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[民主主義の危機]「共謀罪」と「自民党・憲法改正案」に通底するもの
今、日本政府は「共謀罪法案」(犯罪の国際化並びに組織化等に対処するための“刑法等の一部を改正する”法律案)の成立を執拗に目論んでいますが、「刑法」の根本原則には「罪刑法定主義」ということがあります。この原則のルーツはイギリスの「封建貴族の代表たちが暴政に突っ走るジョン王へ要求した特許状であるマグナカルタ」(1215)あるいは「ネーデルラントの市民代表の大商人たちがブルゴーニュの女伯爵マリーへ要求した大特権」/1477、参照http://blog.goo.ne.jp/remb/e/1f08a732a7b8c113c523d984d904a5b3)まで遡ります。
つまり、現代の市民社会に生きる我われが、恰も空気や太陽の如く、ごく当然のことと思っている『主権、自由、平等』など民主主義の基本を構成する概念が初めて芽生えたのは、このように約500〜800年も歴史を遡ることになるのです。当然のことながら、この時代に『主権』を意識したのは一般庶民層ではなく、封建諸侯、大商人などの特権階級に属する人々です。しかし、この時に被支配者層の立場にある人々がおぼろげながらも『主権』についての自覚を初めて持ったという意味は重要です。この時に芽生えた『被支配者層としての主権意識』は、やがて度重なる市民革命と血みどろの市民戦争が繰り返され、一般庶民層の人々が数多の悲惨な犠牲を積み重ねる長い歴史のプロセスを経て、漸く『主権、自由、平等』など民主主義の基本概念が当たり前のことと共通認識されるようになり、今のような『暴政を排除するガバナンスの仕組みをビルト・インした民主主義国家』の時代を迎えたのです。このことを現代の日本人はスッカリ忘れつつあるようです。
このような長い歴史過程に 淵源がある「罪刑法定主義」の根本には二つの基本的な原則(下記●)が仮設されています。
●三権分立の原則(法律主義の要請)
・・・これは、どのような行為が犯罪を構成するかは国会が決めるという原則である。言い換えれば行政府(内閣)と裁判所には、その権限がないとすることである。具体的に見ると二つの側面があり、その一つは行政府に対する「罰則の一般的委任の禁止」(行政府が勝手に罰則を決めることの禁止)で、もう一つは裁判所に対する「類推解釈の禁止」である。
●自由主義の思想(事後法の禁止の要請)
・・・どのような行為が犯罪と見做されるかが事前に決められていないと処罰の予測可能性が奪われ、主権者たる一般国民の行動の自由が侵害される。従って、事後法を禁止するという要請が出現することになる。
このような意味での「罪刑法定主義」が否定または無視されると、その民主主義社会の基盤は弱体化して、民主主義の機能そのものが崩壊する恐れが出てきます。例えば第二次世界大戦前のナチス・ドイツにおける「ナチス刑法」(公布1935、制定1933、ワイマール共和国の存続は1919〜1933)では根本的に「罪刑法定主義」が否定され、太平洋戦争前の軍事体制下の日本では「行政府に対する広範な罰則規定の委任」が認められていました。
ブログ「J憲法&少年A」(http://pdo.cocolog-nifty.com/happy/2005/10/post_c33f.html)様の記事で知ったことですが、「共謀罪」に関する法務委員会での遣り取り(http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.cfm)の中で法務省刑事局長が述べた言葉(<注>「共謀罪」関連法案が対象とする「共同の目的をもった団体」とは「目的自体が必ずしも違法・不当なものであることを要しないのであり、たとえば、会社が対外的な営利活動により利益を得るこきなども『共同の目的』にあたりうる」という自分自身の発言に対する質問に答えた場面/下記▲)には驚かされます。これでは「共謀罪」の解釈は“イロイロで何でもありだヨ!”という風に聞こえてしまいます。これが、現代の民主主義国家における法律専門家(法務省刑事局長)の言葉であることが信じられません。それは無責任・無定見を絵に描いたような小泉首相の『人生イロイロ』発言と殆んど同じノリではないでしょうか? 今や、日本のエリート法務官僚たちの全身にもシッカリと『小泉劇場の毒』が回ってしまったようです。
▲『時代も変わり、判例も変わるので、(共謀罪についての)解説も変わります』
このように刑法の「罪刑法定主義」の原則を忘れたような空気が、司法の中枢を担うエリート官僚たちの周辺に漂い始めたことは実に恐るべきことです。それは、上で歴史的な要素を概観したことからも分かりますが、このことは日本が再びファッショ政治体制の前夜に足を踏み入れた可能性を窺わせるからです。
一方、10/28に結党50年にタイミングを合わせて発表された「自民党の新憲法草案」も、司法官僚たちが刑法の「罪刑法定主義」の原則を無視しようとするのと似たような意味での「根本的誤謬」を平然と国民へ発表したことに驚いています。この憲法草案の問題はいろいろありますが、その誤謬が潜伏すると思われる急所を抉り出すと次のような点(★)が浮上します。
★自衛軍の保持(日米合同軍事作戦体制の整備?)
・・・自衛<隊>と自衛<軍>はどう違うのかが分からない。<軍>の方が<隊>より偉いのだろうか、それとも主体的な戦争がし易くなるのか? そんなことより、日本の先進的な平和主義の原則を堂々と世界へアピールし続けるべきである。
★「政教分離の原則」の緩和(むしろ「政教分離の原則」の無視?/小泉首相の靖国神社参拝の正当化、軍事国体論復活への地均し、神聖政治の始まり?)
<注>「日本の平和主義の先進性」と「軍事国体論」については下記ブログ記事を参照。
『「軍事的国体論」を超える日本国憲法の先進性』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050419
★国民の責務の強制(国民総動員体制の準備?/共謀罪関連法案とのリンクを想定?)
★公共の福祉・秩序(公共と公益の混同? 安易な人権制限の危険性 、財政再建名目の地獄的増税の地均し?)
★住民投票の削除(地方自治の軽視? 国民主権への制限の意図?)
・・・第95条(国民投票の住民投票)が削除されている。地方重視は建て前で、内実は中央集権強化か? ここにはヤヌス的・ペテン師的な現政権(小泉・与党体制)の、精神病理学的に見て異常と思われる二重人格の本性が現れている。
★改憲手続きの緩和(賛成2/3→1/2へ緩和)
・・・硬性憲法、授権規範性という現憲法の重要な性質を安易に放棄してしまう懸念がある。そうなれば更なる「暴政」への歯止めが利かなくなる。民意やメディアが更に堕落すれば、倫理崩壊を伴った本物の衆愚政治(ソドムとゴモラの世界のような?)へ突入する懸念がある。
結局、これらの論点で絶対に外すべきでないのは国家ガバナンスの最大の課題は「人間の欲望の制御」だということです。人間の社会(政治・経済など凡ゆる社会活動)が「人間の欲望」で動いてい現実を無視してはならないということです。そして、「共謀罪」と「自民党・憲法改正案」に通底するのは、これらの「案」を準備する立場の人々(政治権力者、エリート高級官僚、御用学者たち)が自らの欲望を最大限にして、一般国民の欲望を最小限に制御しようとする意志が強く作用していることです。当然ながら「人間の欲望」を最大限に発揮できる立場に立つのが政治権力者(及びそれを支える官僚体制に属する人々)です。従って、国家の最高法規である憲法の「授権規範性」を甘く見ることの恐ろしさを我われ主権者たる一般国民は片時も忘れてはならない筈です。
たまたま今日、ブログ記事『三たび断念された「共謀罪」の深層にあるものは何か』(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20051027)へコメントいただいた「無用の人」さま(在、スイス)からの情報によると、日独におけるインテリ層の政治意識の差は非常に大きいようです。そして、「無用の人」さまは、このような差が生まれる原因の一つは日本の教育がマルバツ式に偏重してきたことがあるだろうと述べており、筆者もこの点は大いに納得するところです。ドイツのインテリ層の人々は、徹底的に自分の意見を形成し、発表するという鍛錬を受けているそうです。一方、日本のエリートたちはたとえ東大卒であっても基本的には「暗記力とマルバツ試験の達人」です。だから、彼らは大学を卒業した暁には『人生イロイロ』の人になってしまうのです。従って、日本の「国家ガバナンスの方向もイロイロ」ということになってしまいます。まことに恐ろしいことです。
(参考URL)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/
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