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戦後60年における国際情勢認識への視点(浅井基文のホームページ)
http://www.asyura2.com/0510/senkyo16/msg/1266.html
投稿者 gataro 日時 2005 年 11 月 23 日 17:18:32: KbIx4LOvH6Ccw
 

浅井基文のホームページ 21世紀の日本と国際社会 コラム
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/file125.htm から転載。

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*この文章は、歴史教育者協議会(歴教協)の年報用の原稿として書いたものです。日頃考えてきたことについて頭を整理することができたように思います(2005年11月20日記)。

1.国際情勢認識をめぐる状況

(1)国際情勢認識における混迷・空白

 第二次世界大戦が終了して60年を迎えた今日、日本国内に限らず、広く国際的にも、国際情勢をどう認識するかというもっとも基本的な問題において深刻な混迷(というよりも空白)が続いている。この混迷あるいは空白の直接かつ最大の原因は、戦後の国際情勢認識のあり方を圧倒的に支配してきた米ソ冷戦構造があっけなく崩壊したことに対して、私たちが柔軟な思考力を取り戻すことができないでいることにあると思われる。

 情勢の変化に対応して新しい認識のあり方を先取りしようという試みがなかったわけではない。早くも1980年代後半には、中国のケ小平は、明らかに米ソ関係に起こりつつあった変質への動き、国際関係における相互依存の深まり等をふまえ、「新国際政治経済秩序」構想を唱えた(1988年12月21日「平和共存5原則を基礎として国際新秩序を建設しよう」)。アメリカのブッシュ大統領(当時)は、湾岸戦争に際して、アメリカ主導による「新世界秩序」構想を口にした(1991年)。

しかし、中国、アメリカともに国内問題に関心が集中する中で、それぞれの秩序構想を裏打ちする、国際的に説得力のある国際情勢認識を積極的に展開することはなかった。国内あるいは地域の問題に関心が奪われるという点では、今や弱体化したロシアを含め、欧州諸国も同様だった。米ソ冷戦時代には独自の国際情勢認識に基づいて存在感を示した第三世界、非同盟諸国も、今日の新しい情勢に即した説得力ある認識を提示し得ていない。国連は、冷戦終結によってその存在理由に国際的な期待が寄せられたが、ソマリア内戦において事態対処能力の欠如を露呈し、その後も当事者能力を回復し得ないまま今日に至っている。湾岸戦争をはじめとする地域紛争や内戦が頻発したのが1990年代の一つの特徴であり、国際社会全体としては、それらへの小手先的対応に追われて、国際情勢認識を深める余裕もないままに21世紀を迎えた、と言わなければならない。

21世紀を迎えた国際社会は、アメリカのブッシュ政権の登場によってさらに混乱の度を加えることになった。国際的視野をまったく備えないままに政権についたブッシュ大統領は、露骨に一国中心主義(ユニラテラリズム)を推進し、国際ルールすら公然と無視する政策を追求する姿勢を明確にして、国際社会を攪乱した。特に9.11事件の勃発後は、対アフガニスタン戦争、続いて先制攻撃による対イラク戦争を発動し、「対テロ戦争」を軸に据える傍若無人かつ力任せの対外政策を推し進めてきた。その結果、国連憲章という形で法的基礎(独立国家の主権尊重、主権国家の対等平等と内政不干渉、先制攻撃戦争を含むすべての戦争禁止、国際紛争の平和的解決)を獲得した戦後国際秩序そのものが根底を揺るがされる事態を招いている。

21世紀を迎えた国際社会は、このようなブッシュ政権の専横的行動に振り回され、国際情勢をどう認識するかという人類的課題に思いをめぐらす余裕はますます失われている。確かに欧米諸国は、戦後60年である2005年を特別の時として認識し、それなりの行事を行った。しかし、この機会を捉えて将来に対する展望を視野に納めた国際情勢認識に向けた取り組みを行う機運は生まれていない。

東アジアは、国によってばらつきはあるが、1945年当時と比較するとき、過去数十年の間における高度経済成長を背景に、飛躍的に国際的比重を増している。しかし、東アジアがまとまって国際情勢認識のあり方について主導権を発揮するだけの主体的条件は生まれていない。ちなみに、その主体的条件を生み出すことを妨げている大きな一因は、日本が戦後60年間一貫して東アジア諸国に対する侵略戦争及び植民地支配の責任を認めようとせず、東アジアとしての一体感を涵養することを妨げていることにあることを、日本に住む私たちはしっかり確認しておかなければならない。2001年に政権についた小泉首相が2005年に至るまで毎年靖国神社を参拝していることの持つ深刻な意味合いは、このような脈絡において捉える必要があることも付け加えておきたい。

(2)正確な情勢認識を妨げる新自由主義

 国際情勢認識の混迷、空白を招いている今ひとつの重要な原因は、いわゆる新自由主義の自己主張及びその政策的表れとしてのグローバリゼーションの無軌道な進行にある。1980年代に、レーガン(アメリカ)、サッチャー(イギリス)、中曽根(日本)各政権の下でなかば公認の学説とされた新自由主義は、国による経済・国民生活への関わりを必要最小限度に押さえ込み、国の内外を問わず、経済主体による自由競争と市場原理を重視する主張を展開した。この主張が強烈に自己主張することによって、いわゆるグローバリゼーションの波が国際経済を直撃することになった。

古典的自由主義と新自由主義とを隔てる最大のポイントは、市場原理の下で自由競争を行う経済主体の違いにある。古典的自由主義の時代にあっては、経済主体は勃興期の産業資本であった。彼らにとって自由主義の主張は、絶対的国家権力の支配に対して資本主義の自立を確立するための理論的根拠であった。これに対して新自由主義の主張は、経済主体としての多国籍企業や国際金融資本が国際経済さらには各国国民経済に対する支配を強めることを正当化することに本質がある。

新自由主義の主張がアメリカ発であることも当然であった。世界最大の資本主義国家であるアメリカは、他国を圧倒する多国籍企業と国際金融資本を擁し、レーガノミックスに代表されるとおり、国家をあげて新自由主義の積極的推進者だったからである。そこでは、古典的自由主義の時代におけるような国家と資本の間の鋭い対立関係はなく、むしろ逆に、多国籍企業と国際金融資本の国際経済支配力を強めることがアメリカの国益に合致するという認識が顕著である。

アメリカのプリズムを通してしか国際情勢を見られなくさせられている日本国内では、アメリカ発のグローバリゼーションをあたかも歴史的に不可逆な、所与の条件として受け止める傾向が強い。特にレーガン政権との関係を重視した中曽根政権と、ブッシュ政権との緊密な関係を誇示する小泉政権は、そういう認識を国民の間に浸透させる政策を推し進めてきた。グローバリゼーションの波に乗ることで生き残る戦略を選択した日本の独占資本も、積極的にこの路線に呼応し、推進している。特に小泉政権が進める「官から民へ」のスローガンに代表される「改革」路線が、新自由主義に貫かれていることは周知の事実である。

グローバリゼーションを所与のものとして受けとめてしまうとき、グローバリゼーションが生み出すさまざまな事象が無批判に受け入れられてしまうということになる。そして、そのことが国際情勢認識のあり方そのものにも重大な影響を及ぼす結果になっている。

しかし、以上の新自由主義の本質をふまえるのであれば、グローバリゼーションはアメリカが仕掛けた新自由主義に基づく国際経済政策の所産であって、それが国際関係において生み出す結果を私たちが批判的に分析し、位置づけるべき対象であることを忘れてはならないことが理解されるはずである。そういう視点を我がものにすれば、直ちに新自由主義そのものに内在する問題点、あるいはその政策的所産としてのグローバリゼーションが国際関係に押し付けているさまざまな重大な問題点を指摘することが可能となる。したがって以下においては、国際情勢認識についての視点及び国際関係の展望を示す前に、新自由主義及びグローバリゼーションに関わる主要な問題点を整理しておきたい。

新自由主義に内在する最大の問題は、市場原理の自己主張が国際関係を成り立たせる基本原則と根本的に両立しない点にある。その基本原則とは、改めて言うまでもなく、国連憲章において確立された独立国家の主権尊重、国家間の対等平等性の承認及び内政不干渉である。

もちろん経済学説としての新自由主義自体が国際関係の基本原則に直接挑戦するということではない。また、新自由主義を推し進めるアメリカも、これらの基本原則に正面から異議申し立てを行うことはしようとしない。この点で、アメリカのアプローチは極めて現実的である。グローバリゼーションの要請にとって支障となるときは国際関係の基本原則を無視することをためらわないが、アメリカにとって無用な負担から免れる上で、主権国家からなる国際社会(ただし、アメリカにおいては「社会」(society)というとらえ方はなされず、「共同体」(community)あるいは「システム」(system)という用語が用いられる。これにはアメリカ的な国際観の反映があるのだが、ここでは立ち入らない)という枠組み自体は崩さない方が得策と判断している。しかし、このアメリカのアプローチの下で現実に起こっている事態は、超大国・アメリカが市場原理・自由競争を国際規模で貫徹するグローバリゼーションの政策を推し進めることによって、それ以外の国々が主権国家として存立するための経済的基盤を浸食し、国家間の対等平等性を形骸化し、市場開放を錦の御旗にした公然とした内政干渉をまかり通らせていることである。

極めて遺憾なことは、国際関係のあり方の根本に係わる以上の問題に対して、新自由主義に批判的な立場から当然あってしかるべき議論の提起はおろか、正面からの批判すらまともに行われるに至っていないことである。しかし、国際情勢認識について確固とした視点、展望を示す上で、私たちは、この問題を直視し、批判しきることから始めなければならない。

グローバリゼーションはまた、国際関係及び各国の国内にさまざまな攪乱要因を持ち込んでいる。その最たるものは途上国における貧困問題(南北問題の深刻化)と各国内部における弱者切り捨て問題である。グローバリゼーション、すなわち市場原理に基づく自由競争が自己主張すること、を無条件に肯定してしまえば、国際的規模及び各国国内において経済的社会的弱者を放置することは当然あるいはやむを得ない、という結論が導かれることは必然である。そこにグローバリゼーションの根本的問題がある。

途上国における貧困問題は、さまざまな問題の温床として働く。9.11事件に代表される国際テロ事件の背景に貧困問題の存在があることについて、今や多くの識者の認識は一致している。貧困はまた、頻発する地域紛争や内戦と深く関わっている。貧困が支配する国々においては、人々の生存のための最低条件すら満たし得ないために、平均寿命は押し下げられ、人間としての尊厳そのものが否定される深刻な事態が進行している。

各国内部における弱者切り捨て問題については、例えば今日の日本の実情が余すところなくその実相を示している。小泉「改革」の本丸と位置づけられた郵政民営化は、アメリカの強い対日要求の下に進められた日本の金融市場の自由化の一環であるが、その帰結の一つとして、市場原理に基づく過疎地、遠隔地、僻地に対するサービス切り捨てが進み、これらの地域(圧倒的に高齢化が進んでいる)に住む人々を切り捨てる結果になることが確実視されている。障害者「自立支援」法における「応益負担」原則の導入、医療における患者の自己負担の増大、サラリーマンに対する所得税における各種基礎控除の廃止、消費税税率の大幅アップ、新農業政策における零細農家の切り捨て等々、弱者切り捨て政策のすべてが、グローバリゼーションの名の下で正当化されるという点において共通している。こうした動きは、日本社会の安定を揺るがす深刻なマグマとなっていくに違いない。重大かつ深刻な事実は、新自由主義・グローバリゼーションを受け入れた、あるいは受け入れを余儀なくされた国々においては、日本と同様な事態が進行しており、途上国だけでなく、国際社会全体としての不安定要因が確実に蓄積されつつあるということである。

これらの問題を放置することは、到底許されることではない。今私たちに強く求められるのは、新自由主義・グローバリゼーションを克服するに足る、21世紀に相応しい国際情勢認識を提示し、その情勢認識に基づいて、国際関係のあり方に関する包括的な展望を示すことである。

2.国際情勢認識の視点と国際関係の展望

(1)国際情勢認識を構成する基本要素

 21世紀を展望する上での基礎となる国際情勢認識はどうあるべきか。この問題を考える上での視点として、私たちはまず、21世紀における国際関係を成り立たせる基本的要素を整理することから始めなければならない。以下においては、20世紀までの人類史における到達点という基準に則して、人間の尊厳・基本的人権、主権国家、相互依存、戦争禁止・核兵器違法化を、また、人類及び人類社会の存続との密接な関わりという基準に則して、地球環境及び「豊かさ」を取り上げる。

(イ)人間の尊厳・基本的人権

 人間には、人間として生まれたことによって備わる固有の尊厳があり、その尊厳は他人あるいはいかなる権力によっても犯されてはならないことは、今や普遍的に承認される、人類の歴史におけるもっとも貴重な獲得物である。人間の尊厳を承認し、これを法的に確保するものが基本的人権である。人間の尊厳及び基本的人権は、今や普遍的価値として揺るぎない地位を占めるに至っている。

ちなみに日本国憲法は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(第97条)と定めている。これは正に、以上のことを確認したものと位置づけることができる。

 人間の尊厳が承認され、基本的人権が確立したのは、実は第二次世界大戦を経て、国連憲章において「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認」(前文)して以来のことであり、人類の歴史においてごく最近のことに属する。国連憲章はさらに、「経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること」(第1条3)を国連の目的として掲げる。また、「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の平和的且つ友好的関係に必要な安定及び福祉の条件を創造するために、国際連合は、次のことを促進しなければならない」として、「一層高い生活水準、完全雇用並びに経済的及び社会的の進歩及び発展の条件」、「経済的、社会的及び保健的国際問題と関係国際問題の解決並びに文化的及び教育的国際協力」、「人種、性、言語又は宗教による差別のないすべての者のための人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守」を列記している(第55条)。

 国際社会は、国連憲章のこれらの規定を基礎に、世界人権宣言、国際人権規約をはじめとする数々の重要な規範を生み出してきた。また、世界各地においても、地域的な人権条約が制定されるなど、国際人道法の発展にはめざましいものがある。また、ニュルンベルグ裁判、極東裁判が戦争指導者個人に対する法的責任を追及したこと(両裁判に関しては、勝者による敗者に対する裁判としての問題点があるが、ここでは立ち入らない)は、その後ジェノサイドのような大規模な人権侵害を犯罪として捉え、犯罪者の個人的責任を国際的に追及する道を開くことにつながってきた。

 国際人道法の発展は、各国国内の人権に関わる諸問題への対応のあり方にも影響を与えずにはおかない。まず、各国の憲法においても、今や基本的人権の規定を設けることが当然視され、基本的人権に関わる規定の不備は厳しい国際的批判にさらされる。また、ナチ・ドイツによるホロコースト、日本軍国主義によるいわゆる従軍慰安婦などの戦争犯罪についても、ドイツが誠意をもって対応することに対しては国際的評価が与えられ、逆に日本のように問題を直視しない姿勢は厳しい国際的批判の対象になる。各国においては、過去の国家権力による人権侵害に対して謝罪し、補償するケースが増えている。

 人間の尊厳及び基本的人権を普遍的価値として承認し、これに矛盾するいかなる主張・行動も認めないことは、21世紀及びそれ以後の国際社会及び各国のあり方の根底に座る基本原理である。したがって、確かな国際情勢認識を確立する上では、この基本原理を基礎として据えなければならない。そのことを承認する限り、例えば、この原理と真っ向から衝突せずにはすまない新自由主義・グローバリゼーションを放置することは許されない、という結論が導かれる。

(ロ)主権国家

 国際社会が文字どおり主権国家を主要な構成員として成り立つ「国際」社会であるという性格は、少なくとも21世紀を通じて基本的に変化はない、という認識を持つ必要がある。国連憲章は、「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認」(前文)しており、「大小各国の同権」は国際社会の拠ってたつ基本原則である。国連憲章はさらに、「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」(第1条2)を国連の目的として掲げている。また国連は、その存在について「すべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている」(第2条1)として、国連が国家の上に立つ存在ではなく、加盟国の合意に基づく存在であることを明確にしている。

日本国内では、国家の存在理由に対して消極的ないし懐疑的な見方が根強く存在する。しかし、このような見方は、国際的には圧倒的に少数である。一国主義に走るアメリカは、もっとも国家にこだわる存在である。欧州連合(EU)については、その内部では伝統的な国家主権が揺らいでいることは確かだが、EUそのものは究極的にはいわば欧州合衆国を目指す動きであり、決して国家の概念を否定するものではない。ましてや多くの途上国においては、主権国家としての自立性を求める動きが主流である。

 もちろん、人間の尊厳及び基本的人権を最高の基本原理とする21世紀の国際社会においては、国家と個人との関係が根本的に見直されていくであろうことは確実に予見される。21世紀においては、「個人を国家の上に置く」国家観が「国家を個人の上に置く」国家観に取って代わる流れが加速するに違いない。

既に欧州においては、1998年に発効した条約(議定書)に基づき欧州人権裁判所が機能している。個人は、所属する国家の政府の同意なしに直接裁判所に訴えることができ、かつ、裁判所の判決はその国家に対して拘束力を持つ。日本の裁判所でも、日本の侵略戦争による被害者が損害賠償を求めて提訴する事例が増えている。これに対して裁判所はこれまで、伝統的な国家無答責の法理に依拠してこれらの訴えを退けてきた(その背景には、戦争責任を認めることを肯んじない日本政府の頑なな姿勢が働いている)。しかし、国際人道法の発展を背景に、日本の現状に対しては国際的批判が高まっている。(ちなみに、日本国内で進行している新国家主義に基づく憲法「改正」の動きは、このような国際社会の潮流に逆行するもので、異常を極める)。

なお、国際社会においては、その構成員として国連をはじめとするさまざまな国際機関、非政府機関(NGO)、さらには限られたケースではあるが個人が登場している。21世紀においては、これら非国家主体が国際社会に占める比重が増すことはあっても低下することは考えられない。しかし、これらの非国家主体が全面的に国家に代わる国際社会の主要な構成員となる展望はない。

したがって、確かな国際情勢認識は、「個人を国家の上に置く」国家観によって性格を規定される主権国家からなる国際関係という枠組みを、不可欠の内容として含む必要がある。

(ハ)相互依存

 交通・運輸・通信の発展を背景に、国際関係における相互依存は確実かつ不可逆的に進展してきた。特に20世紀後半におけるコンピューターを媒体とする国境を越えた情報の流れの飛躍的拡大は、21世紀においてもさらに進展し、国際的な相互依存の傾向はますます加速することが確実に予見される。一国及びその国民が自給自足・鎖国に甘んじる基礎条件はもはや失われた。

それよりも基本的に重要なことは、相互依存の深まりが人類全体の意味ある存続にとって不可欠の条件となってきたし、21世紀においても、ますますその重要性を増すことが確実視されることである。ことはひとり経済の分野だけに留まらない。政治、文化、環境その他あらゆる分野においてそうである。

 私たちが明確に認識しておくべきことは、相互依存といわゆるグローバリゼーションとを混同しないことである。相互依存は、先にも述べたように、交通・運輸・通信・情報の発展によって可能となった人類史における貴重な成果である。そのことは、人間の尊厳・基本的人権という基本原理となんら矛盾するものではない。また、主権国家及び国家を基本的構成員とする国際社会のあり方ともなんら矛盾しない。

 これに対してグローバリゼーションは、既に詳しく述べたように、新自由主義の主張に基づくアメリカ発の国際経済政策の所産である。市場原理に立脚するグローバリゼーションの無軌道な進行を許すことは、人間の尊厳・基本的人権を踏みにじり、主権国家及び主権国家を基本的構成員とする国際社会のあり方に深刻な攪乱要因を持ち込むものである。

 したがって、確かな国際情勢認識においては、グローバリゼーションではなく、相互依存を不可欠の要素として位置づける視点を確立する必要がある。

(ニ)戦争禁止・核兵器違法化

 国連憲章は、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」(第2条4)と定めることにより、戦争を含めあらゆる武力行使・威嚇をも禁止した。それは、「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救」う(前文)ことを目的とし、戦争の歴史に終止符を打とうとする人類史における貴重な成果と位置づけることができる。

 しかし国連憲章は、アメリカの強い影響力の下で作成されたこともあり、その戦争観にもアメリカの強い意思が反映された。すなわち、国際の平和を破壊する行為に対して安全保障理事会が集団的措置としての軍事行動をとることが予定されている(第7章)し、一定の条件の下で個別的及び集団的自衛権を行使することも認めている(第51条)。集団的自衛権は、日米安保体制をはじめとする軍事同盟の正当化の根拠として利用されてきたし、日本で進んでいる「戦争する国」になるための憲法「改正」の目的として位置づけられていることは秘密でもなんでもない。

しかも、国連自身による集団的措置に関する規定は、国連の能力の限界(というよりも、アメリカを中心に、集団的措置に関する規定を実効あるものとするために必要な権限や人的財政的裏付けを国連に与える意思がなかったこと)により、ほぼ空文化している。現実に進行しているのは、湾岸戦争以来、集団的自衛権の行使を集団的措置の代替手段として安保理が承認するという極めて問題のある事態である。また、近年においては、人道的介入としての武力行使を安易に容認する傾向が生まれていることも見逃すことはできない。アメリカが安保理決議を経ないままイラク戦争という国際法違反の戦争を強行したことは、国連憲章の権威を根底から揺るがす深刻な事態である。

こうして、国連憲章が定めた戦争禁止の原則は大きな試練に直面している。21世紀の国際社会は、厳しい現実として今後も起こることが避けられない国際問題・紛争に対して、いかなる回答を用意することが求められるのか。具体的には、国連憲章(第7章)の便宜的な解釈・運用によって正解が得られるのか。戦争観、平和観の根本に係わらせて、私たちはこの問題を直視し、答えを用意する必要がある。その答えの内容如何によって21世紀の国際関係は左右され、私たちの国際情勢認識のあり方も左右されることになる。

20世紀はまた、人類を滅亡に追いやる恐るべき核兵器が出現した世紀であった。しかし国連憲章は、広島・長崎に対する原爆投下の前に作成された文書としての歴史的制約を内在しており、核兵器及びその使用の違法性について判断する直接の手がかりを与えていない。したがって、この問題を考える上では、核兵器の本質及びその使用がもたらす破壊力に即して考える必要がある。

核兵器は、その大量無差別殺戮能力及び放射能という残虐性において、その使用はもちろん、存在自体が反人道性を疑う余地のないものである。国際司法裁判所の勧告的意見(1996年)も、「核兵器の独自の特性、とりわけその破壊力、筆舌に尽しがたい人間の苦しみを引き起こす能力、そして将来の世代にまで被害を及ぼす力」を確認した。そして勧告的意見は、「核兵器の威嚇または使用は、武力紛争に適用される国際法の諸規則、とくに人道法の原則及び規則に一般的には違反するだろう」と結論づけた。しかしながら勧告的意見は、「国際法の現状及び裁判所に利用可能な事実の諸要素を勘案して、核兵器の威嚇または使用が、国家の存亡そのもののかかった自衛の極端な事情の下で、合法であるか違法であるかについて、確定的に結論を下すことができない」とも付け加えた。勧告的意見の内容は、核兵器に関する20世紀国際社会の到達点と限界を端的に示している。

テロリストなどの非国家主体による核兵器の使用の危険性にどう対処するかを含め、21世紀の国際社会が核兵器の違法化さらには廃絶を実現できるか否かは、人類の将来を展望する上での一つのカギである。人間の尊厳・基本的人権という基本原理を貫徹することによって、核兵器を全面的に違法化し、廃絶するための道筋をつけるという人類的課題に答えを出すことができるか否かによって、国際情勢認識のあり方も大きく左右されることになる。

(ホ)地球環境及び「豊かさ」

 20世紀までの国際社会においては、経済成長及び国民所得の向上を追求することがほぼ無条件に肯定され、「豊かさ」を短絡的に物質的充足として捉える傾向が続いてきた。その点では、先にも見たように、国連憲章も例外ではない。しかし、このような傾向が続くことに対しては、地球環境という客観的制約条件があることが次第に明らかになってきた。特に物質的「豊かさ」追求の結果以外の何ものでもない地球温暖化の進行は、一刻も早く歯止めをかけなければ、人類の意味ある存続そのものを脅かす要因となることがようやく認識されるようになった。

 しかし、地球環境を保全することが待ったなしの緊急課題であるという認識は、主に二つの要因によって国際的に共有されることを妨げられている。一つは、ここでも新自由主義の市場原理の自己主張及びそれを自らの国策として追求するアメリカの一国主義がある。この問題は、「気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書」(いわゆる京都議定書)に対するアメリカの消極を極める対応で極めて明らかである。京都議定書は、1997年12月に京都で開催された国際会議で採択され、2005年2月に発効した。しかしアメリカは、議定書に途上国が参加していないこと及びアメリカ経済への悪影響が懸念されることを理由に批准していない。

地球環境を保全することを国際社会共通の緊急課題と認識することを妨げる今ひとつの要因は、途上国の貧困問題を解決する要請である。地球温暖化は、先進国の経済発展戦略・物質的「豊かさ」追求の結果として引き起こされた。そして地球温暖化が現実問題となる段階において、途上国が自国の貧困問題を解決するべく、先進国が採用してきた経済成長戦略に倣った戦略を採用することによって、温暖化が加速的に進行するという深刻な事態を生んでいる。

アメリカの問題に対する解答は明確である。つまり、アメリカをして新自由主義、一国主義を改めさせることである。しかし、途上国問題については非常に難しい課題に直面する。地球環境の保全を理由にして途上国に貧困に甘んじることを要求するのは、明らかに先進国のエゴイズムである。途上国の人々が貧困を脱する方向を目指すことは、人間の尊厳・基本的人権という基本原理に則して当然認めるべきである。しかし、先進国が採用してきた経済発展戦略・物質的「豊かさ」追求をそのまま途上国が採用することを黙認するならば、地球環境の悪化は避けられない。

ここでは、私たちがこれまで当然と見なしてきた物質的「豊かさ」に対する根本的見直しが迫られていることを認識しないわけにはいかない。地球環境の保全と両立する人間にとっての「豊かさ」とは何かを考えなければならないのだ。

その場合、明らかなことが最低限二つある。一つは、途上国の貧困をそのままに据え置くということは許されないということである。人間の尊厳そのものを否定する絶対的貧困を放置することは許されてはならない。今ひとつは、国際的相互依存が進行する背景の下で、先進国における伝統的な経済成長戦略からの抜本的転換が必要だということである。そして、途上国の貧困問題の解決に向けて、先進国から途上国に向けての大規模な富の移転を実現することが求められる。

 確かな国際情勢認識を確立するに当たっては、地球環境の保全及びそれと共生する新たな「豊かさ」の基準を基礎に据えることを考えなければならない。

(2)展望:国際民主主義を基軸とする国際関係

 2度にわたる世界大戦を経験した20世紀の人類は、国家レベルでは、人間の尊厳を承認し、基本的人権を保障し、民主主義を実現することを規範として受け入れるまでになった。基本的人権を抑圧し、民主主義に逆行するような国家に対しては、今や厳しい国際的批判が向けられることは既に述べた。

 しかし、国際レベルでは、人間の尊厳・基本的人権という基本原理は受け入れられつつある(既述)とはいえ、現実の国際政治経済関係を圧倒的に支配しているのはなお権力政治的発想(「力による」平和観)である。その結果、国家レベルでは実現した(少なくとも実現されるべきことが普遍的に承認されている)民主主義の原則が、国際レベルでは21世紀に入った今日でも当然の規範として受け入れられるにはほど遠い現実がある。相互依存の進行、戦争禁止・核兵器違法化、地球環境保全の要請という人類的課題に取り組む上ではもちろん、人間の尊厳・基本的人権という基本原理をすべてにおいて貫き、及び「個人を国家の上に置く」国家観を根底に据えた主権国家を構成員とする国際社会を実現する上で、「力によらない」平和観(脱権力政治)に基づく国際民主主義を確立することを目指すことは、優れて21世紀の人類社会が自らに課すべき目標でなければならない。

 国際民主主義には二つの含意がある。一つは、人間の尊厳・基本的人権という基本原理を国家の枠組み・制約を超えて国際的に実現するという課題である。この課題実現のカギは、各国において、「個人を国家の上に置く」国家観が定着することにある。この点で、既に紹介した欧州人権裁判所あるいは国際刑事裁判所(2002年7月に根拠となる規程が発効)の事例は、国際民主主義の今後のあるべき方向性について示唆に富む材料を提供している。

 今ひとつは、国家関係の民主化という課題である。この点については、既に紹介したように、国連憲章が国家の主権尊重、主権国家の対等平等、内政不干渉(注)、戦争の違法化、紛争の平和的処理からなる基本原則を明確に定めている。21世紀の国際社会にとっての課題は、これらの基本原則を国際的に徹底すること、つまり国連憲章に則り国際関係を規律することをルール化するということである。「力による」平和観から「力によらない」平和観への移行ということもできる。

国家関係の民主化を具体的に実現するためには、一方において、大国が権力政治的発想からの転換を受け入れることが求められる。国際問題・紛争の解決の手段として、実力に訴えることは許されてはならない。湾岸戦争以来の安易に軍事力に訴える流れに対しては、断乎とした歯止めをかける必要がある。また、国際関係の民主化には当然経済も含まれる。既に詳しく述べたように、新自由主義及びグローバリゼーションは、民主的な国際関係の基礎を突き崩すものとして、これまた断乎とした歯止めをかけなければならない。

国家関係の民主化を具体的に実現するためには、他方において、民主的国際関係の基礎を揺るがせる南北問題を放置することは許されない。地球環境の保全との両立を考慮した南北問題の解決に取り組むことは、国際社会あげての課題となる。そのためにも、「豊かさ」について国際的に共有される認識を築き上げ、その豊かさを地球規模で実現するために先進国と途上国が協力することが求められる。

以上の具体的課題への対処を含め、平和憲法を有する日本は、「力によらない」平和観に基づく国際民主主義を基軸とする国際関係を実現する上で、極めて大きな役割を担う条件を備えている。憲法前文と第9条は、単に日本のとるべき進路を指し示すに留まらず、21世紀の国際関係のあるべき姿を見事に描き出している。そのことを、誇りをもって確認しておきたいと思う。

(注)「個人を国家の上に置く」国家観を前提とする以上、内政不干渉の原則は、基本的人権・民主主義にかかわる事項については重大な修正を受けることになる。その点については、既に述べたことから明らかである。

むしろ考えなければならないのは、次のことである。まず、各国において基本的人権を保障し、民主主義を実現するという原則的要請は揺るがせることはできないが、その保障・実現に当たっては、各国の歴史的・文化的・経済発展段階的等の諸条件・制約を踏まえる必要があるということである。先進国の基準を機械的に途上国に適用し、その基準を満たさないならば直ちに干渉するという粗暴な対応は厳に慎まなければならない。先進国における基本的人権・民主主義の歴史に鑑みても、各国における具体的な歩みに関してはそれぞれの実情を踏まえた内容であることを認める必要がある。

次に、人道的介入という名の下における国際的な軍事行動に関しては、国連を含め、国際的に積極的に容認する傾向が見られるが、この問題に関しては、とりわけ慎重な対応が求められることを指摘しておきたい。人道的介入を目的とした国際的軍事行動が成功した例は皆無に近い。その理由は、多くのケースにおいて、軍事行動は真の問題解決にとって有効ではないことにある。

人道的介入が要請されるのは、ジェノサイドなど大規模な人権侵害が起こっている場合あるいは起こる可能性が極めて高まっている場合である。過去の事例においては、国際社会の対応は、専ら軍事行動による応急措置に限られ、ジェノサイドの原因となる根本的原因に対する本格的取り組みを伴っていないため、失敗に終わる結果になっている。したがって、過去の教訓に学び、ジェノサイドに対する国際的取り組みのあり方を根本的に見直すことが先決である。

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