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日本の社会においては、「世論」が萎縮する傾向が顕著でありあますが、その理由は何に由来するのでしょうか。
日本の社会では、自分の意見の表明が第一に考えられる事ではなく、
「周りへの気配りと遠慮」が第一に考えられる事なのです。
そして「周りからはみ出す事」を恐れ、「周りから虐めを受けて追放される事」を恐れるのです。
これは、職業人の生き方もそうであるばかりでなく、企業つまり法人のあり方もそうであるのです。
サラリーマン、自営業者、そして企業、マスコミの行動様式は総てこのパターンです。
誤解されないように前もって言っておきますが、これを私は否定的に捉えているわけではありません。
事実として認めているわけであり、この事実からのこれからの変化に日本の未来を期待する他ありません。そのような考え方をしています。
私は、この様な在り方の由来について、その答えの一つを、
日本社会に古代からごく最近に至るまで続いてきていた「農村社会」の精神風土に求めるのです。
昭和の高度成長期が終わった時点で、日本の社会は大きく構成を変えてしまっていました。
それまでは、圧倒的多数の国民は「農民」でした。そして「農村」に住んでいたのです。
ところが今では農村人口は激減し、都市住民が圧倒的多数になってしまいました。
「周りへの気配りと遠慮、そして周りからはみ出す事と虐めを受ける事への恐れ。」
日本では国民の間で能力に差が無いので、誰でも又どの企業でも同じ事が出来るので、人も企業もスペアが効くので困る事はありません。雪印が倒れても困る事はありませんでした。
ある自動車メーカーが倒れても誰も困りません。他のメーカーが代わりをします。
メディアも同じです。
この事が、恐怖心を起こすのです。「自分達が居なくても社会は困る事は無い」。
従って自己保身が優先し、正論や正義は二の次、三の次になります。
自分の他には追随者は居ないとなれば、強気になれて自分の正論や正義を押し通す事は出来ます。
しかし、日本人は能力が均等なので個性があっても目立たないことが多いのです。埋没するのです。
この様な「遠慮と恐れ」は、農村社会と言う一定地域に限定して生活を営んできた農民の「思考様式」なのです。
企業人も知識人もその圧倒的多数は、出自が農村に住む農民なのです。
幕末の武士、町人は大変な少数派であり、
従って、明治以後の近代において形成された都市住民は、
実は「農村の農民」の「思考様式」を継続させて生きてきたのです。
しかし、これは理念ではなく、「生活感情」の次元のものでありますから自覚されては居ないものです。
しかも、今では農民ではなく都市生活者である人が多いので、自らの農民的思考様式を無自覚に継続しているのです。
二世、三世はより無自覚に継続し、引き摺っているのです。
高学歴の人達は、意識の世界では理念的な思考法を取ることが出来るのですが、無自覚・無意識に深く「農民的思考様式」を継続しているためにダブル・スタンダードの行動を取ります。
企業の行動様式も、マスコミの行動様式も、官庁の行動様式も、政治家の行動様式ですらが、「これ」なのです。「農民の思考様式」なのです。
従って、日本では「理念」で行動が決定されず、
「農民的思考様式」で決定されます。
従って、日本は外国と連帯する事が苦手であり、
日本人は外国人と連帯する事を苦手とするのです。
身近な目の周りの人を仲間と看做し、少し離れた組織とか地域の人を他人と看做します。
これは、農民的思考様式から離脱していないからです。
既に、農民ではなく従って農村に住んでいないにも拘わらずその有様なのです。
しかし、悲観する事はありません。どうにもならないものではありません。
時代の要請により、日本人は変わります。変化します。
思考能力は確かに持っているのですから、悲観する事はありません。
生存本能の要請から変化するのであり、決して何らかの理念に従って変化するのではありません。
必要が起きたときには、大多数が大きく変化して行動するでしょう。
その様な形を取るものと考えています。
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