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河野義行さん(「松本サリン事件」被害者・元長野県公安委員)が、舩川輝樹『週刊現代』副編集長と筆者のために、「陳述書」(2005年9月3日付)を作成してくれた。河野さんならではの体験に基づく「陳述書」は、東京地方裁判所民事第9部裁判官ら(青木晋裁判長、平田晃史裁判官、西野光子裁判官)も感じるところがあったはずだ。
以下、ほぼ全文を掲載する。ちなみに、この「陳述書」に対する国(警察庁)、警察庁記者クラブ幹事社3社(産業経済新聞社〈産経新聞〉、テレビ朝日、日本経済新聞社=当時)からの反論はない。
陳述書
2005年9月3日
東京地方裁判所民事第9部御中
(住所略)
河野義行
私は、「松本サリン事件」(1994年6月発生)の被害者でありながら、1年近くも犯人視された報道を続けられました。また、2002年7月から2005年7月まで、長野県公安委員も務めました。これらの経験および寺澤有氏から拝見させていただいた本件仮処分命令申し立ての記録に基づき、以下、陳述させていただきます。
「松本サリン事件」で、私が犯人視された理由は、ひとえに警察と報道機関(とりわけ「記者クラブ」に加盟している通信社、新聞社、テレビ局)との「異常」ともいえる不適正な関係にあります。端的にいえば、警察が報道機関へ「河野義行が犯人だ」という情報を与えれば、そのまま記事となり、放送となり、流れてしまうのです。報道機関は、「警察のお墨つきが得られた」として、取材も甘くなり、情報が十分に検証されることもありません。そこには、刑事手続きの大原則である「推定無罪」などというものは働きません。
「お墨つき」は、末端の警察官よりも警察署の刑事課長、警察署の刑事課長よりも警察署長、警察署長よりも県警本部刑事部長、県警本部刑事部長よりも県警本部長、県警本部長よりも警察庁幹部(警察庁長官、同次長、同官房長、同刑事局長など)と強くなり、報道もより断定的になる傾向があります。
「松本サリン事件」では、警察庁から警察庁記者クラブ加盟社の記者へ与えられた情報が元となって、私を犯人視する報道がくり広げられました。この事実は、私も地元(長野県)報道関係者たちから確認しています。警察庁が「お墨つき」を与えたからこそ、あれだけの大誤報が1年近くも訂正されないまま、維持されたのだと思います。
一方、『週刊金曜日』は実売数万部の小メディアながら、はじめから「河野犯人説」はとらず、抑制がきいた報道を続けていました。報道機関が優秀であるか否かは、その規模が大きいか小さいかでは、決してはかることができません。
そうなると、国が「答弁書」で主張している以下の記載は実態と大きく異なっています。
《記者クラブとは、公的機関などを取材対象とする報道機関に所属し、その編集責任者の承認を得て派遣された記者によって構成される組織であり、公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする取材拠点として、機能的な取材、報道活動を可能にし、国民にニュースを的確迅速に伝えることを目的とするものであって、これまで我が国の報道の分野で一定の役割を果たしてきた(略)。特に、債務者記者クラブは、他省庁における記者クラブと異なり、人命にかかわる報道協定等を日常的に扱っていること、犯罪被害者の人権に配慮することが強く要請されること》
むしろ、寺澤氏が「陳述書」で主張している以下の記載が実態と合致しています。
《警察庁記者クラブは、警察庁から同庁内に無償で部屋をあてがわれ、独占的に使用しています。水道光熱費なども警察庁が支払っている、つまり、税金が上記15社のためだけに使われているということです。
警察庁は、警察庁記者クラブにとり、まさにスポンサーといえる存在で、上記15社が警察庁に不利な報道をすることはありえません。それどころか、広告代理店よろしく、警察庁の意向に沿った情報をたれ流し、PRしています。
このような関係は警察庁と警察庁記者クラブにとっては非常に有益ですが、国民全体の利益や健全なジャーナリズムの発展という点からすれば、大きなマイナスです》
私が新聞やテレビから犯人視された報道を続けられ、絶望的な気分になっていたとき、寺澤氏と同じようなフリーランスジャーナリストたちや舩川輝樹氏と同じような雑誌編集者たちが、独自取材により、「河野犯人説」を疑問視する記事を発表してくれ、とても勇気づけられました。当初からこういう人たちが、「公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする取材拠点」(上記・国の「答弁書」より)に存在していれば、つまり、警察庁幹部たちの記者会見やブリーフィング、懇談などの取材機会に出席し、質問していれば、私が長い期間、冤罪被害や報道被害に苦しむこともなかったと思います。その意味では、現在も「第2の河野」「第3の河野」が生み出される危険性は残っています。
「公的機関が保有する情報」へ「アクセス」できる者が限られているのは、情報操作がやりやすくなったり、そうした特権を持つ者がミスリードする(たとえ悪意や怠慢はないにしろ)可能性が高くなったりと、著しく公益が損なわれます。「知る権利」や「法の下の平等」を保障する日本国憲法もそのようなことは許していないはずです。
私が冤罪被害者、報道被害者として辛酸をなめたのも、警察庁が「便宜供与」などと称し、警察庁記者クラブ加盟社15社だけへ情報を提供している、「異常」ともいえる不適正な関係が存在しているからです。この点、裁判所には、特にご理解いただきたく思います。
「便宜供与」について、ひとこと申し上げます。
冒頭、記載したとおり、私は、2002年7月から2005年7月まで、長野県公安委員を務めていました。在職中、記者クラブ加盟社の記者もそうでない記者(フリーランスジャーナリストや雑誌編集者など)も分け隔てなく、取材に応じてきました。
2003年10月、服役者が「1980年3月、生坂ダムで水死体で見つかり、長野県警が自殺として処理していた男性は、自分が殺害した」と同県警に告白していたことがわかり、大問題となりました。これについて、私が中心となり、長野県公安委員会も調査しました。その期間中は報道機関の共同取材に加え、個別取材も積極的に受けるようにしていました。県民が注目している事件ですので、正確な報道をしていただきたいと願っていたからです。
私は長野県公安委員として、記者クラブ加盟社の記者もそうでない記者(フリーランスジャーナリストや雑誌編集者など)も分け隔てなく、取材に応じることや、共同取材も個別取材もなんとか時間を工面して応じることは、税金から報酬を得ている者の当然の義務だと認識していました。
ところが、国の「答弁書」や「準備書面」によれば、「漆間巌警察庁長官が、取材機会を提供するか否かについては、同長官の裁量に委ねられているのであり、その機会の付与は、便宜供与にすぎない」などとされており、警察庁記者クラブ幹事社3社の「答弁書」や「準備書面」も、おおむねその趣旨で作成されています。
私は、公人たる警察庁長官が取材に応じることが「便宜供与」であるとはとても思えません。それは明らかに「義務」です。国や警察庁記者クラブ幹事社3社の主張は、国民の「知る権利」を蔑ろにするものであり、寺澤氏が「陳述書」で批判しているとおりだと思います。国や警察庁記者クラブ幹事社3社の主張が通用するのであれば、「国民主権」も「民主主義」も絵に描いた餅です。
以上、私の体験とそれに基づく見解を陳述させていただきました。今後、寺澤氏および舩川氏が警察庁幹部たちの記者会見やブリーフィング、懇談などの取材機会に出席し、質問できるよう、仮処分命令を発していただけることを強く望みます。そうなれば、私が体験したような、警察庁記者クラブ加盟社15社すべてが、同一の誤報をくり返すなどという悲劇も、改善されていくことと信じます。
http://incidents.cocolog-nifty.com/the_incidents/2005/11/9br_7b8e.html
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