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(回答先: Re: 当たり前だよ。立憲君主国家なんだから。 投稿者 Sirent Tears 日時 2005 年 12 月 05 日 23:09:19)
■近代立憲制の何たるかを議論する場合、日本の天皇制が、西ヨーロッパの「キング」の伝統とどう違うのか議論をせざるを得ない。巷には、明治憲政が立憲君主制であり、昭和天皇も大日本帝国憲法の下で立憲君主として振る舞ったとの説があります。しかし、結論からいえば、無知をさらす笑止な認識です。
■明治憲政については顕教密教二元論が定説です。一方に、国民にとって神聖不可侵な天皇がすべてを決められるような聖性のイメージがあります。他方、エリート連中にとって、岩倉使節団系の長州閥が統治の便宜に天皇を担ぎ出したものが明治憲政であることは自明中の自明。
■岩倉具視による孝明天皇暗殺説があるほどで、エリート連中にとっては天皇機関説以外ありえない。岩倉使節団系の連中にとって、統治権力が統治の便宜に天皇を担ぎ出すのが、鎌倉以来の歴史。だからこれを利用すべしと考えた。
■明治憲政がそういう経緯で成立したことはインテリの常識だったので、民衆の認識とギャップを捉えて、明治憲政の顕密体制と呼ぶわけです。
■こうした顕密体制下でも、明治天皇や昭和天皇は立憲君主として振る舞おうとされた。しかるに、これをもって明治憲政が立憲君主制だったとは言えない。なぜなら、立憲君主制は定義上「キング」が俗なる存在であることを前提とするからです。これ、常識です。
■ご存じのように西ヨーロッパは西ローマ帝国の聖俗二世界論の伝統下にある。各領邦の王は身体の外形すなわち行為のみを制御し、内面すなわち心の世界はローマ教皇が主宰する。こういう発想です。王が行為を制御しうるのは俗界における「同族者中の第一人者」だからに過ぎない。
■こういう伝統を前提にして、王が元首でありつつ憲法に服することで、政治的実務を全て臣下がなすのが、立憲君主制。ゆえに立憲君主制は、貴族制でも民主制でもあり得ます。立憲君主制と民主制は対立せず、民主制と対立するのは独裁制や貴族制です。
■立憲君主制とは、政体の最終的なレジティマシー(正統性)が、我は憲法に服するとの王の約束にあるものを言う。約束に従って統治実務は王でない人たちで行なう。王でない者ども──民衆や貴族からなる統治者──は王からの影響を受けない。それが可能なのは王が俗人だという伝統があるからです。
■日本はどうか。日本の天皇は俗人ではない。同族者中の第一人者ではありえない。社会システム理論では貴賤と聖穢を区別しますが、西ローマ帝国的伝統下の王は、貴であっても聖ではない。だから王に言及するのにタブーはない。日本的伝統下の天皇は、貴であると同時に聖。だから天皇に言及するのにタブーがある。
■その結果、天皇制下では、天皇でない者どもが天皇からの影響を受けないことがあり得ない。昭和天皇は立憲君主たろうとしたので、御前会議で意見を述べなかったとされる。しかし疑念がある場合は繰り返し質問をして自らの意図を示されようとした。
■天皇の周囲にいる田吾作どもが、陛下の真意(神意)はここにあるに違いないと忖度しながら──あるいは真意を擬制しながら──相互に規制するというのが、日本的な権力工学です。聖なる存在だからタブーであり、タブーだから影響力のリソースたりうる。
■田吾作が「天皇陛下のご意向」を持ち出すだけで大きな影響力が生じる。これが立憲君主制のわけがない。明治憲政を立憲君主制だなどという日本の政治学者の頭が如何に悪いかが分かります。陛下ご自身が自らを立憲君主だと規定されようが、それとは全くインディファレントに日本は構造的に立憲君主制たり得ません。
■実際、殿下がメディアに何か言うだけで、チャールズ皇太子がメディア相手に何か言った場合には起こりえない激烈な反応が生じます。それは殿下が貴い存在というより聖なる存在だからです。聖穢観念の支配する日本では、永久に立憲君主制は不可能なのです。
■明治憲政がどういうものであったのかという理解も、残念ながら不充分だということです。だから、象徴天皇制なるものについての基本的理解も、不充分である他ない。この理解なき者どもが天皇制をどうするかを云々する滑稽さ。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=119
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