス(スイス)。

 こうした日本の中小生保会社の経営破綻もアメリカが大きな原因を作っている。クリントン政権の時代、アメリカは徹底的な日本バッシングをおこなった。対日強硬派の急先鋒だった民主党のペンツェン上院議員が財務長官に就任し、ドル安容認発言を繰り返し、日本を円高攻勢で締め上げた。その結果生保各社の米国長期国債は為替含み損を抱えこんだ。だが売却すれば損失が表面化する。生保各社はひたすら米国債をかかえこんだのである。

 そして、アメリカ保険会社のさらなる追い打ちと、日本征服作戦が今回の「郵政民営化」というわけだ。  「日本の民間保険市場は、過去20年以上にわたって米国にさんざん蹂躙されてきた。あらためて日本国内を見わたせば、カナダのGDPに匹敵する規模を有する簡易保険がまだ米国の手つかずのまま横たわっている。保険市場をめぐる日米間の過去20年にわたる歴史を振り返ったうえで改めて考えれば、郵政民営化の本質は、120兆円にものぼる官営保険の市場開放問題だということがわかる」(同)

 アメリカは今後、日本の健康保険制度をアメリカ流に改悪し、その市場にもなだれ込もうという魂胆なのだ。このようなアメリカ資本の日本市場制圧作戦のお先棒をかつぎ、政敵に「刺客」を送り込んでまで「改革」を強行しようとする小泉内閣は、戦後史上最悪の日本社会破壊内閣だ。日本民衆のセイフティ・ネット維持のためにも、小泉ニセ改革は阻止されねばならない。

2 個人のリスクだけ高まる小さな政府

「ワシントン・コンセンサス」がルーツ

 それでは「要望書」=小泉改革路線のルーツはどこにあるのか。それは「ワシントン・コンセンサス」である。

 1989年にベルリンの壁が崩壊した直後、ワシントンにあるシンクタンク国際経済研究所(IIE)の研究員ジョン・ウィリアムソンは、アメリカ主導の国際経済秩序を構築する基軸として、財政規律、税率の引き下げと課税対象の拡大、金利の自由化、貿易の自由化、直接投資の自由化、民営化、規制緩和など10項目をまとめた。

 そこでは全体的に@緊縮財政、A民営化、B市場の自由化といった3つの観点が貫かれている。2001年にノーベル経済学賞を受賞したジョゼフ・E・スティングリッツ教授によると、これらの方針がアメリカ財務省、世界銀行、IMF、その他ワシントンの政策関係者たちの共通認識(=「ワシントン・コンセンサス」)になったといわれる。

 このローカルなコンセンサスが、さも普遍的な基準であるかのような「グローバル・スタンダード」の名で呼ばれているものの内実にほかならない。ようするにアメリカのエゴを、世界中に押しつける「アメリカン・スタンダード」なのである。

 それまでの冷戦時代にも「レーガン革命」以降、アメリカは対ソ核軍拡とともに、市場経済の世界的拡大を新自由主義政策として推し進めてきた。そしてアメリカが冷戦に勝利した。アメリカは社会主義的な計画経済の失敗が歴史的に証明されたとして、さらなる強力な市場経済の推進を全世界に向けておこなおうとした。共産主義に勝利したことで、「市場経済」こそが唯一・絶対の真理であるかのような信仰が生まれたのだ。そこで作成されたのがワシントン・コンセンサスである。

 その結果、1990年代に入ってからは、アメリカ政府やIMFは、他国に対してアメリカ型経済改革を世界中で迫るようになった。日本への「要望書」の突きつけも、明らかにその流れの中に存在している。これを忠実に実現する小泉首相は、市場主義信仰に完全に洗脳されてしまった。彼はワシントン・コンセンサスの信奉者なのだ。竹中平蔵などはそもそも「市場原理主義」のミッションとして、アメリカにより日本の権力中枢に送り込まれたエージェントにほかならない。

 このような経済政策と元トロツキストのネオコン勢力が結びつき、「アメリカ流民主主義」という名の「共産主義世界革命」ならざる「市場原理主義世界革命」を強力に推し進めようとしているのが、今日の国際政治経済の基調である。

 昨年6月1日、ネオコン系シンクタンクPNACのメンバーであり、国防副長官を務めブッシュ政権の中心的ブレーンだったポール・ウルフォウィッツは、ついに世界銀行の総裁に就任した。「世界革命」への更なる一歩を踏み出したのだ。アメリカは「悪の帝国」ソ連による「共産主義の輸出」を非難し、長年の冷戦の結果これを頓挫させた。その後、今では自分たちが市場原理主義の輸出を世界中におこない、各国経済を根こそぎ破壊し、多くの民衆を路頭に放り出しているのだ。

市場原理主義者による政権奪取

 戦後の冷戦時代、日本は極東最大の反共の砦として存在してきた。だがソ連・東欧社会主義圏の崩壊によって、日本の米世界戦略における位置づけは大きく変わった。そのことで、日本の支配層にもまた大きな変節と分岐が作り出されたのである。郵政民営化をめぐる自民党の分裂劇こそ、その表面化といえるものだ。

 冷戦時代は何はともあれ反共政権であることがアメリカの意に添うことであり、そこでできた親米政権が、市場原理主義に基づくものであろうがなかろうが、アメリカはどうでもよかった。親米政権はそのほとんどが「大きな政府」を頂く開発独裁政権であり、アジアでの民主国家は日本ぐらいだった。その日本でも、とりあえず「反共」で一致できるならば自民党員であることができた。またその幅の広さが自民党の売りでもあった。当時は保守ということと「反共」はほぼ等式で結べたのである。国内的にも、野党には共産主義やそれと近い勢力(社共)が一大勢力として存在していた。これと対抗するためには、保守勢力は「反共」を結集軸として結集する以外なかったのだ。

 1991年には遂にソ連邦が崩壊した。共産主義との対抗ということは問題ではなくなった。日本国内的にも、かつての社共革新勢力はとるに足らない存在となっていった。そこで座標軸が変わったのである。

 アメリカ流の市場主義を推し進めようとする市場原理主義勢力と、これに抵抗して、これまでの日本流の疑似社会主義的な経済体制を維持しようとする勢力との対立が、自民党内に生まれたのである。この攻防の中で、小泉・竹中らの市場原理主義者は、自らに反対する勢力に対しすべて「抵抗勢力」というレッテルを貼った。ミソもクソも一緒にした批判を投げかけ、郵政民営化を突破口に「改革」を強行しようとしたのだ。それはあたかもスターリンが、大富豪も人民主義者も、共産革命に反対するものはみな「反革命」の烙印を押して掃討していったのと酷似している。

 たしかに日本の疑似社会主義的な従来の体制は変革が迫られていた。市場主義者の竹内靖雄は「日本型社会主義との決別」というサブタイトルの付いた『日本の終わり』で、日本の体制を「日本型社会主義」と呼んでいる。

 「官が業界(市場)ごとに自分のナワバリをもち、そこで行われる経済ゲームを管理する」  「規制によって参入を制限し、競争を制限して高価格を維持できるようにし、弱い業界、企業を保護する」

 「『親方日の丸』の国営企業や類似の特殊法人などを増殖させる」  「金融部門を大蔵省(財務省)の強力な統制下におく」

 「財政を通じて中央から地方へのカネ(税金)の再分配を行う」等々。  こうした「日本型社会主義」は左翼によってではなく、日本の保守主義者=自民党によって作られてきたのである。自民党は日本の戦後高度経済成長の超過利潤を税金として吸い上げ(「大きな政府」)、これを「公共事業」の名の下にばらまいて利益誘導的な国民統合を実現してきた。これの補完を果たしてきたのが、物取り路線(富の再分配要求)で、そうしたシステムを支えた社共革新勢力である。これらの均衡によって、「日本型社会主義」とも呼べる疑似社会主義的体制は存続の根拠を持った。

 それがバブル以降の不況期になってもそのまま続けられた。その結果地方を合わせ1000兆円という天文学的な財政赤字を生み出してしまった。今日の日本の財政状況にもっとも似た国家は、共産党とともに沈没していった末期のソ連・東欧社会主義諸国だろう。

 当然にも、こうした日本の現状を打破しない限り、日本の未来はないということは国民の共通認識になった。財政赤字の総額が1000兆円を突破したのだから、誰でもそう思うはずだ。「日本型社会主義」の打破を目指した「小泉改革」は、国民の多くの支持を獲得していった。そしてこの「改革」への支持を背景に、市場原理主義者は反対派を粛清し、まんまと政策を実現したのである。

ジョージ・ソロスの市場原理主義批判

 確かに日本の多くの民衆は、「日本型社会主義」解体の道を選択したがっていた。自民党への反対党である民主党の方針は不鮮明であった。多くの改革票は旗幟を鮮明にした小泉自民党に向かわざるをえなかったのである。

 だがそれは、国民が「市場原理主義」を選択をしたことを意味するわけではない。小泉の抽象的な「改革」スローガンだけでは、そこまで見えてこなかっただけだ。小泉首相は「改革」のリスクについての説明責任(アカウンタビリティ)など、まったく果たしていない。「小泉改革」のめざすものは「市場原理主義改革」そのものだったのである。大きな政府がだめならば小さな政府。小さな政府の原理は市場原理。このような単純で乱暴な二項対立図式が「改革」の正体であったのだ。

 しかも、この選択の結果に対する責任(レスポンシビリティ)は彼が取るのではない。市場の原則は自己責任である。これから先、国民は自分たちで選択したこと以上の責任を背負わされるだろう。

 市場を制してきたヘッジファンドの帝王ジョージ・ソロスは、自著『グローバル資本主義の危機』で、皮肉にも市場原理主義を批判している。

 「原理主義者の信仰の大きな特徴は、二者択一の判断に依拠することだ。ある命題が間違っているとすれば、その反対が正しいと主張する。この論理的矛盾が、市場原理主義の中核をなしている。経済の国家介入はすべてマイナスの結果を生んできた。中央計画経済はいうにおよばず、福祉国家も、ケインズ経済学の需要管理もそうだった。この平凡な観察から、市場原理主義者はまったく非論理的な結論へと飛躍する。国家介入が間違っているなら、では自由市場こそ完全であるにちがいない。したがって、国家による経済への介入を許してはならない、というのである。この論理が間違っていることは、あらためて指摘するまでもないだろう」

 投機的な目的で市場を行き来する天文学的なカネ。それを国家が野放しにすることの恐ろしさを、ジョージ・ソロスは身をもって知り抜いている。この男の言葉にこそ小泉・竹中をはじめとする市場原理主義者は耳を傾けるべきなのだ。

 すでに小泉改革の進行する中、国民の間での貧富の格差は一挙に進んでいる。六本木ヒルズなどに住むホリエモンなど一握りの「勝ち組」だけが脚光を浴び、その裏では『下流社会』(三浦展著)で描かれているような、「一億総中流化」から総「下流化」への転換が進行している。年収700万円以上と400万円以下に日本社会は分岐しようとしているのだ。

 今年2月、OECDが発表した報告書「所得格差と貧困」によると、すでに日本の貧困率は加盟国(30カ国)で5番目に高い。貧困率とは、国民のうち何%が貧困であるかを示すもので、OECDは全家計平均所得の半分以下の所得しかない家計を貧困層と定義づけている。

 かつてのわれわれも含め共産主義者や社会主義者は、市場経済の矛盾と非人間性について声を荒げて非難してきた。共産主義や社会主義は政治勢力としては滅びたが、だからといって、こうした市場経済の問題点は決して消えたわけではなかった。これをいかに是正し克服するかは、現代においても常に課題であり続けている。否、今ほどこの課題の重要性が増しているときはないといってもよいだろう。

 例えばイギリスにしても、「揺りかごから墓場まで」という社会主義的な福祉国家路線を貫いた結果、「イギリス病」とまで呼ばれた経済的停滞に落ち込んだ。そこで「鉄の女」サッチャー首相が登場し、民営化の手法で1980年以降大胆な改革を推し進めていった。それはアメリカの「レーガン革命」と呼応するものだった。彼女もまたレーガン同様、ハイエク、フリードマンを師と仰ぐ市場原理主義者だったのだ。

 だが4半世紀を経過した現在、そうした歴史の歯車は一回りして、時代は新たな局面を迎えている。イギリスでは97年に保守党が政権に返り咲いて以降、「民営化の見直し」が行われているのだ。労働党のブレアは左派からは「サッチャーの息子」などと呼ばれ、民営化路線の継承者とも評される。しかしことは決してそう単純ではない。例えば日本では「市場を用いた新方式の民営化」のように宣伝されるPPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ)なども、実際は「官民協調」ということである。必ずしも日本のように株式を公開して資産を売却することを意味しているわけではないのだ。公有財産を民間企業に開放して、ビジネスに利用させることが中心である。他にも多くの国が民営化の実験をおこない、今やその功罪が見えてきている。世界的には民営化の軌道修正が問題となっているのだ。

 日本では「失われた10年(15年)」の原因をすべて民営化の遅れに押しつけ、これさえ実現すれば何とかなるかのような幻想が植え付けられている。しかし危機を乗り切ることは絶対にできないだろう。

※PPP=公共的な社会基盤の整備や運営を、行政と民間が共同で効率的に行なうシステム。イギリスで発達した。上下水道の運営、郵便、鉄道、公共サービスの民営化が注目された。

3 生活破綻する前に結束する必要

市場とグローバリゼーション

 小泉の刺客の集中砲火を浴びた「抵抗勢力」のドン・亀井静香の舌鋒は鋭い。月刊『日本』のインタビューでは「いまの日本は歴史的危機に直面している。我が国はすでにアメリカの51番目の州にされてしまった、と言っていいだろう。現状の日本はアメリカにうまく利用され、安全保障面でも、経済面でも、アメリカの世界戦略に一方的に奉仕させられている。このアメリカ従属路線が、小泉政権下で一段と進められた。…小泉政権は安全保障面だけでなく、経済面でも対米隷属路線を押し進めている。アメリカにとって、日本経済を支配下に置くことは国家戦略を遂行する上で極めて都合がよい。…郵貯・簡保という世界最大の金融機関を解体し、外資の支配下に収めるプロセスが、郵政民営化法の成立によってスタートをきることになった」と、小泉改革を糾弾している。

 批判はその通りだろう。だが亀井静香の思い描くような保守本流路線への舞い戻りでは、日本の矛盾は解決できない。保守本流の採ってきた「日本型社会主義」路線が日本をダメにしたのだからだ。だからこそ国民は「改革」に票を投じたのである。「大きな政府」の再建はもはや日本にとって不可能だ。「日本型社会主義」の両翼であった保守本流勢力や、旧「革新」勢力のカムバックという選択の余地はないことを自覚するべきだ。

 それでは反米的世論の盛り上がりの中で勢いを増してきた、日本右翼のウルトラ・ナショナリズムの主張はどうか。市場主義的な改革は伝統的な共同体を破壊するからいけない。日本国民は日本民族としての自覚と誇りを取り戻し、結束してアメリカと立ち向かえというものだろう。これはサブカルチャー出身の小林よしのりなどがアジっている。若者の中にもかなり浸透している。

 しかし、もはや「鎖国」の時代ではない。グローバリゼーションを単純に拒否した先に、どういう展望があるというのか。しかもその上でアジア共同体は必要だというのだ。それでは日本の伝統的ナショナリズムや経済政策を、アジアへ拡張するものにしかならないではないか。戦前の「大東亜共栄圏」の再現でしかない。これは暴論であり、保守本流以下の主張である。この先にあるのはアジアとの対立だけだ。

 結局、市場そのものを敵視してもしかたがないのである。人類はいまのところ市場以外に、社会的富の分配の方法を持っていない。確かに市場経済には多くの矛盾が存在する。だが私有財産の国有化による社会主義的分配は、市場の矛盾を解決したどころか、より深刻な矛盾を生み出してしまった。竹内靖雄が「日本型社会主義」と呼んだ、戦後日本のケインズ主義的国家独占資本主義もまた同様な結果に終わった。

 市場およびその国際化であるグローバリゼーションは受け入れる以外ないものである。それが理想的であるからではなく、現実的にそれしかないからだ。その場合、アメリカン・スタンダード(市場原理主義)の強要と、広義のグローバリゼーションとの差異を見ておく必要があるのだ。グローバリゼーションには経済面だけではなくて様々な側面がある。そこには肯定面も多く存在している。そもそも民主主義や人権などの共通の価値観が世界的に形成されたのは、グローバリゼーションの進展抜きには語れないだろう。実際、東アジア共同体をめざそうにも、その共通のフォーマットづくりに市場経済の発展は不可欠である。各国間でのFTA(自由貿易協定)の推進ぬきには、いかなる共同体も形成しようがない。

 問題なのは、市場化やグローバリゼーションの進展によってもたらされる環境破壊や、貧富の格差の拡大、地域経済の破壊といったネガティブな側面を、いかにして克服していくかだ。そこに国家や共同体(中間的諸団体)の役割がある。それらが市場原理主義の浸蝕と対決することが必要とされているのだ。

中間的諸団体の共同性が救いだ

 市場原理主義者の考え方は国家と市場の二元論である。国家的な管理がだめだから、あとは個々の自由競争にゆだねるしかないという暴論だ。ソロスの指摘を待つまでもなく、これは極論でしかない。それは人間社会においては国家が普遍的な共同体であり、市民社会はアトム的な個人のエゴがぶつかり合う場という、ヘーゲル的な近代国民国家の図式をそのまま引き継ぐものだ。マルクスはこの国家に対置して、国際的なプロレタリアートの階級性こそが現実的な共同体であるとした。しかしこれもまたヘーゲルの図式から抜け出ていない。プロレタリアートを「世界マルチチュード」に置き換えても同じことだ。

 現実的な共同体は国家だけではない。もっと多様な形で、中間的諸団体として国家と市場の担い手である個人の中間に幾重にも存在しているのである。しかもそうした諸団体は市場経済を円滑にしたり、矛盾を和らげたりするものとして機能している。それが実際の社会である。市場と共同体は必ずしも背反するものではなく、共存しながら機能しているのだ。

 市場経済が越えられないものであり、かつ国家による管理が不可能であるのならば、市場経済的矛盾の是正においては中間的諸団体の役割がますます大きくなってくる。

 実際、日本では家父長的・ムラ的共同体が、戦後の高度成長を支える基盤として機能してきた。労働予備軍のプールとして存在し、景気の安全弁となって資本蓄積と社会の安定を大きく支えてきたのだ。こうした部分を政策的に保護し、「公共事業」の名の下で利益誘導してきたのが自民党だった。家父長的・ムラ的共同体のエートスは、農村だけに限らず都市部における中間的共同体をも支配してきた。自民党はまさにそうした日本的な地縁血縁共同体のうえに、安定的な政権基盤を築いてきたのである。

 自民党内「抵抗勢力」は、こうしたムラ的共同体の維持を求めていただろう。小泉の市場原理主義は、自民党の従来の基盤だったそうした家父長的・ムラ的共同体を最終的に解体していくものだった。市場経済の担い手はアトムとして市民社会に放り出された。「安心な郵貯・簡保」にお金を預けておけばいいという時代は終わってしまった。

 村のじいさん、ばあさんまでもが、自己責任で投資しなければならない時代になってしまったのだ。今後これまで以上に、国民の個人主義は促進されるだろう。そこで現れる共同体から引きはがされた個人を「市民」として美化しても、市場原理主義に対抗する論理は出てくるはずもない。

 問題なのは、その「市民」が、今後どのような中間的諸団体にコミットしていくかということだけしかないのだ。伝統的な共同体の解体は、同時に自己選択・自己責任による共同体への参加の機会が増大していくことを意味する。そうしたコミュニティは「親方日の丸」を無条件に支持し、その引き替えに票を献上するという、従来の自民党型集票構造とはことなったシステムを生み出す。

 それは一方的で依存的な関係ではなく、相互扶助的・リスク共有的な関係の共同体だ。そこに人は集まる以外ないのである。国家という共同体にぶら下がるのではなく、市民社会で自らの所属する共同体に義務と責任を負い、公共的なプロジェクトにも積極的にコミットすることを通じて、自らの権利を実現する。そうした発想こそが求められているのである。

 そのことで金子勝が提起するような「情報が人々や機関に正しく伝えられ、それに基づいてシステムが制御される」ような「フィードバック」(『粉飾国家』)の仕組を、社会に組み込んでいくことも可能となる。それこそがブントのめざす個人主義と共同体主義の実践的な統一の方向だろう。これは知的共同体の形成をかかげてきたブントにとり、もはや自明の命題だ。ブントが小泉自民党と対峙していること、それが日本を変えていく力そのものなのである。

 かつてイギリス労働党の「ニューレイバー」への転換の理論的根拠を生み出し、現在でもヨーロッパの社会民主主義などにも大きな影響を与えるているアンソニー・ギデンズは、グローバリゼーションの時代におけるそのような政治のあり方を『第三の道』で開示している。

 「『ガバメント』(政府)ではなく『ガバナンス』(統治)のほうが、行政や規制の担い手を表す言葉として、より適切なものとなるだろう。非政府組織(NGO)のように、政府に組み込まれていない組織、もしくは国境を越える組織が、それぞれの役柄に応じて、適宜、ガバナンスに参加するのである」(ギデンズ『第三の道』)

 様々なNGOは政治は政府の仕事というぶら下がり的なあり方を超えつつある。NGOが海外援助の担い手となっている例などゴマンとある。民衆が政治の担い手となっていくのである。政府もまた、そうした自主的で自立した共同体との連携をめざす以外ない。

 政府は官僚主導的なあり方を越えていかねばならず、政府と国民両者の相互的な意識変革がそこでは問われる。しかし小泉市場原理主義勢力はそれを根こそぎ崩そうとしている。それに抗しつつ国家を活性化させ豊富化させることができるのは様々な中間的共同体だけである。それは労組、協同組合、互助会、ボランティア団体、NGO、NPOなど多様な形態をもつ。中間的諸団体の権力を見すえた活動の充実こそが、大きな政府も小さな政府もアウフヘーベンしていく力となるのだ。

国家を見すえる運動が見直されるべき

 今や地縁血縁的な共同体を解体する小泉改革は、日本の保守勢力にとっては両刃の刃である。それは市場原理主義の権力を打ち立てるとともに、自らの依って立ってきた基盤を自らの手で崩してもいるからだ。「自民党をぶっこわす」という小泉首相の言葉には市場原理主義の匂いがする。だが小泉は自民党を壊しているだけではない。日本社会に下流社会を出現させてもいるのだ。

 小泉首相はそこには目をつぶり、アメリカ型社会への道をひた走っている。にもかかわらず、そこで市場原理主義的な改革とセットで持ち出されているのは、なんとも裏腹なナショナリズムの強化戦略である。それは市場原理主義によってバラバラのアトム的な個へと解体していく大衆を、伝統的な国家イデオロギーへと回収して統合しようとする試みだろう。靖国神社とフリードマンが共存するこの矛盾!

 日本の伝統的なナショナリズムは近代的な自由主義とは矛盾する。靖国思想のような全体主義的な思想を国民に押しつけるのは、自由主義のベースとなる「個人の自由」にさえ反する。つまりそれは市場原理主義を過激に推し進める小泉改革の理念とも根本的に矛盾するのである。

 小泉改革は、そうしたアイロニカルな自己矛盾のうえにかろうじて成り立っている。破綻は目に見えているといわねばならない。

 日本の伝統主義は、伝統に自由主義を内包している欧米とは大きく異なるものだ。例えばアメリカならばリチャード・ローティーのように、アメリカン・デモクラシーの「伝統」を背景に、「未完のプロジェクト」を追求するという民主化戦略も通用する。日本では簡単にそういうわけにはいかない。靖国神社は、どういったって皇民化教育と結びつくだけである。小泉改革は矛盾的分裂をおこしやがて大崩壊する。

 ではどうすればよいのか。廣松タームで言うならば、伝統の現代的な「改釈」こそがまずもって求められるのである。そもそもが「日本の伝統」にしても、今そのように言われているものは、明治政府の戦略的な「改釈」によって生み出されたものだ。伝統は常に時局に応じて未来に向けて「改釈」され、脱構築されていく。

 かつての日本の伝統文化は、今日のグローバリゼーションの時代でも通用する民主的・近代的なものへと「改釈」=改革されていくべきものとしてある。現に今日の日本の国家像は、戦後民主主義の「伝統」を抜きにしてはすでに語れなくなっているではないか。自民党の改憲案にしても民主主義は標榜している。そのうえで伝統文化への回帰が盛り込まれているが、それは矛盾的なものである。その最たるものが皇室であり、天皇条項である。天皇は民主主義と相容れないのだ。

 それらから小泉改革に対して、ナショナリズムそのものに原理的に反対していくようなたたかいは有効ではないことがわかる。たしかにそうした立場は日本の新左翼系には多く存在している。「プロレタリアに祖国はない」というマルクスの言葉とか、「祖国敗北主義」といったレーニン主義の原則を、現在でも引きずっている。カルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアル系などの文化相対主義的な、ローティーの言う「文化左翼」なども、大きくいうとこれにふくまれている。それらは結局原理主義なのである。

 そうした立場では、この日本をどういう国家にするのかという立国ヴィジョンは出てきようもない。「反対のための反対(=理想のための理想)」の主張にしかならないからだ。それは結果的には、他国(中国や韓国など)の日本批判への追随・迎合にもなりかねない。他国の直接的な価値をこの国に押しつけるだけの役割である。そこでは言ってることの高尚さとは裏腹に、実践的には対米追随が、中国や韓国追随にしかならない場合もある。

 中間的諸団体に属し国を愛していようがいまいが、国家は現存する存在被拘束的な事実である。いくつもの協働連関態を基礎にして、最終的には国家なるものが存在し、国家イデオロギーが再生産される。そこでは現実的には国民「として」のわれわれは、逃れられようもない規定性であり、たとえネグリ=ハートの提起する「エクソダス(exodus)」をなそうとも、「〜系〜人」であることからさえ逃げることはできはしない(アイデンティティ的にも)。エスニシティについても同様だろう。ナショナルなものに原理的に反対し、これの「外部」に楽園を築こうとするあらゆる論理は、ゆえに現実を変える有効な力とはならない。ジョン・レノンの「イマジン」同様それは美しい話だが、あくまでもイマジンであるだけなのだ。

 その場合には国家にもっとも反対しているのは、実は最もラディカルな市場原理主義者であるリバタリアンであることが想起されるべきだ。一方でナショナリズムに反対している左翼が実は福祉国家に賛成する。麻薬などへの国家規制にも賛成する。だからリバタリアンからしてみれば、左翼こそが国家主義者だということにもなる。実際そういう批判は投げかけられている。

 問われていることは、リバタリアンのように国家やナショナリズムそのものを拒否するのではなく、国家内に形成されている様々な中間的共同体・諸団体の国家を見すえた豊富化や充実で国家を路線変更させていくことだろう。中間的共同体の充実のなかで国家の効力はうすれ、アトムに分割された民衆は再結集し国家に方向を与えていく存在となる。

 廣松渉的に言うならば、「通用的真理」(従来のナショナリズム)に対抗する「妥当的真理」は、たんなる思いつきや理想(ナショナリズムの否定)であってはならないのだ。サッカーやオリンピックで日本を応援するするなでは無理なのである。

 マルクスでさえ、現実的妥当性のない思想を、空想的社会主義として批判していたではないか。今こそ「東亜の新秩序」が展望されるべきだが、それに見合った思想の内実は従来のナショナリズムの「改釈」=脱構築からのみ実現されていく。そこではアジア諸国との共存や、自然との共生という時局の要請に応える内容をもった中間的諸団体が、国家を内側から逆規定していくだろう。必要なことは、そうした共生・共存の民衆思想を再生させることだ。相互の互助的な「やわらかいナショナリズム」の先に、東亜の新秩序は形成される。民衆の連帯と交流が国家の穴をうめていくのである。日中貿易を見れば、すでに民衆レベルでは相互交流しあっていることは歴然ではないか。

 国技を外国人力士が牽引し、女系天皇が認知されようとしている時代である。小泉首相は既に自己分裂におち入っている。日本の「伝統」を継承=脱構築しつつ、アジア共存とエコロジーの時代をめざす中間的諸団体の充実こそが明日の日本をつくっていく。ブント運動はますますその必要性を増している。


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(2006年1月1日発行 『SENKI』 1199号2-3面から)


http://www.bund.org/opinion/20060101-1.htm

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