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★ ニューヨーク教区から来日したフランシス・スペルマン枢機卿の援助と駐留米軍属の募金で設立され、日本財団とも親しい、仙台の「光ケ丘スペルマン病院」で、乳児の連れ去りが発生した。
「光ケ丘スペルマン病院」の院長は、仙台教区の重鎮・鷹觜達衛神父。
ベトナム戦争当時、戦闘機に聖水をかけて米軍の勝利を祈っていた、イエズス会のスペルマン枢機卿は、裏世界のすべてに通じ、「黒い教皇」と呼ばれた。
6日午前3時40分ごろ、仙台市宮城野区東仙台6の「光ケ丘スペルマン病院」から、産婦人科の病室に入り込んだ男が乳児を連れ去ったと110番通報があった。宮城県警仙台東署は未成年者略取事件として捜査本部を設置、緊急配備を敷いて捜査している。
調べでは、連れ去られたのは同区の会社員、山田斉(ひとし)さん(27)の長男柊羽(しゅう)ちゃん(生後10日)。男は同病院第3病棟3階の307号室に「火事だ」と言いながら入り、柊羽ちゃんと添い寝していた母親(23)が驚いたすきに柊羽ちゃんを抱きかかえ、そのまま連れ去った。柊羽ちゃんは白い産着姿。同室は4人部屋で、母親は入り口に最も近いベッドにいた。
男は40〜50歳、身長約175センチ。髪は七三に分け、左腕にワッペンの付いた黒いハーフコートに白いズボン姿。軍手とマスクを着け、赤系の縁の眼鏡をかけていた。捜査本部は同病院の内部を知る者の犯行とみて捜査している。
男は3階の看護師詰め所で、院長の名前を書いた紙片を見せ「院長に会わせろ」「おれと院長のことだから」と詰め寄っていたという。詰め所には当直の看護師2人がおり、対応している間に病室に向かった。紙片には名前のほか意味不明の記述があったという。
母親は男がマスクをしていたことから、病院関係者が救助に来たと思い込み、病室を出て左側にある詰め所に向かい、男は反対側の非常階段方向に向かったという。5日午後9時に施錠した非常口が開いていたことから、そこから逃走したとみられる。
病棟の1階正面玄関は施錠されていたが、職員通用口は無施錠で警備員もいなかった。【赤間清広、青木純、伊藤絵理子】
昭和27年頃、カトリック北仙台教会の主任司祭であったピエール・ビソネット神父は、結核に悩む貧しい人たちのために無料で治療する病院を建てようと、当時仙台に駐留していた米軍およびその家族から寄附を集め、また来日中のスペルマン枢機卿(ローマ教皇の選挙、補佐にあずかる職)の援助を得て資金を作り、昭和30年当院が開設されました。
「光ケ丘」とは、聖書の中の「闇の中を歩む民は大いなる光を見る」 という由来によるもので、苦しみを通して喜びを見い出すの意味がこめられています。
○日本財団(建築施設数:11施設、245床)
ピースハウス病院(神奈川県足柄上郡)
聖ヨハネホスピスケア研究所(東京都小金井市)
聖隷三方原病院(静岡県浜松市)
光ケ丘スペルマン病院(宮城県仙台市)
賛育会病院(東京都墨田区)
日本赤十字社医療センター(東京都渋谷区)
薬師山病院(京都府京都市)
高槻赤十字病院(大阪府高槻市)
聖心病院(熊本県熊本市)
癌研究会(東京都江東区)(建設中)
日本バプテスト病院(京都府京都市)(建設中)
○(財)笹川医学医療研究財団
在宅ホスピスケア研究助成
■ 成城教会 主任司祭の挨拶 『8月に思いめぐらす コンスタン・ルイ』より抜粋:
フランスがベトナムで負け、撤退した後アメリカが乗り込み徹底的に戦争を続行しました。当時の新聞に載っていた一枚の写真が私の脳裏に焼きついており、未だに、よく夢にも出てきます。その写真とは当時ニューヨーク教区の枢機卿、スペルマン枢機卿が爆弾を積んだ戦闘機に聖水をかけ、祈っておられる場面です。教会の有数な指導者である人が何をするのだと大変ショックを受けました。彼は平和を求めて祈るはずです。彼の平和への祈りはいい加減なものなのか。当時、米国はベトナムに空中から植物を枯らす薬を撒き人間が住めなくなるようにする枯葉作戦を行っていました。彼はその事を知らないはずはないのに、なぜ戦闘機を祝福するのか。ベトナムの人たちを虫ケラ以下に見ているのか。その写真は私の中に深いトラウマを残しているのです。