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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu105.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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徹底した議論を行わずに司法の場に信仰の問題を委ね
るという姿勢自体が、国家の宗教に対する干渉を強める
2005年10月17日
◆小泉首相、靖国神社を参拝…昇殿・記帳せず
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051017-00000003-yom-pol
小泉首相は17日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。首相は就任以来、年1回の参拝を事実上の公約としており、今回が5回目となる。
首相は、内閣の最重要課題である郵政民営化関連法が14日に成立したことなどを踏まえ、17日からの靖国神社の秋季例大祭に合わせて、参拝に踏み切ったとみられる。首相は参拝の際、昇殿せず、記帳もしないなど、外交的な配慮を見せた。
しかし、首相の靖国参拝中止を求めてきた中国、韓国は反発しており、今後の外交日程にも影響が出そうだ。
グレーのスーツ姿の小泉首相は午前10時過ぎ、公用車で靖国神社に到着した。同10分ごろ、拝殿の前で一礼した後、さい銭箱にお金を入れ、30秒間ほど手を合わせた後、再び一礼した。献花料や玉ぐし料は出さなかった。(後略)
(読売新聞) - 10月17日12時27分更新
◆『国家の自縛』 佐藤優(著)
http://www.sankei-books.co.jp/books/title/S0593000.html
情報業務を通じて歴史の激動を裏舞台を含めて見るのは面白いですよ。北方領土交渉は文字通り「知恵の戦い」だったので、毎日がそれなりに充実していました。同時に少しだけですが、「お国のために仕事をしている」という気持ちも持っていました。その中で私は確実にナショナリズムというウイルスに感染し、その状態は今も続いているんです。
その過程で私の靖国神社観は確実に変容しました。私は時々靖国神社を訪れ、手を合わせる。その時に私は英霊を感じるし、日本国家のために生命を失った英霊に対して率直に「ありがとうございます」と述べる。私が経験した「小さな物語」が靖国神社という比較的「大きな物語」とシンクロするんですよ。しかし、これはあくまでも私の「物語」であって、他者にそれを強要しようとは思いませんね。
ロシァやイスラエルから友人が来れば靖国神社と遊就館を必ず案内します。とくに遊就館はロシア人、イスラエル人の琴線に触れるんです。誰もが特攻機や人間魚雷「回天」の前で立ち止まり、涙を浮かべますね。イスラエル人ならばホロコーストの記憶、ロシア人ならば第二次世界大戦の雌雄を決したスターリングラード攻防戦、レニングラード封鎖戦の記憶と靖国神社の「物語」がシンクロして和音を発生させるんです。
ロシア人、イスラエル人は、過去の戦争について自国中心的な「物語」を作っている。同時に彼らはそれが「物語」で、他民族が別の「物語」を作っていることを理解しているんです。だから靖国神社に対して特段の抵抗はないんですよ。
ロシア国防省機関紙『赤星』のウラジーミル・クザリ外報部長(海軍大佐)がノモンハン事変(一九三九年)の展示の前で立ち止まり、展示物にソ連軍事出版所から刊行された『ハルヒンゴルの戦い』(ノモンハン事変のソ連、モンゴル側での呼称)という専門書があるのを見つけて「実にフェアな展示だね」と感想を述べたことが印象に残っていますよ。
私は特攻隊員たちがみんな「お母さん」と言って敵機に突っ込んだというのはウソだと思う。「お母さん」と言ったけど、「天皇陛下万歳」とも言ったと思うんです。その両方言ったということがわからないと私は危ないと思った。
一方で、右の方と言われる人たちに違和感があるのは、例えば広島の平和記念資料館に行って、あれは歪んだ平和主義の産物だとか、反米主義の展示だなどと言う、その感覚も私にはわからない。あの記念館を見たら、申し訳ないっていう気持ちになるんですよ。
一部の論者からすれば、私の感覚は理解不能かもしれない。過度に国家と自己を一体化する危険塗言説を私が主張しているように見えるかもしれません。率直に言いますが、私は「国家の罠」にとらわれている。神とか愛とか平和という「究極的な価値」は国家や経済という「究極以前の価値」を通じてしか実現できないと私は考えているんです。
日本の外交官も、所与の条件下で不眠不休の努力をしていることは事実ですが、外交は結果がすべてなんです。靖国問題を巡る混乱に対して誰かが責任をとらなくてはならない。外務官僚が責任を負わなくてはならないのは、一言で言えばこれまでの不作為に対してです。
対中外交については、総理が靖国参拝を行った場合、中国がどのような反応をするか、想定され得る最悪の状況を含むきちんとしたシミュレーションを行って総理に伝えることを怠った。漏れ伝え聞くところでは、一部の外務省幹部は「小泉総理は嫌な話を聞く耳を持たない。怖くて伝えられない」などという無責任な発言をしている。嫌がられても、怖くても職業的良心に従って、専門家としての見解を伝えることが官僚の本義なんです。
外務省内部から「佐藤優は政治家に対して甘く、外務官僚に対して厳しすぎる」という批判が聞こえてくるのが眼に浮かぶようですが、私はとくに外務官僚に対して厳しい主張をしているのではない。軍人、外交官は、状況によっては無限責任、つまり自己の生命を投げ出す覚悟が就業規則に含まれているというのが国際スタンダードです。所与の条件下で小泉総理を守ることが国益なんですよ。辞職によって国益に貢献するというのも当然あり得るシナリオです。それが嫌なら外交官という職業を選ばなければよい。それだけのことなんです。
◆高橋哲哉教授の『靖国問題』は一握りの強者の諭理だ
私が見るところ、ベストセラーの『靖国問題』(ちくま新書)を書いた高橋哲哉東京大学教授は、知的に優れ、人間的にも誠実な人物であることは間違いありませんが、国家悪を強調しすぎるがゆえに、私のような「国家の罠」にはとらえられていません。しかし別の罠にとらえられています。それは人間は未来永劫に悲しさ、加害者意識を持ち続けなければならないという「悲しみの罠」です。今年上半期でもっとも話題になった哲学書というべき高橋教授のこの著書の結論部にその罠が顕著に現れていると思うんです。紹介しましょう。
《靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としないことになる。一言でいえば、悲しいのに嬉しいと言わないこと。それだけで十分なのだ。まずは家族の戦死を、最も自然な感情にしたがって悲しむだけ悲しむこと。十分に悲しむこと。本当は悲しいのに、無理をして喜ぶことをしないこと》
この倫理基準はハードルが高すぎるんですよ。「悲しいのに嬉しいと言わないこと」、「十分に悲しむこと」、この倫理基準を守ることができるのは真に意志強固な人間だけです。悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰は生まれるし、文学も生まれるのだと思う。結局のところ、悲しみをいつまでも持ち続け、耐えることができる人物は、一握りの強者だけになると思うんです。
高橋教授の主観的意図とは反すると思いますが、この倫理基準に立つ限り、高橋教授には、宗教を必要とし、慰めや癒しを必要とし、そして文学を必要とする人々の内在的論理がつかめないのですよ。「悲しみの罠」から人々を解放するのが宗教や文学、そして時には国家の機能だと思うんです。靖国参拝を政治公約に掲げる小泉総理の言説は哲学的に稚拙であっても、慰めや癒しを必要とする多くの人々の心をとらえることができるのですよ。
あえて言えば高橋教授には宗教人の心情が理解できない。私の理解では、世の中には宗教を必要とする人間とそうでない人間がいる。宗教を持つ人にとって重要なのは、帰依することによって「救われたい」という気持ちなのだと思う。神道が祭儀中心の宗教だと言っても祭儀を媒介として人間を救済するという構成になっている。
高橋教授が「靖国信仰がかつての日本人を『軍国主義者』にしたかどうかというレベルにおいてだけではなく、より深層において、当時の日本人の生と死そのものの意味を吸収し尽くす機能を持っていた点にあるのではないか、と私は思う」と述べていますが、確固たる救済観なくして人間の「生と死そのものの意味を吸収し尽くす機能」は持てないはずです。高橋教授は自己の宗教観についても明示的に述べていませんが、『靖国問題』のテキストは、西欧哲学史上の無神論、唯物論と親和的な論理構成ですね。
宗教は信仰者にとっては主体的問題ですので、まず私自身の立場を明確にしたいと思います。私はキリスト教徒(プロテスタント)で、神学教育を受けた。宗教観に関しては、日本における圧倒的少数派に属する。靖国神社で手を合わせても、そこに私が信じる神がいると感じたことはない。モスクワ郊外のセルギエフ・パサードの三位一体教会、チェコ北東部の片田舎ホドスラビッツェ村の教会を訪れ、手を合わせた時には、そこに私が信じる神がいると感じた。ユダヤ教の聖地エルサレムの「嘆きの壁」を訪れた時にも私が信じる神がそこにいると感じた。これは私の個人的心情の問題です。
宗教とはそもそもおせっかいなもので、自己のみでなく他者の救済をも視野に入れます。新約聖書の百匹の羊のうち、残る九十九匹を残してでも迷える一匹の羊を救い出す(マタイによる福音書十八章十-十四、ルカによる福音書一五章三-七)とのイエスの有名な喩えにしても、一匹の羊の側からすれば群にいるのが嫌で放っておいてほしいのかもしれない。それを許さずに干渉しようとするのが宗教の本質と私は考えているんです。
従って、おせっかいな宗教間で過度の軋轢を防ぐためには、客観的には愚かな行為であっても、他者に危害を与えない限りは認めるという愚行権を含む自由主義原理を徹底する必要がある。他宗教の教説が耳障りでも、自己に具体的危害が加えられるか、その蓋然性が相当高くならない限り、他宗教、宗派に対してはできるだけ干渉しないことなんです。
戦前、靖国神社を含む国家神道が、非宗教という擬制の下で事実上国教になっていたとの高橋教授の指摘にも私は完全に同意します。現在の靖国神社は宗教法人格を有する宗教団体で、国家予算によって運営されているわけでもなければ、靖国参拝を国家によって強要されているわけでもない。
「首相の参拝によってPTSD(心的外傷後ストレス障害)が生じたとして」宗教的人格権が傷つけられたとする訴訟を起こしている人々がいることを高橋教授は紹介していますが、他者危害排除の原則をここまで拡大すると、社会生活が著しく窮屈になると私は思うんです。
そもそも公共圏での議論を徹底的に行わずに司法の場に信仰の問題を委ねるという姿勢自体が、国家の宗教に対する干渉を強めることになるという論理連関がわからないのは、宗教人として脇が甘すぎる。国家を信頼し過ぎていると私は思います。現行の靖国神社は他宗教、宗派、さらには宗教を信じない人々と並存し、協調できる存在と私は考えているんです。
ここではっきり述べておきたいが、キリスト教と天皇制が衝突していると考えるのも大きな間違いです。例えば、正教会の聖体礼儀(礼拝)では、明治期から今日まで一貫して「わが国の天皇及び国を司る者の為に主に祈らん」(「わが聖父金ロイオアンの聖体礼儀」『奉神礼』、正教会、一九九四年)と唱えている。プロテスタント教会の一部に靖国神社に対する抵抗感が強いということは私も熟知していますが、靖国神社に親近感を持っている牧師や神学者を含むプロテスタント教徒が少なからずいることも事実なんです。ただしこのような親靖国派のブロテスタント教徒は大きな声で自己主張をしないので、外からその姿が見えにくいのです。
戦後、日本人は国家のあり方、伝統的言葉で言うならば国体に関する問題を放置し過ぎた。そのために無責任なコスモポリタニズムと危険な排外的民族主義へと言説の二極分解が生じています。圧倒的大多数の日本人は両極の言説に違和感を感じていると思いますが、、双方の極論の中間をとれば正解が出るわけではない。誤謬と誤謬の中間はり誤謬なのですよ。
今年(二〇〇五年一は、九月十一日に行われた総選挙に対する配慮から、小泉総理は八月十五日に靖国神社を参拝しませんでした。選挙は戦争ですから、勝つためには何でもありです。
争点を郵政民営化一本に絞って、敵・味方をはっきりさせるという小泉総理の戦術は合目的的です。争点を拡散させないために総理は八月十五日の靖国参拝を断念しましたが、小泉さんは年内に必ず靖国神社を参拝すると思います。そのとき中国や韓国は「小泉総理は八月十五日を外して、われわれに配慮してくれた」と感謝するでしょうか。そんなことはありません。「行かないフリをしてよくも編したな」と怒る可能性の方が高いと思います。
弥縫策で負のエネルギーをため込むよりも、この辺で小泉総理が正々堂々と靖国神社を参拝し、正面から中国や韓国と対時することを通じて、日本国家がどのように近隣諸国と付き合うべきかを徹底的に考えた方が良いと思います。そこから日本国家のあり方、つまり国体を日本人が真剣に考え、「誠心」を見出すなら、中国や韓国の名誉と尊厳を担保しつつ、日本の名誉と尊厳を維持、発展させる道を見出すことができると私は信じているんですよ。(P70−P77)
(私のコメント)
今日のテレビは朝から小泉首相が靖国神社を参拝するということで、上へ下へと大騒ぎですが、一国の総理大臣が国のために死んだ戦死者を祀った神社を参拝して何が悪いのかという感想しか持ちませんが、唯物史観の左翼にはこれが理解できないらしい。中国などでは寺院や教会がほとんど目につきませんが、共産主義国家の中国人には神や仏の存在が理解できないのだろう。
その意味では、共産主義が崩壊したロシアは寺院や教会に対する感情が理解できるのだろう。しかし中国などでは「わが国を侵略した大悪人を祭った神社」に参拝したということで反対しているのでしょうが、神社というものに対する理解が不可能なのだろう。神や仏というものが理解できない野蛮人と神の存在を否定する無神論者とはよく似ていますが、中国人は神というものが理解できない野蛮人なのだろう。
キリスト教徒の中にも靖国神社参拝に反対する人たちがいますが、靖国神社を擁護するキリスト教徒もたくさんいる。そもそも国家と宗教に対する議論が十分なされていないところで、司法の場で違憲かどうかを判断を求めるというのも短絡的であり、反政府運動の一環として、首相の靖国参拝は違憲だと騒ぎ立てているのだろう。その意味では神を信じない野蛮人と連帯を組んでいる左翼は親和性が高いのだ。
だから中国人が、日本人が死んだら神や仏になるという意味が理解できなくても仕方がないのです。逆に日本人が、中国人は死んでも墓を暴いてまでも死骸に鞭を打つほど恨みを抱く気持ちも理解できない。本当かどうかはわかりませんが中国人は赤ん坊を料理して食べてしまうそうですが、神や仏を理解できない野蛮人ならやりかねない。
このような中国の靖国参拝批判に対して、韓国でも批判が高まっていますが、韓国の批判は中国と連帯しての批判と、反日活動の一つとしての批判なのでしょうが、これも国家と宗教の関係を考えると、靖国参拝批判は外国からの内政干渉と信教の自由への批判になりかねない。だから本来ならアメリカや英国などからも靖国参拝批判があってもおかしくはありませんが、彼らは文明人だからそのようなことはしない。
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