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(回答先: 石油で世界を多極化する南米のチャベス 投稿者 heart 日時 2005 年 11 月 18 日 21:47:25)
しかし、貧富の差がもっと極端にならないとこの国のドアホ国民は問題の深刻さに気づかないかもしれない。
とすると、チャベス大統領みたいな首相が選出されるのはまだまだ先のことか・・・
時々この国を脱出したい衝動に駆られる。
http://tanakanews.com/c0509venezuela.htm
「ベネズエラとアメリカ」2002年5月9日 田中 宇 より→
▼中南米の2大政党制
2大政党制という政治制度は、うまく機能しているときは政治や社会の安定と、安定が必須条件である経済の成長をもたらす。だが機能不全に陥ると、それは2大政党間の談合政治と化し、国民の要望が国家運営に反映されない状態を無用に長引かせる元凶になってしまう。
こうした2大政党制の問題点が赤裸々に現れたのが、1990年代の中南米、特にベネズエラとコロンビアだった。これらの国々では、1957−58年に軍事政権が終わり、2大政党制が始まったが、それは1990年代に破綻し、少数派である金持ち層の内部を2つに分けて政権交代を演出し続けてきた談合政治だったということが、国民の目に明らかになった。
ベネズエラ、コロンビア、そしてキューバという、カリブ海沿岸の主要な3カ国の冷戦期間中の歴史を見ると、興味深いことに気づく。いずれも1952−53年に軍事独裁政権が始まり、57−58年に破綻している。その後、ベネズエラとコロンビアでは2大政党制が始まり、キューバでは革命が起きて社会主義国になった。軍事政権の始まりと終わりのタイミングがほとんど同じなのである。
中南米は19世紀の終わりからアメリカの支配下に入り、中南米をかつて植民地にしていたスペインなどのヨーロッパ勢が第二次大戦で弱体化した後は、アメリカの支配がさらに強まった。
1953年前後は、すでに冷戦が中南米にも広がり、アメリカの支配から逃れるために社会主義国になろうとする動きが激しくなっていたころだ。このことと、中南米に対するアメリカの支配の強さを考えると、軍事政権の誕生の背景に、中南米を社会主義化させたくないアメリカの戦略があったとも思われる。
▼南米の汚い戦争
ところが、軍事政権には国民の反発が大きく、キューバでは革命を支持する人々が増え、社会主義政権ができてしまった。一方、ベネズエラとコロンビアでは、社会主義化を回避しつつ、軍事政権ではなく一応民主的な装いを持っている2大政党制に移行する道がとられた。
ベネズエラもコロンビアも貧富の格差が大きく、裕福層は国民の1割もいないのだが、大統領は常にそれらの階層から選出できるようになっており、それを実現するメカニズムが2大政党制だった。コロンビアで1957年から16年間実施された2大政党制は奇妙な制度で、2つの政党が4年ずつ交代で政権をとり、閣僚や議会の議席も半分ずつにすることがあらかじめ決められていたという、かたちだけの民主主義だった。
冷戦時代を通じて、アメリカの中南米政策にはCIAが大きな役割を果たしてきた。1960年代にキューバの社会主義政権を倒そうとして失敗した作戦や、1973年にチリの社会主義政権を倒したピノチェト将軍らによる軍事クーデター、1986年の「イラン・コントラ事件」で暴露された、ニカラグアの社会主義政権に対抗して殺人や拷問、誘拐を行っていた反政府組織「コントラ」に対するアメリカの支援など、冷戦の一環としての「汚い戦争」は、いずれもCIAが深くかかわっていた。
ところが1990年前後に冷戦が終わると、アメリカが中南米に求めることは「軍事」より「経済」となった。クリントン政権下でNAFTA(北米自由貿易協定)など南北アメリカ間の経済活性化策がとられる一方、クリントンはCIAの影響力拡大を嫌った。
こうした変化の中、中南米では少数金持ち層による支配を批判し「貧民のための政治」を掲げる政治家が選挙で勝ち始めた。1990年にペルーの大統領となったアルベルト・フジモリがその例だ。そして、1998年にベネズエラの大統領になったウゴ・チャベスもその一人である。ベネズエラでは2大政党制が機能しなくなって経済難がひどくなり、独立系のチャベスが政権をとった。
▼石油を使ってアメリカに反抗
チャベスとフジモリが似ている点はまだある。両人とも、選挙のときは貧困層の救済をスローガンに掲げていたが、大統領にやってまずやったことは、外国資本に対する優遇策だった。アメリカの政府と金融機関を満足させることによって、国内の旧支配層である金持ち勢力がアメリカと結託して逆襲してくるのを防いだのである。
一方、チャベスとフジモリが異なっていた点は、フジモリは失脚するまで親米を貫き、CIA出身の側近モンテシノスに頼り続けたのに対し、チャベスは自らの政権を一応安定させた後、かねてから考えていた反米戦略を実行に移したことだった。(関連記事)
チャベスはもともと陸軍落下傘部隊の軍人で、国内の左翼ゲリラと戦うのが仕事だった。ところが、あるとき「貧しい国民が左翼を支持するのは、左翼が、貧富の格差を放置してわが国を支配する裕福層とアメリカに敵対しているからだ。敵は共産主義でなく、帝国主義だ」と気づき、それ以来密かに軍内で同士をつのり、クーデターの機会をうかがうようになった。
そして、1992年にクーデターを決行したが、失敗してしまう。だが意外なことに、クーデターを起こしたことにより、彼は「反裕福層・反米」の闘士であるということがベネズエラの多数派である貧困層に理解され、6年後の選挙で旧来の2大政党勢力を破ることにつながった。
チャベスの「反米」は、自国を含む中南米諸国をアメリカの支配下から解放したいという考えに基づいていた。そのために彼が使った一つの方法は「石油」だった。ベネズエラは世界第4位の産油国で、アメリカが輸入する石油の2割近くはベネズエラからで、最近までアメリカの最大の石油輸入元だった。一方、石油はベネズエラの国家財政にとっても重要で、政府収入の約半分は石油の輸出代金である。
チャベス政権になってから、ベネズエラはOPEC(石油輸出国機構)の中で、産油国が横並びで石油を減産して価格をつり上げることを提唱する勢力となった。またチャベスは2000年8月、湾岸戦争以来、外国の指導者として初めてイラクを訪問した。チャベスはキューバやリビアなど、アメリカが敵視する他の国々も次々と訪れるとともに、アメリカが経済制裁をしているキューバに石油を売り始めたりした。さらに911事件の後、チャベスは中東産油国との連携を深めることを意図してか、米軍のアフガニスタン攻撃を批判する発言をおこなった。(関連記事)
「石油」と「軍事」の勢力が合体して政府を構成しているようなブッシュ政権にとって、こうしたチャベスの振る舞いは、目に余るものだったのだろう。2001年11月5−7日、国務省、国防総省、国家安全保障局が「ベネズエラ問題」について3日間の日程で会議を開いた。これ以降、チャベスを追い落とすためのアメリカの戦略が展開されることになった。(関連記事)
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