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『別冊宝島』1238「戦後ジャーナリズム事件史」(2006年1月1日発行)p.28〜33より引用
巨大教団の盗聴、妨害、検閲――
戦後最大の出版妨害事件「創価学会を斬る」(69年)はかくして「忘却」された
第10回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」を受賞した『週刊新潮』の連載「新・創価学会を斬る」。36年前の言論妨害事件から、教団とメディアはいかなる関係を構築してきたか。当時、藤原弘達の『創価学会を斬る』を担当した編集者はこう語った。「現在は、あの当時と同じか、もっとひどい状況だ」――。
文・山田直樹(ジャーナリスト)
週刊新潮「新・創価学会を斬る」をまとめた山田直樹著『創価学会とは何か』(新潮社)。連載は03年、「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」受賞
『週刊新潮』創価学会連載はこうして始まった
「週刊新潮で創価学会問題の連載をやってみないか」――。
知己のジャーナリストを通じ、こんなオファーが舞い込んだのは03年晩夏のこと。いささか複雑な気持ちになった。ライバル誌『週刊文春』で長年、私は学会問題の担当であったのは事実だが、ここぞ≠ニいう時に新潮に決まって抜かれた苦い経験もある。新潮の学会担当デスクも知っている。抜かれる度、彼が高笑いしている姿を想像したものだ。聞けば連載担当は(よりによって!)このデスク氏。それより、フリーランスになったものの、あの毒気充満の新潮スタイルに私の文章は馴染むのか……。
「大丈夫、新潮は正攻法でやると言ってるから」
と言う、前出のジャーナリストの言葉に背中を押される格好で企画を引き受けることになった。とはいっても今度は、「正攻法」が気になる。そんなスタンスで記事を掲載すれば、目の肥えた新潮読者にソッポを向かれてしまうのでなかろうか。杞憂だらけで恐るおそる始まった連載だった。
――ジャーナリズムと創価学会。事件史を軸に捉えれば、真っ先に書かねばならないのは創価学会・公明党による「言論出版妨害事件」である。この事件は大要、次のよう語られてきた。
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●元創価学会員、植村左内『これが創価学会だ』妨害事件
67年10月刊行予定の同書ゲラを公明党が入手。公明党前委員長、書記長(矢野絢也氏)、都議の竜年光氏が自民党本部に出向き幹事長・福田赳夫氏に出版中止を依頼したが断られる。そこで池田、竹入の連名で出版禁止仮処分を東京地裁に申請(10月3日)するも却下される。その後、池田、竹入両名は名誉毀損を理由に民事提訴。さらに同書が「新日本宗教団体連合会」(新宗連)の仕掛けたものとして同会理事長の庭野日敬氏(立正佼成会会長=当時)を警視庁に告訴した。植村氏の著作ベースになっていたのが、新宗連機関紙上での創価学会問題連載記事だからとの理由≠テけからだ。
この事件が象徴的だったのは、『斬る――』同様に未だ出版されない段階から妨害工作に遭遇した点だ。『斬る――』の場合は、電車内に中吊り広告(予告=69年8月末)が出された時点から妨害工作が始まっている。創価学会員や公明党関係者は実際の著作さえ目にせず、一気呵成に妨害へとひた走ったわけだ。驚くべきことに警視庁は、告訴を受け庭野氏に出頭を求めた。残念ながら庭野氏に抵抗する余力は残されていなかった。当時、日本大学会頭で「宗教センター」(社団法人)理事長でもあった古田重二良が中に入って庭野氏(新宗連)と創価学会(北條浩氏=当時は公明党副委員長、後に4代目会長へ就任=故人)の示談≠ェ成立。
創価学会による信者への折伏攻勢に晒されていた立正佼成会のトップは、『これが――』を10万冊ほど購入し、新宗連など関係先へ配布した。これらのほとんどが回収され、日大の校庭で焼き尽くされたのだ。版元は印刷紙型まるごと、未製本分も含めて創価学会側に引き渡した。そして脅迫電話が頻繁にかかっていた著者は、68年1月、古田会頭の要求≠ノより「今後、学会批判本は書かぬ」の一筆を取られる。焚書坑儒を彷彿とさせる事件だった。
●隈部大蔵の著作に対する出版妨害
西日本新聞東京支社の論説委員だった同氏は、ペンネームで『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅』(東北出版)を68年2月に刊行するも、初版絶版に。創価学会員に知られることを計算した隈部氏は、九州の小印刷所に極秘に発注。しかしこれも関係者の知るところとなり、まず版元を選挙区とする文部大臣(!)が出版中止を要求。植村事件同様、日大・古田会頭はまたしても介入して「ゲラを見せろ」と要請。結局版元は圧力に屈して、古田氏にゲラを直接手渡すのである。
版元にはこの時、暴力団関係者や学会員が訪問≠オ執拗な圧力をかけ続けた。
隈部氏はこれに屈せず、別のペンネームを使い『現代のさまよえる魂――釈尊と邪教の対話』の出版を試みるが、これもまた創価学会の知るところとなり、前出の北條から強硬な面会要求が行われる。この時の北條の要求は苛烈だった。要約するとこうなる。
「世界最高の宗教、創価学会への批判は絶対に許されない。学会の中で青年部は闘争心、情熱、確信に非常に燃えている。創価学会・公明党を批判する者に対し、創価学会という象はアリの一匹といえども全力で踏みつぶす」
この北條発言は後に学会を語る際、しばしば引用される名言≠ナある。これほどの脅迫を受けて、家族や仕事を勘案すれば隈部氏は『魂』の出版を諦める他なかった。
この2ケース以外にも、出版妨害に遭遇した事件は分かっているだけで20近く存在する。取次店が流通に応じなかったり、買い上げ≠キるパターンなど様々だ。これらは一部を除き『斬る――』問題が明らかになるまで、「読者」への提供はなされなかったのだ。
池田氏は確かに『斬る――』の事件でお詫びした。しかし出版差止めに遭いながらも刊行にこぎ着けた学会内部文書『社長会記録』を一読すれば、これがまったくの虚偽だということが分かる。何よりも『斬る――』事件において、池田氏が直接指示を出した点は、まさに圧力をかけた張本人である藤原行正元都議の著作『池田大作の素顔』(講談社刊)で詳細が述べられている。紙幅の関係上、これ以上は立ち入らないが、「世間に頭を下げた」池田氏率いる創価学会は、反省どころか共産党潰しの謀略活動を「お詫び講演」直後から開始していたのである。
お詫び講演からひと月余り経過した70年6月初めのこと。日本共産党宮本顕治議長宅の自宅電話に、「ジーッ」という雑音がしばしば混じる異変が生じていた。70年安保のこの年、共産党側が真っ先に疑ったのは公安警察や公安調査庁の所業。18日、宮本氏の秘書が電電公社設置の電柱を調べる。電話端子函に接続された盗聴器がついに発見される。
共産党側は知恵を絞った。宮本邸と関係者の通話に、わざと意味のない言葉(天気予報など)を散りばめた。こうすることで犯人側は少なくとも「盗聴していることが察知された」と判断して、器具の取り外し=証拠湮滅にやってくる可能性が高い――。
果たして犯人は現れた。が、共産党側は現場を押さえられなかった。その理由は判然としないが、私はもしここで盗聴に手を染めた創価学会員たちの謀略グループのひとりでも捕えていたら、今日のような公明党の興隆、否、創価学会の存在すら危うい状況が出来たと考える。それはさておき、共産党側が電電公社職員を伴って実地調査に踏み切った時点(7月10日午後4時)で、盗聴器は取り外されてしまっていた。正確に表現すると「取り外された」ではなく、引きちぎられていたのである。多くの物的証拠が現場には残されたが、それから類推しても拙速、拙劣で、プロが行う手口には見えない。
翌11日、共産党と電電公社は東京地検に対して、「有線電気通信法違反」や「公衆電気通信法違反」などの容疑で犯人操作と処罰を求め告訴する。しかし――。刑事事件の時効5年はあっという間に過ぎ、事件は迷宮入りしかけたのである。
盗聴事件関与の「週刊ポスト」スクープ
迷宮の扉をこじ開けたのは『週刊ポスト』である。同誌80年6月13号は「宮本宅盗聴事件は創価学会の仕業」と題する大スクープを放つ。赤旗は事件の背後関係を詳細に報じ、「週刊文春」(8月14日号)は、創価学会元顧問弁護士・山崎正友氏の手記を掲載、ついに別名、「山崎師団」と呼ばれる学会謀略集団の存在が暴露された。
この盗聴事件が白日の下に晒されたのは、山崎氏が意を決して暴露しかたらに他ならない。逆に言えば、それがなかったら今もって謎の事件だった。共産党は80年8月26日、宮本議長を原告に既出の北條浩副会長、山崎氏、さらに実行犯や支援部隊の役割をになった3名を相手取り民事提訴する。だが立証困難と判断され、池田会長への提訴は見送られた。結局この裁判は被告の敗訴が確定(高裁判決)した。罰金100万円は現在の価値基準からすると余りに低額にも思える。だが最も重要なのは、創価学会幹部である北條氏の責任(同氏は一審中に死去、夫人と子供らが継承≠オた)が認定された点だ。もっと言えば、一部署、グループの犯罪ではなく創価学会組織の指揮系列が事件の背後にあったと明言されたのである。一審では宮本宅盗聴事件の他に6件もの同種事件を認定している。
復刻版が未だ出版されない『斬る――』と異なり、盗聴事件には現在でも入手可能な資料が多数ある。詳細はそれらに譲るとして、問題はこの事件が引き起こされた時期とその後である。
共産党と創価学会は、作家・松本清張を仲立ちにして「協定」を結んだことがある。お互いを敵視しない共存を主旨とするこの協定が、現在でも生きていたら日本の政界も様変わりしただろう。その協定が締結されたのは74年12月。盗聴事件の刑事時効1年前だ。協定そのものは、永田町では共産党と終始対立していた公明党幹部が知らぬ間に、学会がそれこそ頭越しに結んでしまった。これに怒った竹入氏らの反発を押さえられず、すぐ死文化してしまう。
そうであるにせよ、盗聴事件まで仕掛けた相手と「協定」を握る感覚は、創価学会の二律背反性、鵺的有り様を如実に示している。そして忘れてならないのは、言論妨害事件が引き起こされ、池田氏が謝罪(口先だけのものだが)せざるを得なかった敗北を通じて、盗聴事件に至る道筋がつけられたことだ。この二つの事件には、創価学会・公明党を理解するうえで通底するDNAが存在しよう。
ところで言論妨害事件と同じく、盗聴事件の暴露はまたもや総選挙寸前のタイミングで行われた。この影響はことのほか大きく、公明党は58議席から一挙に24も減らす惨敗ぶり。ジャーナリズムは、相応の力を発揮したといってもよい。
80年代初頭から始まった創価学会や公明党幹部の大量造反は、彼らの所属した組織が何たるかを赤裸々にすることに成功した。この流れは少なくとも、80年代末期までは続いた。ところが90年代に入ると、その動きはぴたりと止まる。91年に創価学会が日蓮正宗から破門される大事件が起きても、雑誌メディアを除けば大きな報道はなされなかった。
95年、オウム事件の勃発を受けて宗教法人法改正問題が政治日程に上る。言論事件の時は池田大作氏の国会喚問が、野党側から突き付けられた。だが自民党の消極性に助けられ、これは実現しなかった。もちろん田中角栄氏ら自民党幹部が、そこで「貸し」を作って将来に備える戦略を練っていた点も見逃せない。しかし95年の自民党は本気だった。大野党の新進党(公明党衆院と参院の一部は解党して合流していた)を攻めるには、創価学会の危険性を指摘するのが早道だと考えたのである。
そして秋谷栄之助創価学会5代目会長は、参議院に「参考人」として呼ばれる。だが自民党はここでも狡猾だった。最後の「池田喚問」カードを切らなかったのである。
96年以降に進んだ「学会ヨイショ」報道
新潮連載は、その流れをジャーナリズムに沿って検証することも試みた。96年以降、新聞や電波、そして雑誌メディアに顕著な変化が認められたのである。一言にすると「学会・公明党への翼賛報道の増加と批判報道の減衰」になる。最も影響を受けていたのは新聞だった。この構造不況°ニ種はバブル崩壊以降、広告費の減少に歯止めがかからない。そこにホワイトナイトよろしく登場したのが、創価学会である。自前の印刷所を持たない学会は、空いている輪転機を聖教紙などの「賃刷り」に使ってくれる優良顧客でもある。
今や系列子会社、関連会社で創価学会がそうした顧客でない新聞社を見つける方が難しい。
言論事件や盗聴事件の手法は、極めて高いリスクが伴う。創価学会はこれに対して、新聞を中心に「金縛り」をかける作戦に乗り換えた。電波メディアとて例外ではない。こちらには完全パッケージの番組提供やスポンサーとして学会は向き合う。今やローカル局の報道番組を創価学会が提供するパターンも決して珍しくなくなっている。
山崎師団のような謀略部隊に取って代わって、メディアの前面に立ちはだかるのは自前で養成した弁護士たちだ。彼らがメディア相手の訴訟に、どれほど有用かは言うまでもない。メディアが学会マネーの前に跪き、批判的報道を避ける、あるいは翼賛報道に突き進むのもむべなるかな、である。
01年春から、それまで学会メディア以外のインタビューにほとんど応じて来なかった池田氏が、頻繁に大手紙へ登場するようになった。地方紙でも同様の傾向が認められる。残念ながらこれらに池田氏が最も嫌がるであろう言論妨害や盗聴事件について、正面から聞く記事は皆無といってよい。産経新聞は、それでも池田氏に言論問題を問いただす勇気はあった(01年9月19日付)。同紙はかつて、最も学会に批判的新聞だった時期もある。だが、池田氏のこんな話を平然と掲載するのである。
「学会は(言論事件で)さんざん悪口をいわれた。それはいい。許せなかったのは、学会婦人部に対して、口を極めて侮辱したことだ。(略)侮辱のつくり話などに反発し、怒るのは当然だろう」
『斬る――』のどこにも、学会婦人部を侮辱するような表現、文章はない。産経は池田氏の歴史の改竄≠ノ手を貸したのである。
今年6月、元参議院議員で小沢一郎氏側近だった平野貞夫氏は2冊の著作を上梓した。『公明党・創価学会の真実』と『公明党・創価学会と日本』(いずれも講談社刊)。このうち前者に対して、公明党の神崎武法代表(元検事である)は名誉毀損だとして東京地検に平野氏や講談社・野間佐和子社長を告訴した。私が確認した範囲では、この告訴を報じたのは一紙だけである。東京都議選最中の出来事とはいえ、いやしくも連立与党代表の告訴をなぜ報じないのか。平野氏はその後、民事でも提訴されている。
私にはこれが、「平成の言論妨害事件」に映る。『斬る――』を編集した日新報道・現代表の遠藤留治氏は、幾度となく口にした。
「今の状況は、『斬る――』が出る頃とそっくりだ。新聞はじめ、メディアは69年より前の状態に戻ってしまった」――。
ところで学会の謀略部隊は、その必要性が薄れ廃業≠オたのだろうか。ヤフーの顧客名簿流出と恐喝事件で名の挙がった人物のひとりに、盗聴事件の実行犯がいた。また学会に批判的なジャーナリストの携帯通話記録が盗み出された事件では、創価大学OBが逮捕、執行猶予付判決が下っている。後者で検察は、背後関係を立件せず、被告の「個人的興味」に動機を求めた。前者では大手メディアが盗聴事件との関連を何一つ書かなかったし、後者はほとんど報道すらなされず終いに終わった。謀略のDNAは決して消えていないのである。
言論事件に戻ろう。池田氏はお詫び講演でこんな風に語っている。
「私は私の良心として、いかなる理由や言い分があったにせよ、関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直にお詫び申し上げる。もし、できれば、いつの日か関係者の方にお詫びしたい気持ちである」
著者の藤原弘達氏は99年に他界する。夫人の充子さんを襲ったのは、「おめでとうございます」という、ひっきりなしにかかってきた嫌がらせ電話だった。もちろん、池田氏が存命中の藤原氏に詫びたことも、充子さんに謝罪したこともない。
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