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近藤貞雄さん:戦後の名将死す 関係者から惜しむ声
先発、抑えの投手分業制などの独自理論で球界に新風をもたらした元中日監督の近藤貞雄さんが2日、亡くなった。アイデアマンとしての評価がある一方、監督時代は審判への猛烈な抗議でナインを鼓舞するなど、ファンに根強い人気があった。戦後のプロ野球界に貢献した名将の死去に、関係者から惜しむ声が相次いだ。
引退後の1955年から、中日などの投手コーチとして名声を高めた。投手分業制は、中日コーチ時代の61年、ルーキーとして35勝(19敗)を挙げた権藤博(後の横浜監督)の起用法が反省にあったと言われる。当時、「権藤、権藤、雨、権藤」という言葉が有名になるほど連投が相次ぎ、結果的に短命に終わった。先発完投型の投手が常識だった時代だが、65年から板東英二を抑え投手に指名。継投策で投手の負担を少なくし、勝ち星につなげた。
中日監督時代の82年、自ら名付けた「野武士軍団」を率いてリーグ優勝。故障に泣いた小松辰雄に代えて牛島和彦(横浜監督)らを抑え投手に育てた。アイデア野球の背景には、投手生命を左右する右中指を負傷しながら、変化球のチェンジアップをマスターして見事に復活した近藤さん自身の体験があった。
監督時代は、両手を後ろに回して審判に猛烈に抗議する姿もトレードマークとなった。やはり熱血漢で知られた米大リーグ・ヤンキースのビリー・マーチン監督に似ていたことから、「日本のビリー・マーチン」と呼ばれた。【仁瓶和弥】
▽横浜・牛島和彦監督 (中日監督時代に抑えに指名され)実績がなかったのにびっくりしたが、優勝を経験できて、プロでやっていける気持ちになった。あの時、使ってもらったから今の自分がある。心からご冥福申し上げます。
▽阪神・星野仙一シニアディレクター(元中日投手) アイデアを広く取り入れ、常に新しいことにチャレンジされていた。野球界を非常に面白くされた方だった。
▽野球解説者・谷沢健一さん 若手に「谷沢をお手本にしろ」と言ってくれたことがあり、選手をやる気にさせる配慮があった。投手分業制が注目されるが、選手の個性や特徴を生かし、ベンチ入りの25人全員で勝つ野球をしていた。サービス精神があり、プロ野球は誰のためのものか、ということを常に考えていた。
▽野球解説者・加藤博一さん 一番思い出深いのは大洋時代に自分と高木豊、屋鋪を(快足自慢の)「スーパーカートリオ」として売り出してくれたこと。自分は盗塁失敗が多かったが「50回アウトになっても100回セーフになれ」と励ましてくれた。気配り上手で、ダンディーで、チームのまとめ方がとてもうまい方だった。
▽西川順之助・中日球団社長 30年以上、近藤さんとは親交がありました。入院したと聞き、お見舞いにも伺いましたが、心配していました。御冥福をお祈りします。
▽中利夫・中日OB会長 具合がよくないと聞いていたが、驚いた。一番思い出は昭和30年に入団した時、2軍監督になったばかりの近藤さんに、タッチアッププレイでもの凄く怒られたこと。瞬間湯沸器とも言われたけど、喜怒哀楽のある方でした。
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060103k0000m050049000c.html