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先月19日、逝去したダイエー創業者の中内功氏(享年83)は平成13年、ダイエーの役職から身を引いて失意の日々を送るなか、パソコンメールで無聊を慰めていたという。相手の一人が、東京・浅草の遊園地『花やしき』の名物園長だった高井初恵さん(82)。中内氏が8月26日夕に倒れた当日も、メールをもらっていた。高井さんが“メル友”との秘話を明かしてくれた。
≪引越しの真っ只中 暑い日がつずきます 秋風もさびしそう 選挙この国はどうなるのでしょうか 民主主義とは何だったか もう一度考え直すときかもしれません≫(原文ママ)。8月26日、最期のメールが高井さんに届いた。
引っ越しとは、ダイエー処理の私財提供で8月末までに東京・田園調布の屋敷を出て、広尾のマンションに移ることだった。「引っ越しは、こたえたでしょう。いっぱい本があって『憮然としている』なんてメールもありました。4月にはウチにきて一緒にラーメンを食べていったのよ」と高井さんは振り返る。
6月25日には、≪何かと雑用に追われています 何とかはやう解決をと努力しています 一度お伺い と考えています 小柳のうなぎ楽しみに≫とメールが来た。ラーメンの後、浅草の老舗うなぎ店「小柳」に行こうと約束していたからだ。
「2人とも大正11年生まれで同い年。中内さんが8月2日生まれで、私が12月4日だから、私が妹かな。ガールフレンド? こんなお婆さんがガールフレンドだったら、中内さんもヤになっちゃうよ。デートなんてしません、メル友よ、メル友」(高井さん)
中内氏と高井さんがメル友になるまでには、2人の登場人物がいる。高井さんの仲間で『浅草おかみさん会』理事長の冨永照子さん(68)と、同会顧問格の経済評論家、針木康雄氏だ。
中内氏はこんな激励の書も送っていた
冨永さんは「ゴーストタウンになりかけてた浅草を昭和51年から再開発するとき、針木さんに相談したの。そしたら、針木さんから『中内さんは夢もあるし、すごい男だ。紹介しよう』って洗脳されて、中内ファンになってたのよ。そうこうするうち20年ぐらい前かな、地域活性策でニューオーリンズのジャズバンドを招いたライブを開いたら、切符売り場に中内さんが並んでいるのを見つけた。飛んでいって『浅草に力を貸してっ』て。もちろん初対面だわよ」と話す。
中内氏はどうやら、テレビでライブを紹介するニュースを見て、ふらりと来たらしい。
「それが中内さん。好奇心とチャレンジ精神の塊ね」(冨永さん)
おかみさんらの「浅草には若い人が来てくれない」という訴えを聞いた中内氏は、レストランを出店し、「欽ちゃん劇場」もつくった。
こんなエピソードもある。冨永さんが続ける。
「おかみさん会が懸賞を出し続けてきた関取の後援会長をやってくださいと頼むと、即座に『いいよ』と。それで、相撲が好きなのか聞いたら、『見たことあらへん』。私の見るところ、中内さんは無芸なんだと思う。でも、みんなでカラオケに行くと一番に歌うの。座をもたせる気配りね」「でも、震災のとき、神戸の本部へ見舞いに行ったとき、テキパキと指示を出す仕事ぶりを目の当たりにしたんだけど、あれはオーラが出ていた。歴史上の人物よ」
高井さんも「ホントに情のある方だった。平成13年に主人を亡くしたとき、弔電から枕花…、通夜にいらしてご焼香といたれりつくせりにお世話いただいた」と話す。
最近、福岡のシーホークホテルを訪れた冨永さんは、「ホテルはダイエーの手を離れて、礎石に『施主・中内功』とあったきりだけど、これだけでいいのかな」と感慨深げだった。
おかみさんらは11月、浅草のジャズバー『HUB』で偲ぶ会を開く準備を進めている。HUBも浅草に若者を呼ぶため、中内氏が支えた店だった。
ZAKZAK 2005/10/24
http://www.zakzak.co.jp/top/2005_10/t2005102432.html