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シリーズ、『市民政治』の再生を考える[7]/『郵政民営化の詐術』が隠蔽したもの
<注>下記の中で「5−(1)」の部分は、文脈上の繋がりを明確にする目的で当シリーズ[6]から再録しました。
5 国会中心財政主義と特別会計(1)
(アカウンタビリティと国会中心財政主義)
民主主義国家の国民に対する最大の責務を一つだけに絞るとすれば、それはアカウンタビリティ(Accountability/説明責任)です。また、国家財政に関するアカウンタビリティを保証するのが「国会中心財政主義」(総計予算主義/すべての予算を一般会計に計上して一般会計に一覧性の性質を保持させること)の概念です。周知のとおり、日本国憲法と同じように連合国軍の占領下で起草された「ドイツ憲法」(通称、ボン憲法/正称、ドイツ連邦共和国憲法)には「日本国憲法」と根本的に異なる性質があります。それは、初めから“ドイツ憲法の授権規範性”ということがドイツの政治権力者たち自身によって明確に意識され、かつ国民一般に対してもこの点が十分に周知徹底されてきたということです。そして、この「ドイツ憲法」には、授権規範性の一つの現われとして。「私法への逃避」(Fulicht in das Privatrecht/いわゆる“民営化”)を制限するという根本的な考え方が備わっています。なぜなら、国家が行うべき重要な行政活動を安易に私法形態で行うことになると、憲法が規定するドイツの国家としての根本的なあり方が変質してしまう恐れがあるからです。
このような事情から、ドイツ憲法は国家財政が「国会中心財政主義」(総計予算主義)に徹することを明確に規定しており、「特別会計」の設置も原則として認めていません。このため、ドイツ国有鉄道と郵政事業は特別に必要性が高い「特別会計」(国営事業)として、憲法が規定する「国会中心財政主義」(総計予算主義)の法律効果が及ぶ範囲での特別法措置に基づいて設置されていました。なぜなら、これ以上に「特別会計」の枠が増えると「一般会計の一覧性の性質」が機能しなくなり、憲法違反の疑義が生じてくるからです。また、このドイツ国有鉄道と郵政事業が民営化された時(1980年代、日本の旧三公社(日本国有鉄道、日本電電公社、日本専売公社)が民営化された頃とほぼ同じ時期)には、「ドイツ憲法」が改正された上で民営化条項が挿入されています。つまり、ドイツでは、国有鉄道や郵政事業のような非常に大規模な国営事業が安易に「私法への逃避」(民営化)へ向かうことを認めるのは憲法違反になると考えられているのです。そして、このように相矛盾する方向(国営事業化(特別会計化)と民営化)で一種の綱引き現象が生じたにもかかわらず、「ドイツ憲法」に対する国民の信頼は揺るがなかったのです。なぜなら、ドイツ国民は、政府が「憲法の授権規範性」下にあるからこそアカウンタビリティの義務を果たすことができるのだということを理解しているからです。
(巨大な特別会計が誕生した背景)
ところで、現代憲法が成立するまでのルーツとプロセスを共有(明治憲法は主にプロイセン・ドイツ憲法を手本として成立し、日本国憲法は米英法の影響を受けつつ明治憲法の改訂の形式を採っている/詳しくはBlog記事「『改憲論』に潜むナチズムの病巣」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050519を参照)しながら、なぜ日本の一般社会では「憲法の授権規範性」に関する意識が明瞭でないのでしょうか。法曹界にかかわる専門家は別として、恐らく、それは日本人一般が「普遍性の概念」に関して希薄な意識しか持っていないからではないかと思われます。別に言えば、現代の日本人は未だに自分自身の中に「ユニヴァーサル(世界)意識」を持つことができていないということです。更に言えば、現代の日本人は、世界共通の普遍的なものの認識、人間はたとえどんな人間であったとしても、この世界に同じ人間は二人とはいないという一回性の意識というか、そのような意味での「強靭な個性と人間性」(アイデンティティ)を相互に尊重するという考え方に立って、政治・経済・社会の諸々の動きや制度を批判することが苦手なのです。このような観点で見ると、現代の日本人の意識が未だに「江戸・藩幕政治時代の鎖国の眠り」の中を浮遊していることが分かります。つまり、多くの日本人は、「新自由主義」(市場原理主義)、「民営化」など一見セレブなネーミングの「新しい形の植民地主義」が襲来しつつあることと、その本性(貪欲な残忍性)の恐ろしさに気がついていないのです。
どうやら日本国民は、世界の人類が「平和」、「国際法」、「基本的人権」、「生存権・社会権」、「主権在民」、「自由・平等」などの普遍的価値観を自らのものとするため、どれだけ多くの苦難と人的な犠牲(戦争・殺戮・抑圧など暴政と蛮行による流血・搾取・抑圧などの被害)を積み重ねて蒙ってきたかという歴史体験について“深刻な理解”が身についていないようです。最近、与党政府(小泉政権)が「郵政民営化法案」の国民一般への啓蒙の(支持を得る)ために「B層国民(IQが低い層?)をターゲットとする戦略プロジェクト」という「日本国民の基本的人権」を蹂躙するような広報戦略に密かに取り組んでいたことが明るみに出た(http://tetsu-chan.com/05-0622yuusei_rijikai2.pdfの資料を参照)にもかかわらず、殆んどのマスメディアも国民も“そのコトの重大さ”(憲法違反の疑義があること)に殆んど気づいていないようです。この事例は、まさに日本政府と日本国民の双方が「憲法の授権規範性」を殆んど認識していないということを示す象徴的な出来事です。従って、そこでは政府に対して厳しくアカウンタビリティを要求する国民の姿もなく、日本政府自身にもアカウンタビリティを率先すべきだという“危機意識”(民主主義崩壊の危機!)がありません。もし、この出来事がドイツであったならば、ナチズム(ヒトラー政権)の再来だと非難を受けたことでしょう。ともかくも、このような、ある意味で呑気な「政府と国民の伝統的なもたれ合いの姿勢」の中から「巨大化した特別会計」という財政のモンスターが誕生したのです。(特別会計の具体的な歴史は次章へ譲ることになります)
5 国会中心財政主義と特別会計(2)
(特別会計の法的根拠と歴史)
明治期の会計法(明治22年(1889)、大日本帝国憲法発布と同時に制定)は、当シリーズ[6]で既述のとおりドイツ法理論の影響下にあったため原則的に「特別会計の設置」は認めていませんでした。しかし、明治維新政府は、「御用金制度」という絶対的・暴力的政治権力を笠に着た江戸幕府の大福帳会計的な悪習(財政手法)を引き継いでいました(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050804)。実は、このことが現在の小泉政権による『郵政民営化の詐術』の問題にまで繋がっているのですが、残念ながらこのことは一般に殆んど意識されていません。しかし、このように一見では些細に見える出来事が日本の近・現代に大きな災いを及ぼしてきたのが事実であり、今まさに、それが更に大きな災禍をもたらそうとしているのです。驚くべきことですが、会計法が制定された翌年にあたる明治23年には既に33もの特別会計が存在していたのです。このような傾向を後押しする動因には、西欧先進諸国へ追いつくための維新政府による殖産興業政策がありました。つまり、本来であれば民間が行うべき製鉄・造船などの産業を先ず政府自らが急いで取り組む必要があった訳です。この点は仕方がないと思われますが、問題はそのシステムの膨張に歯止めが掛からなくなったことです。
このようにして、明治から昭和初期までの日本では法的根拠が曖昧なまま「特別会計」が設置され続け、太平洋戦争に向かう軍事体制下では、戦時統制経済の必要性が叫ばれたため、更に増え続け昭和17年にはその数が51に達しています。しかし、昭和20年(1945)の敗戦で軍事目的の必要性が消えるとともに特別会計の数は減り始め、昭和22年には25まで縮小していました。因みに、この戦中〜戦後処理のプロセスで日本国民の資産が悉くデフォルトされてしまったことは周知のとおりです。ところで、昭和22年に新たに制定された「財政法」は、明治期の会計法が原則禁止していた特別会計の方針を撤回・放棄してしまいます。このため、現行の「財政法13条1項」は一般会計とは別に「特別会計」を設置することを許容しており、更に同2項では「事業特別会計」(公営企業体の特別会計)、「資金特別会計」(資金運用目的の特別会計)、「区分経理特別会計」(直轄事業別の特別会計)を認めているのです。
なお、明治期における「特別会計」の第1号が「西南戦争」(明治10年/1877)の直後に始まったことを忘れるべきではないようです。周知のとおり、この時の戦争経費(戦費)は、それに先立つ地租減税(米価下落による農民一揆対策)とともに銀行紙幣と政府紙幣の増刷で賄われた(ファイナンスされた)ため西南戦争後の日本財政は歳入不足と大きなインフレに同時に襲われ苦しむことになりました。このため、インフラ整備の名目で日本最初の内国債(公募内国債)が発行され(大蔵卿、大隈重信の提案)、この国債に対する応募(インフレの勝ち組による)は順調で予定額の2倍に達しました。そして、この時の収入金(約1,000万円)が「起業公募基金」の名目で一般会計と区分して「特別会計」処理されたのです。この後の日本経済は更にバブル化します。それまでの間に金禄公債を出資金として設立された各国立銀行の貸し出しも加熱し始めたのです。しかし、同時に、この時にこそ日本財政の隠蔽体質のタネ(特別会計システム)が仕込まれたことを見逃すべきではないようです。つまり、「この時の日本政府のアカウンタビリティは十分であったのか? 通常の財政規模に比べてかくも過大な収入金を何故に「起業公募基金」名目で「特別会計」処理をする必要があったのか?」についての理由が判然としないのです。(参考:明治8年の歳出額=6,600万円/http://www.nri.co.jp/opinion/chitekishisan/2005/pdf/cs20050108.pdf)
(現在における特別会計の根本問題/『郵政民営化の詐術』が隠蔽したもの=「政府・財 務省の責任回避」と「国家財政リスクの国民への転嫁」)
今、ごく一部の専門家の中から“「郵政民営化」が「膨大な財政赤字拡大」の責任逃れのための一種の擬装工作(本当の責任は政府と財務省にあるにもかかわらず、その責任の一切を郵政(郵貯・簡保)へ巧妙に責任転嫁した)ではなかったのか?”、また“その真の狙いは民営化に名を借りた国家財政リスクの国民への転嫁ではなかったのか?”という疑念の声が出始めています(下記URL★参照)。周知のとおり、2001年4月から「財投改革」と呼ばれる政策が既に実施されています。これは、「郵便・年金の預託義務」(国民が預けた郵便貯金や年金積立金などの資金枠(約350兆円/このうち約140兆円は国債の受け皿となっている)がいったん財務省・資金運用部に預託されて、財政投融資の資金(このうちかなりの額が焦げ付いて不良債権化しているとの噂もある)に流す仕組みを廃止するための「財政投融資改革」のことです。しかし、国の信用をバックにして発行される財投債は名前を変えた新種の国債に他なりません。「財政融資資金特別会計」から借り入れをした特殊法人等に損失が発生した場合に、最終的にその償還財源を租税に依存せざるを得ないのであれば、財投債は国債と何も変わりはないのです。むしろ、このように中途半端な国家財政の仕組みを新しく作ったため、既に1,000兆円を超えた日本の国家的な財政赤字(地方債、償還利子込み)は、更にその上に大きな赤字を積み上げてゆく恐れがあります。実は、この“政治的眼眩まし”は小泉首相のオリジナルではなく、それは小泉首相の影で糸を引き続けている財務省(旧大蔵省)の伝統的な得意技なのです。
小泉首相は、それを得意のワンフレーズ・ポリテクスに置き換えているだけです。今まで当シリーズで見てきたとおり、日本の近代財政史を幕末から明治維新期ころまで遡ると、このような“政治的眼眩まし”(責任転嫁と問題の先送り)が連綿と実行されてきたことが分かります。しかも、時代の変革期には必ず国家的な債務(現在の国債・財投債等に相当)の“大仕掛けな踏み倒し”(植民地主義・軍国主義政策等による破綻の結果を国民へ押し付ける強権的デフォルト)が実行され、善良な「負け組みの一般国民」が犠牲になってきたのです。例えば、幕末〜維新初頭期の御用金調達(国家的かつあげ?)、貨幣改鋳(悪化への切り替え、贋金造り)、強引な債務の踏み倒しと付け回し、政府紙幣(金札)増刷→兌換紙幣への転換、公募公債発行・・・という訳で、このような手練手管の中から「特別会計」という“打ち出の小槌”が案出されてきたという経緯があります。そして、トコトン行き詰まった直近の事例でが、太平洋戦争時の戦時経済体制による財政全体(国・公債、紙幣、預貯金等)のデフォルト(太平洋戦争直後の戦後恐慌)ということです。
このように見てくると、いわば日本の“先進諸国並み”の「財政民主主義への道程」は二度(明治維新期(西南戦争直後)、太平洋戦争期)殺されたようなものですが、今や『コイズミ・郵政民営化』の目眩まし戦術、つまり『小泉劇場』によって国家財政と日本国民の資産は三度目の死を迎えつつあるのかも知れません。これを真剣に支持した「ヘタレ・ショタレ保守層」や金融・経済の専門家及び各界の知識人たちにとってはいい面の皮かも知れません。しかも、このような危機的状況であるにもかかわらず、テレビ・新聞などマスメディアは相変わらず勝てば官軍だとばかりに小泉首相へのゴマスリ&提灯報道で、『郵政民営化』こそが日本の財政危機の救世主であるとコイズミ風ワンフレーズを喧伝するばかりです。彼らの日課は小泉劇場をキンキラキンに飾った厚化粧の姥桜たちや、お笑いタレント風アンちゃん議員の尻尾を追い回すことに終始しているようです。未だに『小泉劇場』の余韻覚めやらぬどころか、皆さん目覚めてはいけませんヨとばかりに小泉劇場の『幻想のバブル』(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050912)を蒔き散らしています。その上、愈々「バブル経済待望論」までが週刊誌等の見出しを飾り始めています。例えば、「AERA/10月17日号」の新聞広告(10/10付)では“マネー激流、バブルふたたび”の大きな見出しが躍っています。
現在、特別会計の数は38あり、その特別会計と同様の機能を持ちながら法的根拠も曖昧な「特殊法人」(77)と「認可法人」(86)の合計が163もあります。そこで、先ず問題なのが全体の国家財政に対するこれら「特別会計」の位置関係と必要性と役割の不明朗さであり、二つ目の問題はその内容の不透明さです。このため、これら「特別会計」の目的の多くが、実は私益・私腹のためでないのかという疑念が膨らむ一方です。一般会計と特別会計が単純に仕切りできるなら話は簡単ですが、厄介なことに、この両者の間で資金が複雑な形で遣り取りされているのです。つまり、個々の会計内容を見ても重複勘定が見えてこないように仕組まれているのです。ただ、全体規模の直感的なイメージは「歳入・歳出決算の概況」を見ればつかめます。松浦武志著『特別会計への道案内-387兆円のカラクリ-』から平成12年度の数字を再録すると以下(●)のとおりです。この観点から見ると、日本の本当の国家予算は260.3兆円(84.9+175.4)であり、実際の予算規模は公表されている「一般会計予算」の約3.1倍もあることになります。これで、どうして日本は憲法が存在する「国会中心財政主義」の民主国家だなどと胸を張って言えるのでしょうか?
●一般会計(歳出)84.9兆円、特別会計(歳出)318.7兆円、特別会計(歳出)の重複143.3兆円、特別会計の純計(歳出)175.4兆円、
現実的には、このように怪異な国家財政の姿を国会で突っつき合い議論しても魑魅魍魎の数字にとり憑かれるたり、もぐら叩きになったりするばかりです。従って、民主主義国・日本の「国会中心財政主義」の建て前は、文字通りの“建て前”に留まってきているのです。これは明らかに憲法違反です。また、従来からも特別会計の数を減らすべきとの議論はあったのですが、そこで考案されたのが、特別会計を減らす代わりに“特別会計と同様の機能を持ちながら法的根拠も曖昧な「特殊法人」と「認可法人」を創る”という手法でした。謂わば、これは政府と財務省(旧大蔵省)の合作による手品師のような手際だった訳です。小泉カイカクでも同じ手法が使われました。それが「独立行政法人」化であり、これには「天下りポストの増加」というオマケまで付いていますから噴飯ものです。小泉首相が“憲法を破るなんて大したことではない!”という姿勢(例えば、靖国神社参拝の高裁による違憲判決に対する批判など)をチラつかせる背景には、このような事情に対する深謀遠慮があるのかも知れません。
ともかくも、「国会中心財政主義」を言い換えれば、それは本格的な「財政民主主義の実現」ということです。法制度的な側面から見れば主権在民の理念を議会制度で実現するのが民主主義の正しいあり方ということになりますが、「財政民主主義の実現」という観点からすれば、それは「民主的な財政基本構造」を確立するということです。しかし、残念ながら近代国家・日本は今まで見てきたとおりの有様で、現在に至っても未だに「民主的な財政基本構造」を完成させていません。それどころか、小泉政権は『郵政民営化』によって、この本物の「財政民主主義の実現」へ向かう道を閉ざしてしまったのです。これを支持した「ヘタレ・ショタレ保守層」や金融・経済の専門家及び各界の知識人たちを中心とする日本国民の多くは、「合理性」と「民主主義」の意味と役割及び近代民主主義発展史の勉強をゼロからやり直す必要があるようです。それにしても、ドイツを始めとする欧米など世界各国の先進的な視野と比べて、そのあまりの時代錯誤ぶりには愕然とするばかりです。
★[citizens-public] 小泉批判(中京大学、河宮信郎氏)
http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-September/003439.html
★河宮信郎・青木秀和の意見(Alternative Media掲載)『郵貯・簡保の自然縮小と国家財政基盤の崩壊』
http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/kawamiya-aoki-col001.html
(参考)当シリーズで参照した主な各種資料とURLは省略します。その詳細については当シリーズ[1]〜[6]の末尾を参照してください。また、当シリーズは継続するつもりですが、一応、「日本財政史関係のトピックス」は今回で一つの区切りとします。
(参考URL)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/
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