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孝明天皇
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孝明天皇孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日)〜慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、日本の第121代天皇(在位:弘化3年2月13日(1846年3月10日) - 慶応2年12月25日)。諱は統仁(おさひと)。 幼称は煕宮(ひろのみや)。
在位中の徳川将軍は、第12代将軍徳川家慶・第13代将軍徳川家定・第14代将軍徳川家茂・第15代将軍徳川慶喜である。
http://y-hyouma.hp.infoseek.co.jp/history/koumei-death.html
孝明天皇崩御
<概要>
慶応2年(1866年)
12月25日午前11時半頃、孝明天皇(36歳)が崩御した。病名は流行性の出血性痘瘡(天然痘)だったと考えられている。
病気が発症したのは、12月11日に内侍所で行われた神楽の席であった。天皇は風邪気味で健康状態は思わしくなかったが、おしてこれに出席した。この無理が災いしたのか、高熱を発してうなされるようになり、顔や手に吹き出物が現れるようになった。17日、15名の典医は正式に「痘瘡」と診断し、七社七寺に祈祷が指示された。公卿らが見舞いに参内し、21日には15代将軍になったばかりの徳川慶喜も参内していたが、この日崩御された。
幕府は第二次長州征討に失敗し、薩長により討幕計画が秘密裏に進められている時勢であった頃に、佐幕論者の孝明天皇が崩御したことは幕府にとって大きな痛手であった。この翌年、岩倉具視ら一部の公卿と薩長主導の討幕計画はついに実行に移されることなり、幕府はその歴史に幕を閉じることになる。そのため、天皇は実は暗殺されたのではないか、という憶測が当時から飛び交っていた。その真偽の程は不明であるが、孝明天皇の崩御が幕府の崩壊を早める結果となったのは間違いないだろう。
孝明天皇暗殺説
孝明天皇の崩御は、時期が時期だけに、暗殺されたという説が当時から囁かれていた。イギリス外交官のアーネスト・サトウはその著書「一外交官の見た明治維新」の中で
「噂によれば、天皇は天然痘にかかって死んだということだが、ある日本人が私に確言したところによると、毒殺されたという。天皇は保守的で、外国に対していかなる譲歩も認めなかったため、朝廷が諸外国との関係に直面しなければならなくなることを予見した一部の人々に殺された、という。」
という内容が記述されているという。もちろん、これだけでは天皇毒殺説を確かなものとする証拠にはなり得ない。しかし、当時から毒殺説が憶測されていたことは注目に値するだろう。
毒殺説を支持する証拠として、一時危篤状態になった天皇の容体が回復した、と記す史料が残っているという。中山忠能(なかやま ただやす)の記録によると
「此御様子に候はば、惣て御順道との儀承り、恐悦存上候」
となっているという。天皇の容体は22日頃から徐々に回復に向かい、24日には吹き出物の膿も出て乾燥し始め、典医らは「御順当」と報告していたという。ところが、24日夜(25日明け方とも)から容体が急変し、顔には紫の斑点が現れ、喀血もあった。一時、回復状態に向かった容体が突如急変したのは奇妙だ、というのである。
暗殺だとするならば、誰の手によるものなのだろうか。よく挙げられるのが岩倉具視説のようだ。岩倉は薩摩藩の大久保利通らと共に、討幕運動を進めた討幕派公卿の中心人物である。動機はないとはいえないだろう。佐幕論者の天皇を消すために、天皇が筆をなめる癖があることを利用して、筆に毒をしみ込ませた、というものらしい。長州藩の伊藤博文説もあり、彼が直接刺殺したという。しかし、これでは「毒殺」と記す上記アーネスト・サトウの記録とは内容が異なるものである。だいたい、伊藤は剣術に優れていたわけではない。むしろ、素人に近かかったようだ。また、忍者のような隠密暗殺行動ができるわけでもない。そんな彼が、宮中に侵入して天皇を殺害するなどはあまりに突飛な話であり、信憑性はないと考えられている。
ここでは、暗殺の真偽について判定を下すことはできないが、暗殺説が登場するほど、天皇の死が歴史の流れに与えた影響は大きかった、と考えられるだろう。
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/koumeitennnou1.htm
●孝明天皇陛下の遺志(真面目にこの遺志を受け継いでいる人は、今、現在いるだろうか)
嘉永六年(1853)六月、アメリカ東印度艦隊司令長官ペリーの率いる四隻の黒船が、対日戦争をも辞さずとの恫喝的言辞を以て幕府に開国要求を付き付けた其の瞬間から、西欧列強による「植民地化のコースの最後に取り残された」鎖国日本の運命は、大きく転回することになった。これを起点として、全国に澎湃(ほうはい)として沸き起った攘夷論の渦は、国家の存立を根底から揺るがしたこの未曾有の国難に対して、断固独立を堅持しようとした、民衆の抵抗運動に他ならなかった。
けれども、幕末の攘夷運動の果したこの歴史的意義は今日不当に閑却され、頑迷固陋の徒によるいたづらな排外運動とばかり、往々にして喧伝され、誤解をされてゐたのであり、ただ国民の士気を鼓舞し、十分力を蓄へてから開国に転ずる策に出たまでの事であった(梅田義彦『皇政復古の源流』、村松剛『醒めた炎』)。村松氏によって、「白人を一途に感覚的に嫌いぬいていた」(同上)と形容された孝明天皇のやうな方とても、その旨としたところは然く単純に「感覚的」なものではない。
孝明天皇陛下の攘夷論は、遠く印度の運命に想いを馳せながら、欧米による日本植民地化の回避といふ一点の工夫に発し、又其処に尽きてゐたのであって、西洋人への生理的な「毛嫌い」といふやうな浅薄な次元のものでは決してなかった事を、天皇陛下の時局御軫念の勅書(所謂「御述懐一帖」、文久二年五月十一日付)は、或いは若き将軍徳川家茂に下された勅書(元治元年正月二十一日付)は、明示して余りあるからである。
…惟に因循姑息、旧套[旧来のやり方]に從ひて改めず、海内[国内]疲弊の極[結果]、
卒(つひ)には戎虜(じゅうりょ)[外国人]の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊[西洋人]に
屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍[二の舞]を踏まば、朕實に何を以てか先皇在天の神
靈に謝せんや。若し幕府十年を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師[懲らしめの軍隊]を作
(おこ)さずんば、朕實に斷然として神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう)[前例]に則り、
公卿百官と、天下の牧伯[諸侯]を師(ひき)ゐて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)
意を體(たい)して以て報ぜん事を
…然りと雖も無謀の征夷は、實に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て
朕に奏せよ。朕其(その)可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の國是を定むべし。(中略)
嗚呼、朕汝と與(とも)に誓て哀運を挽回し、上は先皇の霊に報じ、下は萬民の急を救は
んと欲す。若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪なり。(徳川家茂に賜はれる
勅書、同上)
暗殺については、毒殺説と刺殺説とが主張されていますが、今のところは決め手はないようです。
慶応2年12月25日に崩御とされていますが、これは旧暦の事であり、
今年の旧暦12月25日は、来年の新暦1月24日がそれに当たります。
しかし、12月25日の事として広く伝えられていることから、紹介を致したわけです。
明治維新以後の近代日本の歩みが軽はずみな調子であることは否定しがたく、このことは
天皇を暗殺し、従って天皇を道具視したところの「天皇否定思想」に基づく「天皇絶対主義思想」に立脚した風船国家体制であった事によるものと考えています。尤もこれは分かり易く言ってのことでありますが。
戦後民主主義体制もある意味で、風船国家体制です。
戦前と戦後の風船国家体制とは、共に「何々ごっこ体制」と言って良いでしょう。
国民の多くがが「天皇制ごっこ」や「民主主義ごっこ」をしてきたわけです。
勿論、全員ではありません。
知識人ではなく、庶民がそうしてきたことに問題があるのです。
つまり、庶民にイデオロギーを強いてきた事に問題があるのです。
庶民に強いる役割の多くをマス・メディアは果たしてきたのです。
中々に根深い問題が潜んでいます。
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