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特集WORLD:この国はどこへ行こうとしているのか−−随筆家・岡部伊都子さん
◇自身の「加害」と向き合う−−随筆家・岡部伊都子さん、京都からの発言
◇病気ばっかりしていますけどな、最期の瞬間まで人としての自分を育てたいと私はまだそう思っています
秋の京都は観光シーズン。おばさまのグループ、年配のカップル、若者たち……みんな古都の紅葉を目当てにやってくる。金閣寺を仲良く歩いた小泉純一郎首相とブッシュ米大統領もそうだった。みんな楽しそうにおしゃべりしている。
京都・賀茂川近くの家を引き払い、2月に移ったというJR京都駅近くのマンション。岡部伊都子さん(82)ははりの治療を終えたところだった。
「今日は何のお話ですやろ。私はちょっと長生きしすぎるほど、年がいきましたけど」
慌てて「いやそんな」と言いかけると、か細い声で「そんなことあるのよ」。
「私は体が弱くて、この子はすぐ死ぬ、死ぬ言われて育った。ほんまやったら『お前、まだ生きとんのか』って言われるわ。自分でも不思議でしょうがない。14、15歳のころから、何度も自殺しようと思いましたし」とさらり。再び慌ててしまい「それはどういう気持ちで……」などと間抜けた質問をした。平然と一言。
「いなくなりたいの」
また、ドキッとした。
●面倒
紺の地に桜やカエデ様の柄をちらしたしゃれた上着。ふんわりとしたやさしい雰囲気が、ショールのようにほおから肩、胸にかけてをくるんでいる。角の丸い輪島塗の朱色の盆に、栗(くり)のお菓子と濃いお茶が用意されていた。盆の朱、あんの黒、栗の黄、茶の緑……その色合いの美しさにはっとし、岡部さんの一文を思い出した。
<面倒。
この二字はおそろしい。
人間の手間をはぶくことが「科学文明」の成果である。便利で、楽で、得をすることが「幸福」とされている。だが、生きることは、楽なことではない。避けるわけにはゆかない人間関係、労働、家事。限りない日常の面倒を適切にさばき、その中で心をみたして生きてゆかなければ、自分のいのちの時間を、自ら空洞化してしまう危険がある。
とくに、愛とは、面倒なものだ。>(「賀茂川のほとりで」毎日新聞社)
22年前の文章なのに新鮮で深い。扇、年賀状、スラックス、ろうそく、男ぶろしき……暮らしの中のさまざまなものたちから、戦争、差別、環境問題まで、岡部さんの本は126冊にも上る。そういえばこんな一文もあった。
<国民むけの表情とはまったくちがう首相のうれしそうな表情。重大な原則はなおざりにして、レーガン大統領には惜しみなく笑顔をみせる。(中略)この国の重要ポストに在る人々にとって国民とはいったい何なのだろう>(同)
大統領の名前が違うだけでまるで最近のことのよう。
「でも、あの時よりもっと悪くなっているな、世界は」
岡部さんは元気がない。時折、せきが話をさえぎる。「それこそ、はよ死なな、あかんな」と真顔でおっしゃる。
●シークァーサー
ふんわりした雰囲気がほおから下を包んでいると思ったのは、おそらく目のせいだ。黒杏(あんず)のようなつややかな瞳の底に、深いものが沈んでいる。
「13歳で肺病になって、どうせ死ぬのやったら自分の死のうと思った時に死のうと思ったの。それがこないに長生きして、私が慕った人たちはみな死んでしまった。すぐ上の兄は航空隊。シンガポールで、偵察に行って帰らなかった。1941年12月8日に戦争が始まって、翌1月10日に戦死。妹にも決して威張らん、やさしい人でしたな」
「当時は報国教育、公民教育。天皇陛下のために死ね、死ね、死ね、言われて。靖国の神になることが一番、そのためにも戦わなきゃあかん。町内でもな『名誉の戦死、おめでとうございます』って来はんねんもん」
恋愛結婚などまず許されない時代、初恋の人、木村邦夫さんと婚約できたのはまれな幸運だった。たとえ親たちが「お互い長くはない」と考えたとしても。
「その時分の男の子と女の子というたらもう厳しい、厳しい。婚約して初めて2人きりにさせてもらった。でもその晩にも隊に戻らなあかん。その時、邦夫さんが言いはった。『この戦争は間違っている。僕は天皇陛下のためには死にたくない。国のため、君のためなら喜んで死ぬけれども』」
岡部さんは黙ってしまった。シークァーサー(沖縄のかんきつ類)のジュースを飲みながら、私たちはしばらく黙っていた。
<こわかった。こんな言葉を誰かに聞かれたら、とても無事ではあり得ない。『すべてを天皇陛下のおんために投げうつ国民の至誠』を第一義としてきたわたくしに、『天皇陛下のために死ぬのはいや』という言葉が、あまりに意外で、すっとは理解できなかった。(中略)『わたしなら、よろこんで死ぬけれども』と、言ったのである>(「生きるこだま」岩波現代文庫)
●スカーフ
邦夫さんは中国に派遣された後、沖縄へ。そのまま帰って来なかった。岡部さんは嫁ぐが、実家は破産し、結婚も破たん。ラジオへの投稿から始まり、文を書くことで生き抜いてきた。
おつらそうなので、お願いしてベッドに横になっていただく。髪が乱れるからと頭に薄いスカーフを巻いた岡部さんは、なんだかちょっと天女のよう。寝室にはお兄さんの写真があった。涼やかな目をして、きりりと口を結んだ22歳の青年。まだほんの少年だ。
「あたし、国民が信じられんの、国民が。憲法9条を変えるなんて、なんでこんなことが。今までの日本人なら恥ずかしいことですよ。本当に恥ずかしい。私が生まれたのは関東大震災の年。でも地震ゆうものは天災や。戦争ゆうものは人間のするこっちゃ。そない思ったら、もう絶対に……」
壁には、わらで編んだ輪のようなものが飾ってある。沖縄・竹富島のお守りだ。
「沖縄問題もそう。沖縄の人たちを勝手に苦しめている。日本政府は、またアメリカ政府のしっぽに付いて行きようやろ」
岡部さんは68年に沖縄を訪れた。負傷した邦夫さんが置き去りにされた病院では一緒に約2000人が死んだ。「毒を飲まされた」という証言もある。沖縄戦の悲惨さをじかに感じた。自らを「加害者」と断じ、反戦を強く訴えるのはそれからだ。
沖縄にとって、日本復帰の大きな理由。それは戦争放棄を定めた日本国憲法だった。なのに自民党は改憲案を発表し、在日米軍再編協議では本島北部への基地の集中を一層進める方針が確認された。
「沖縄にとって、日本って何やろな」
ため息のように言った。
「思うこと、言うこと、自由になったはず。せやけど、その自由が間違った方向にいかされたら、どないしまんのやろ。そうは言っても、自分の考えを押しつけがましく言われへんしな。自分自身を含めて、人間をよく信用せんわ」
●雲
「神の国」から民主主義へ、軍国主義から反戦平和へ。鮮やかに転じたのは、上から与えられたものをただ信じただけなのかもしれない。
でも岡部さんは、長い月日をかけて上からのものを信じた罪を検証していった。この人は、今も、あの戦争を許していない。あの時の日本を許していない。何より、あの時「喜んで死ぬ」と口にした自分自身が許せない。戦争は被害者だけでなく、加害者を生む。誠実な者ほど自らの罪に苦しみ続ける。
あの時代なら、私も「消火訓練のバケツリレーに来ない者は非国民だ」などと記事に書いたかも、とふと思った。岡部さんといると、いつの間にか自分自身と向かい合っている。
でも、自分さえ信じられないとしたら、どう生きていけばいいのだろう。
「今、いろんな問題があるやろ。家庭、教育、政党……。でも、一番せんならんのは、自分を育てることやろな」
……自分を育てる?
「自分にある未来を。まだ、あるならな。私は病気ばっかりしていますけどな、最期の瞬間まで人としての自分を育てたいと、私はまだそう思っています。今の呼吸より次の呼吸の方が、心が開かれているように」
帰り際、西本願寺の前を通った。門はもう閉じていて、黒く大きな屋根の上に、夕日が透けたばら色の大きな雲がたなびいていた。【太田阿利佐】
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■人物略歴
◇岡部伊都子氏(おかべ・いつこ)
1923年、大阪市生まれ。大阪相愛高等女学校中退。54年から執筆活動に入り、戦争、差別、環境問題などへの厳しい言及で知られる。著書に「みほとけとの対話」(淡交社)、「岡部伊都子作品選」(藤原書店)など。
毎日新聞 2005年11月18日 東京夕刊
http://www.mainichi-msn.co.jp/tokusyu/wide/
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