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風見章の本懐 『憲法は国民の命の代償』
日中戦争の拡大に歯止めをかけられず、日米開戦への道を許してしまった責任を痛感し、戦後は憲法の擁護と世界平和に身命を賭した気骨の政治家がいる。戦前、近衛内閣の書記官長、司法大臣を務めた風見章(かざみあきら)(1886−1961)。母校の早稲田大学で、波乱の一生をたどる企画展「野人政治家 風見章の生涯」が開かれている。
企画展は同大大学史資料センター主催で、春に開いた「最後の早慶戦」に続く「戦後60年展」第二弾。望月雅士研究調査員は「今はあまり語られなくなった風見の生涯にスポットライトを当て、政治家の責任の取り方という問題を提起したかった」と狙いを語る。
茨城県水海道町(現水海道市)の農家の二男として生を受けた風見。一九〇五年、早稲田大学高等予科に進学。ここでともに政界に進む終世の友を得た。中野正剛と緒方竹虎である。
政治経済学科卒業後、新聞社の社外寄稿家、株屋の支店長、雑誌編集者、通信社員などを転々とした経験が社会への眼力を養ったとされる。二三年一月、桐生悠々らが硬骨な論陣を張った信濃毎日新聞に招かれ、主筆として健筆を振るう一方、農民との対話で農村の実情にも理解を深めた。
中野の勧めで政界入りを決意し、茨城三区から立候補。二度目の挑戦となった三〇年の第二回普通選挙で立憲民政党からトップ当選した。
翌三一年に満州事変が勃発(ぼっぱつ)。政治情勢が混迷を深めた三七年六月、政界のプリンス近衛文麿が首相に就き国民を熱狂させた。近衛が内閣の要の書記官長(現在の官房長官より重みのあるポストだが閣僚ではない)に抜擢したのが、インテリ層の人気も高かった風見だ。
長男の風見博太郎さん(89)=東京都港区在住=が書記官長就任のいきさつを明かす。
「組閣本部に呼ばれた父は、近衛さんに政治状況について意見を聞かれたそうです」。風見は(1)総理大臣は衆院選に出て国民の支持を得てからなるべきもので、華族や軍人がなるのは本来間違い(2)軍隊の統帥権が天皇にあるしくみを改め、総理大臣に与える−と力説、「そうすれば軍部を抑え戦争も食い止められる」との熱弁に近衛も賛同し、その場で書記官長就任を要請したという。
内閣発足の翌月、盧溝橋事件が勃発して日中戦争に突入。風見は終戦への道筋を検討させるため尾崎秀実を内閣嘱託に起用。杉山元・陸相らの更迭にも踏み切ったが、戦線拡大を止められず、三九年一月、内閣は総辞職に追い込まれる。
四〇年五月、国民を基盤とした新たな政治勢力の結集が軍部を抑え込む−こう考えた風見は「新体制運動」と称して近衛側近の有馬頼寧らと新党結成を企てる。同七月発足の第二次近衛内閣で風見は司法相に就任。しかし、新体制運動は軍部などの工作もあり大政翼賛会結成に行き着き、失意のうちに司法相を辞任した。
尾崎がゾルゲ事件のスパイ容疑で逮捕されて二カ月後、太平洋戦争に突入。風見は博太郎さんに「この戦争は必ず負ける。五年保(も)つか、いや二年かもしれない。早く講和に動かないと多くの犠牲者が出てしまう」と話したという。
四二年四月、東条内閣の翼賛選挙に出馬せず市井人に戻った。終戦時は「すべての戦争責任は軍部ではなく、軍部を抑えられなかった政治家にある」と博太郎さんに語り、国民から“国賊”として訴えられることを覚悟していたという。
公職追放処分が解けた後の五二年十月、戦争責任への痛切な思いから「平和憲法の擁護と日中・日ソ国交回復」を掲げて総選挙に無所属で立候補し当選。
五四年、片山哲らと結成した憲法擁護国民連合の代表委員に就任。五五年一月、左派社会党に入党、同十月の左右社会党統一に伴って党顧問に。日中国交回復運動にも精力的に取り組んだが、志半ばの六一年十二月、七十五年の生涯を閉じた。
望月研究調査員は「風見は、戦争で命を落とした多くの国民の血の代償として今の憲法があると考えた。改憲の動きが加速している今こそ、風見を通して戦争と憲法の問題を原点に戻って真剣に考える必要があるのではないか」と話している。
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企画展は早稲田大学西早稲田キャンパス2号館一階(新宿区西早稲田1の6の1)で十九日まで。入場無料。開館時間は午前十時−午後五時(六日は午後四時、土曜は午後二時)。三日、十三日休館。日記、手帳、原稿、第一次近衛内閣当時の写真など約三百点を展示。電03(5286)1814
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20051102/mng_____thatu___000.shtml
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