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裏づけを取らずに一方的に報道し、間違いと指摘されても無視するのが日本を代表するこの朝日新聞社
http://www.asyura2.com/0510/senkyo15/msg/803.html
投稿者 TORA 日時 2005 年 10 月 18 日 19:18:48: CP1Vgnax47n1s
 

(回答先: Re: 内容がかなりダブっているよ「仇敵の肉を食らい…」と。下の投稿のレスに答えてから新規投稿すべきだがな(本文なし)。 投稿者 gataro 日時 2005 年 10 月 18 日 15:45:06)

三光政策の村
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/asahi-hanzai/frame1.html

 「中国の旅」が連載された1971(昭和46)年まで、「三光政策」 「三光作戦」 などというものは、日本でほとんど知られていなかったといってよいでしょう。中国抑留者の手記集『三光』(1957年)によって、「三光」という言葉が普通の日本人の目に入った最初のものと思いますが、とにもかくにも絶版に追い込まれたのですから(『侵略』と改題されて発行)、この言葉の浸透力は限定的だったはずです。
 ところが、「中国の旅」で事情は一変しました。朝日新聞が報じたのだから、裏づけは十分とったとでも思ったのでしょう。あっという間に百科事典に載るやら、果てはほとんどの教科書に載ることになったのですから、この問題を広めた元凶といってよいはずです。
 では「三光作戦(政策)」とは一体、何かということになりますと、実に漠然としているのです。中共軍の根拠地覆滅 を「三光作戦」と呼ぶ場合(教科書のほとんどはこのケース)、あるいは「無人区」 (一部の教科書)や「遮断壕」 を含める場合もあり、さらには「強制連行」 まで加えた例もあります。もちろん、中国の主張をそのまま受け入れた結果にほかなりません。
 「三光作戦(政策)」そのものと、上記の各カテゴリーは別途、報告いたしますので、ここでは「中国の旅」に記述のある残虐事件について記すことにいたします。
 なお、朝日連載時のタイトルは「三光政策」 となっていましたが、内容が「三光政策」そのものについて書いたものではないと知ったからでしょう、単行本になったときは「三光政策の村」 と変わっていました。タイトル変更に関しては、一応理のあることと思います。

 1  「南京大虐殺」 と 「三光政策」
 まず、次の「中国の旅」記述をお読みください。
 〈 南京大虐殺は、前章での証言による報告のように、大量の南京市民や武装解除捕虜を無差別に殺した。短期間に殺した量としては、日中戦争の中で最大の事件だった。にもかかわらず、この虐殺は、軍の最高方針による虐殺事件ではなかった。 蘆溝橋事件のあった同じ1937年の12月、つまり日中全面戦争の初期にあったこの大虐殺は、侵略軍というものの持つ本質的性格 が、日本軍の場合にも典型的に現れた結果であって、いわゆる「三光作戦」として知られる計画的な「作戦」や「政策」としての虐殺ではなかった。
 「作戦」としての皆殺し、「政策」としての計画的虐殺 が本格化するのは、八路軍の活躍が目立ちはじめる1940年頃からである。住民と密着し、その強い支援で活躍する共産軍ゲリラに対して、 ドイツ=ナチスがやった報復殺害と同様、女子供を含む全住民の皆殺し作戦 をもって応じた。 〉

 要するに、「南京大虐殺」は侵略軍の持つ本質を持つものの計画的殺害ではなかったが、「三光作戦(政策)」は日本軍による「計画的大量殺害」 であって、ナチスドイツと同様 の皆殺し作戦であった、ということでしょう。
 「侵略軍の持つ本質」 というように、わかったようなわからないような表現を本多記者はよく使いますが、説明もないまま情緒的な表現を多用するのも一つの特徴と思います。おそらく論理性に欠けているのでしょう。
 この解釈をそのままとった日本の歴史教科書(とくに教師用の虎の巻「指導資料」)は少なくありませんし、「三光作戦」を事実とする“歴史学者”のほとんどはこの説と同様といってよいでしょう。
 つまり、本多解釈 というか朝日解釈 というかは別にして、この説が幅を利かしているのは間違いないところです。


 ですから、本島等・元長崎市長 のように、
 「南京大虐殺や三光作戦などは日本人の残虐の極致であって、非人間性や野蛮さが出ている。中国などにとって原爆は救世主であった。・・」
 という発言もでてくるのです(左写真は会見内容を伝える1998年8月1日付け産経新聞)。
 本島元市長は、もともとこういった思想傾向を持った人物ではなく、県議時代には「日教組」と対決するなどむしろ「タカ派議員」 として知られていたようです。また、市長時代に「長崎日の丸会」会長に就任、「日の丸大行進」では先頭に立って日の丸を持って歩いたのです。
 意見が変わる、思想が変化すること自体、ただちに非難すべきことではないでしょう。ただ、何がこのように180度も変化させたか興味のあるところです。多分、良識的かつ平均的日本人がたどったのと同じ道、つまりメディアによる「悪性ウイルス」 にかかったのでは、と思っているのですが。

 2  「中国の旅」が伝えた事件の概要
 天津から列車で2時間の唐山(たんざん)、そこから65キロ東北にある潘家峪(ばんかこく)の小学校に到着すると、県の革命委員会の代表らが本多記者を出迎えています。そこで、「歴史的生き残り」という48歳の男性(村の革命委員会委員)が語ります。
 〈 日本軍は美しい山河を蹂躙し、あちこちに砲台と築き、壕を掘り、食料を奪い、人夫を拉致し、婦女を強姦し、家を焼き、勝手気ままに人を殺しました。 〉

 つまり、日本軍は殺光、焼光、奪光の「三光」を行ったというのでしょうか。
 〈 私たちが民族的生死の瀬戸ぎわに立たされたとき、偉大な毛沢東主席は『全国の同胞よ。中華民族の危機を救うには、全民族の力を動員して抗戦しなければ活路はひらけない』 と、戦闘的に呼びかけました。私たち潘家峪 の住民も、この呼びかけに応じて遊撃隊(ゲリラ)を組織し、不屈の戦闘をくりひろげたのです。道路を破壊し、敵の通信機を切断し、手製の地雷を使って待ち伏せ攻撃をしました。 〉

 そこで、人民を支配することができない日本軍は、「ここを無人地帯にしてしまおうと、無差別大殺戮をたくらみました」といい、中国側の推定で「3000人の日本軍と2000人の傀儡兵」 がひそかに村を包囲し、住民1500人のうち、村外にいた200人を除いた全員、1230人 を殺害したというのです。
 中国側のいうことが正しいとしますと、村落あげて武装集団である遊撃隊(ゲリラ)を組織し、実際に待ち伏せ攻撃などをしたのですから、日本軍の対応は正当な戦闘行為ということになるのではないでしょうか。同様の状況下にあって、手をこまねいている軍隊など古今東西あるわけがありません。
 ただし、村民の中に女や子どもなど非戦闘員も含まれているとすれば、この点で問題というのならわかります。
 話のなかに、「無人地帯」という言葉が出てきます。「無人地帯」という言葉のニューアンスは「皆殺し」 といわばセットになっていて、全員殺害して「無人地帯」にする(なる)という含意があるという指摘があります。言われてみれば、このように解釈しますとつじつまが合うのです。
 日本側に「無住地帯」という政策がありましたが、「皆殺し作戦」ではもちろんありません。
 この「無人地帯」「無住地帯」 問題については、別項(「無人区」)のなかで報告(予定)いたします。
 男性の証言はつづきます。
 「重傷を負って生きている者を、あるいは首を切って胸にぶらさげ、あるいは腹と胸とを切断して内臓を散乱させた」
 といい、5歳の女の子を母親からう奪った兵隊は、
 「その両足をつかんでさかさにすると、振り子のように大きく振って頭を石にぶつけ、たたき割った」
 というのです。
 このように、引き裂かれて死んだ幼児は30人以上、腹を裂かれて死んだ妊婦が4人にのぼった とこの「歴史的生き残り」の男性は証言します。

 こういう話になるから、「歴史的生き残り」という証人さえ、信用できなくなるのです。
 妊婦の腹を裂く、なんて話しを皆さまは信じますか。私はまったく信じておりません。このような話を聞いて紙上に書く記者の感覚を疑います。常識以前であること、記者も新聞社も同じです。
 この問題は、この項の終わりにまとめて記すことにして先に進みます。
 生き残った22人の盛壮年は「復仇団」と名乗って八路軍に入隊。この部隊は1942(昭和17)年旧暦7月、榛子鎮付近の戦闘で日本軍150人を一挙に撃滅したといいます。このなかに「佐々木」という虐殺のリーダーが含まれていて、復讐を成し遂げたというわけです。
 現地には「豊潤県潘家峪革命記念館」 が建てられ、日本軍の蛮行を糾弾しています。

 3  日本側の調査結果
 この潘家峪の事件にかかわった部隊は、第27師団隷下の支那駐屯歩兵第1連隊(以下、歩1=ほいちと略記)です。機関銃中隊の一員として部落攻撃に参加し、離れた地点から目撃した人に会えたのは、1995(平成7)年9月のことでした。
 歩1の内海・戦友会会長は、「事件のあったことは事実です」と認め、襲撃対象となった村は、敵と通じている、いわゆる 「通匪部落」 であり、この付近では待ち伏せをうけるなど、いつも日本軍がやられている所であり、襲撃はそれなりの理由があったのだといいます。そして、「殺さなければ殺される、それが戦場の現実なのです」 と淡々と話してくれました。会長自身はこの事件の後、歩1に転入してきたため、直接、知る立場にありませんでしたが、事件についていろいろと聞いていたとのことです。
 会長の紹介により、参加者の一人(A)に会うことができ、後にもう一人(B)とも連絡をとることができました。さらに、別の人の紹介で2人に連絡をとりましたが、面会は断られました。ただ、紹介者ほかから間接的に話を聞いております。
   Aは、「(参加者の)生き残りもほとんどいなくなったので、話しておいた方がよいと思った」 とし、長時間にわたって当時の模様、目撃した事件の様子などを、詳細に話してくれました。

  @  発生日時について
 Aは開口一番、「あれは昭和16年2月の初めのことでした」といい、「中国の旅」の「1940(昭和15)年1月25日」は間違いだといいます。また、Bも昭和16年だと断言しています。
 というのも、2人とも昭和14年徴集の現役兵でしたから、間違うはずもないのです。つまり、1939(昭和14)年12月1日、2人は近衛歩兵4連隊の営門をくぐり、16日に東京を出発。神戸港から船で大陸に向かい、連隊本部のある唐山到着が12月26日でした。
 細かいことは省きますが、このことだけでも1940年初頭の出来事でないことがわかります。教育も受けていない初年兵が討伐出動することはあり得ないからです。

  A  事件の経過
 1941年2月初めの某日午前1時頃、第1機関銃中隊の中隊長・佐々木中尉の指揮する一隊が豊潤を出発します。一行に加わった2人は入隊1年、ともに重機関銃を担当していましたが、出動の目的など知らされずにただ行進したといいます。
 明け方、潘家峪の村を包囲します。村は盆地のような低い所にあり、多くの村同様、塀で囲まれています。機関銃隊は中を見渡せる小高い位置に重機を据えて待機します。そこからは、村の中に入った兵が広場(中庭)に住民を集める様子がよく見えたといいます。狩り出された人で広場はほぼ満員、その人数について、Aは「約300人」 といい、「1000人」 もいるわけがないと話します。
 やがて、小銃と軽機関銃で射撃が始まります。目前で起こったこの光景を見て、Aは「兵隊はいやなものだな」 とそのとき思ったと話してくれました。それまで、討伐に出動し、戦闘の経験はある程度積んでいましたが、戦闘自体は双方が武器を持った戦いであり、なんとも思わなかったのに、というのです。こんな経験はこれが初めで最後でした。
 死傷者数について、Bは「部落の遠方で銃を据えていて、部落には機関銃中隊は入っていませんのではっきり分かりませんが、小銃隊の話を総合すると、村民死傷者200〜300人位 のようです」と書き、後日、参加した歩兵から聞き取ったものとのことでした。
 機関銃中隊の中隊長が、なぜ歩兵部隊を指揮したのかについて疑問を感じる方もおいででしょうから、簡単に記しておきます。
 歩1は3個歩兵大隊(1個大隊は4個中隊、計12個中隊)、3個機関銃中隊などで編成されていました。事件にかかわったのは豊潤に大隊本部を置く第1大隊でしたが、たまたま、松原大隊長(少佐)が教育(?)のために隊を離れていた事情があります。
 大隊本部と同じ豊潤に本部を置いていた第1機関銃中隊・佐々木中隊長がこの間、独断で専行したというのが大方の見方と思います。
 長くなりますので、日本軍、現地人で組織された県警備隊の参加人数などについては、拙著をご参照ください。
 なお、中国側のいう「榛子鎮付近の戦闘で日本軍150人を一挙に撃滅した」なかに、佐々木中隊長が含まれていたというのですが、この戦闘時に佐々木中尉は転属していましたので、この戦闘(日本兵、58名死亡)にかかわっておりません。生きて帰国したことは間違いないと思います。

  B  「三光作戦」論理の虚構
 日本軍に対して、村民などを含めた一般人民が立ち上がり、これがために日本軍は女、子供を含む「皆殺し作戦」 をもって応じたというのは虚構の論理です。
 この事件も「皆殺し作戦」などという計画のもとに行われたわけではありません。一人の跳ね上がった人間の所為、といった性格が強いものと思います。
 むろん、八路軍に加った村民もいたことでしょう。また、部落に八路軍兵士が入り込んでいたのも間違いないことでしょう。女が弾薬を運び、子供も日本軍の動きを知らせる伝令役になった例も珍しくありません。ですが、「中国の旅」にあるような「村民の反抗はみなウソだ」というAの実感が、その実態といって間違いないと思います。一般住民はおとなしく、八路軍に便宜をはかるものの直接武器をとって反抗するようなことはまず、なかったというのです。
 Aの話は、満州国側の熱河省(ねつかしょう)、北支(華北)などに駐留経験のある将兵多数(数百人)から聞き取った話や記録とおおむね合致しています。
 ですから、逆にこの事件、八路軍兵士が混じっていたことを割り引いて考えても、日本軍の責任はその分重い という見方を私はとっています。

 4  自らの“伝統的手法” を日本軍に当てはめて
 まず、次の文章をお読みください。
 〈 ・・昭和6,7年の満州事変に於ても、鮮人を捉えて、活きながら皮を剥ぎ、眼玉を抉って、公衆の通路に曝したのが沢山あった。
 四平街東北方付近に逃げた王以哲軍は、付近の鮮人部落を焼払い、妊娠中の女の腹を断割って、胎児を曳き出し、マダ動いて居るのに、銃剣をつき刺して、嬉々として笑って居た。
 また鮮人婦人を強姦しようとしたが、背中の子供が余り泣き叫ぶので、イキナリその子供を玄翁(げんのう)で撲り殺し、その婦人を輪姦した上、惨殺したのやら、輪姦の上、押切で生きたまゝ、女を胴中から二つに切ったりしたものがあった。
 これ等の惨状を見ると、彼等は如何にして、残虐行為を現すべきかに、努力苦心をしたのではあるまいかとさえ思われる。・・ 〉

 王以哲といえば、奉天郊外の兵営、北大営(ほくだいえい)の指揮官で、柳条湖の満鉄線の爆破につづき、この兵営を日本軍が攻撃したことにより満州事変が始まりました。
 上の描写は北大営を脱した王軍の「暴虐ぶり」を表したものでしょうが、「妊娠中の女の腹を断割って、胎児を曳きだし、マダ動いているのに、銃剣をつき刺して、・・」という場面、どこかでご覧になったものと思います。また、「押し切り」によって日本軍が・・、というニセ写真 もご覧になったことがあるでしょう。
 中国抑留者の「手記」にも、また戦後「証言」にもよくでてきます。前者の「手記」では「胎児」がありますし、後者では「最後の戦犯」といわれた著名人、城野宏  の「証言」にもでてきます。城野証言については、別項をお読みください。
 また、大物抑留者の鈴木啓久中将 に対する中国側検察の罪状告発の中にも、「妊婦の腹を裂き、胎児を取り出し、・・」という残虐行為があちこちで数人規模、あるいは数十人規模であったと告発されています。これについても、別項をご覧ください。
 これらの残虐行為を日本の“歴史学者”、あるいは報道人は否定せず、せいぜい「多少、大げさな点もあろうが」などといいながら、抑留者証言や、中国側の言い分を全面肯定するのです。
 ところでこの文章、いつ書かれたものか見当がつくでしょうか。
 実は、1935(昭和10)年に発行された『裏から見た支那民族性』(笠井孝著、日本外事協会)から引用したものです。
 この本の存在は、九州にお住まいの長田泰治氏 からご教示いただきました。
 ほかにこんな描写もあります。
 「斉南事件でも、満州事変でも、生きながら、石油を掛けて惨殺されたり(生きた者は水泡が出来るからすぐ分る)、或いは局部を切断して・・」
 これと似た状況、「中国の旅」のなかに出てきたと思いますが。
 時間があれば、「肝臓を取り出して日本兵が食った」などという話の出所などを含め、別途、まとめたいと思っています。
 いずれにしても、大新聞が書くからといって、こんな話、信じる日本人が多いのには参ってしまいます。


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