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人が地球を破壊しているが
持続可能な社会はあるのか
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人は150人程度のまとまりしか認知できない!?
田中健一
進化の遅れが環境問題
『ヒトは環境を壊す動物である』(ちくま新書、小田亮著)という本がある。
大学で環境教育を担当する小田氏は、「環境問題については人並みには理解があります。例えば肉食はエネルギー的に無駄の多い贅沢だということは知っています。しかしおいしいので菜食主義者になるつもりはありません。……」(同書p8)と、「わかっちゃいるけどやめられない」自分の現実を吐露している。これは小田氏のみに言えることではなく、誰もが同様の矛盾を感じながら生きているだろう。自分達の日常生活を吟味してみても、かなり曖昧にしていることはたくさんある。同書ではこれを、人間の意思の弱さからのみ考えるのではなく、認知能力をはじめとする進化の問題として捉らえることを提唱している。
「わたしたちの認知能力も、うまく捕食者から逃れる、あるいはなるべくいい配偶者を得るといった、具体的で個別な問題を解決するようなつくりになっていると考えられます。生態系といった大きなスケールのなかで自らの存在を考えるなどといったことよりも、今日をいかにして生き延びるか、ということの方が、わたしたちの先祖には大事なことだった」(同書p30)。
人間も自然淘汰によって環境に適応し、生態系のなかに組み込まれている生物種である。つまり他の種や周囲の非生物的環境との相互作用なしには存在しえない生物である。それゆえ生態系を保護する必要を人は大きな枠としては誰もが認める。
そして実際には相互作用は、空間的にも時間的にも非常に大きなスケールで起こる。「今日をいかにして生き延びるか」という利害は、ずっとスケールの小さなものである。人間の進化のプロセスを考えると、私達は基本的にこのような日常的なスケールでしか物事を捉えられないようにできているのかもしれない、というのだ。このズレこそが環境問題である。
150人の集団に適応
同書では進化心理学者のロビン・ダンバーの次のような説をあげる。
人間は捕食者対策のために集団を形成してきた。霊長類には集団サイズと大脳新皮質のあいだの一般的に回帰直線という関係がある。公的管理機構が必要とされるビジネス組織の下限が200人程度であること、近代軍の中隊の規模が100人から200人程度であることなどからいって、現代社会でも人間がある程度お互いを認識してまとまりを保てるのは、せいぜい150人前後なのである。この関係で考えると、「現代人、すなわちホモ・サピエンスがもっている大脳新皮質の割合に見合った集団サイズは、約150人であることが分かりました。つまり、わたしたちの脳は150人の集団のなかでうまくふるまうためにできていることになります」(同書p96)。
人間の大脳の進化から考えると、人間の認知能力は大きな集団には向いていないということなのだ。人間は150人位の集団のなかでふるまい、相互関係をつくって、捕食者から身を守り生きながらえてきたのである。家族、知人、学校、会社、地域への配慮は優先されはするが、国や地球レベルでの問題に対しては軽んじたり無関心でいられるのも、人間がロビン・ダンバーの言う150人位の集団に適応し進化してきたからこそ、そのような傾向を持つのであるということになる。
身の丈サイズへの変換
ローマクラブの『成長の限界』(ダイヤモンド社、p5)の序論に、「人間の視野」という、時間を横軸に、空間を縦軸にしたグラフがある。ほとんど多くの人達は家族や友人に対する短期的なことに関心が集中している。しかし一方で、時間的にもっと先まで見通し、町とか国といったさらに広い範囲のことがらに関心を持っている人や、少数だが遠い未来に広がる全世界的な関心を抱いている人の存在も確認されている。
先の小田亮説のように、人間は「身の丈サイズでしか考えられない」と言い切れない人達の存在があったからこそ、私たちの今があるのだ。
人間と環境のズレの存在に気付き、そのズレを小さくしようという行動や変革があったからこそ、今日の環境問題は俎上にのせられてきたのである。今も世界各国で多くのNGO等のグループや個人が、環境や戦争、人権問題等の社会的な矛盾を解決しようと日々努力をしている。これを忘れてはいけない。
私たちは超時空的に存在しているのではない。過去の人間の営為によって今存在している。人間が進化の産物として、身の丈サイズでしか物事を捉えられない傾向にあるとしても、そのこと自身と不断に葛藤しているのも人間なのである。身の丈サイズだけで考えているだけでは、いずれ自分達の生命維持さえも困難になることを自覚するから人は行動するのである。それが自分や家族、子孫の命という身の丈サイズへのフィードバックの中味だろう。
(地方公務員)
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HPIという指標がある
地球上で最も幸せな国はバヌアツだ
中村正明
地球上で最も幸せな国は、人口20万人で経済活動も小規模な南太平洋の島国バヌアツ共和国。イギリスの独立系シンクタンクnef(The New Economics Foundation)が今年7月12日公表した「地球幸福度指標」(nefはHPI―The Happy Planet Indexと名づけている)で、このような結果が出た。先進国は軒並み順位が下で、日本は対象178ヶ国中95位、ドイツ81位、イギリス108位、米国150位などとなっている。時事通信がこのような記事を配信したので、インターネットから公表された資料を入手して読んでみた。
各国のひとりあたりGDPが、必ずしもその国に住む人たちの「豊かさ」を表すものではないことは、本紙の読者なら先刻承知のことと思う。GDPに代わる様々な指標も各種機関や研究者が提案し、本紙上でも紹介されてきている。今回のHPIにはHAPPY(幸福)とPLANET(惑星)という言葉が使われている。どのような点が今までの指標と違っているのだろうか。
HPIは次のように算出される。HPI=(生活満足度)×(平均寿命)÷(エコロジカル・フットプリント)。
平均寿命は誰でも知っているだろう。エコロジカル・フットプリントも最近知られるようになってきている。一人あたりの生活を維持するために必要な土地の広さのことだ。平均寿命もエコロジカル・フットプリントも客観的に算出される指標である。問題は生活満足度(Life Satisfaction)だ。
これは「あなたはこれまでの生活にどれだけ満足していますか」と問い、ゼロから10までの数値で回答したものを集計したものだ。主観的な数値なのである。
「生活満足度」は主観的なものでしかないが、このような指標をあえて使ったところがHPIの特徴ではないだろうか。HPIの算出式から分かるように、この指標は地球への負担をかけずに、どれだけ幸福な人生を得ているかということを意味する。HAPPYとPLANETはそういう意味なのである。
算出式中の各指標にどれくらいの重要度をおいているかという点にも、この指標の工夫が見られる。では結果を見てみよう。冒頭に書いたように第1位はバヌアツである。平均寿命は68・6歳、生活満足度は7・4、エコロジカル・フットプリントは1・1ヘクタールである。ちなみに日本は平均寿命82・0歳、生活満足度6・2、エコロジカル・フットプリント4・3ヘクタールで95位である。
先進国で順位の高いところを見ると、オーストリアが平均寿命79・0歳、生活満足度7・8、エコロジカル・フットプリント4・6ヘクタールである。平均寿命や生活満足度は高いが、環境負荷も高い。そのため総合順位は61位ということになっている。
全体的に見た特徴のひとつが島国が比較的順位が高いということである。島国では環境と人間活動の関係が見えやすいためだという。また注目すべきは中米の国々の順位が高いことである。コロンビア第2位、コスタリカ第3位、ドミニカ第4位、パナマ第5位、キューバ第6位、ホンジュラス第7位、グアテマラ第8位、エルサルバドル第9位と続く。
これは私には意外であった。中米というと内戦や独裁政権に悩まされてきたという印象が強い。コロンビアは麻薬問題に苦労しているのではなかったか。西欧のメディアはそういう悪い点ばかりに注目してきたが、nefは現実は違うと指摘している。コロンビアは社会資本が充実しているし、食べ物もうまいし、スポーツ、音楽、ダンスを楽しむ生活を送っている人々が多いそうだ。教育水準も高いし、医療も充実している。その結果、生活満足度は7・2、平均寿命は72・4歳、それでいてエコロジカル・フットプリントは1・3ヘクタールだ。これは私事だが、2年前ロンドンに3ヶ月ばかり語学留学していた際、友だちになったコロンビア人の私と同年代の男性は陽気で親切なナイスガイだった。中米諸国はキューバ以外も要注目ではないかと思う。
一方最下位グループは悲惨だ。今回の対象国のうち最下位、178位はジンバブエだ。なんと平均寿命36・9歳、生活満足度3・3。最大の問題はエイズだ。平均寿命は1992年の57歳から2003年の37歳に急落した。人口の80パーセントは1日あたり2米ドル以下の生活だという。177位スワジランド、176位ブルンジと南部アフリカは崩壊の危機にある。これらの国々に対する先進国の支援は急務なのだ。
ロシア172位、エストニア173位、ウクライナ174位と旧ソ連諸国も最下位グループだ。生活満足度は4前後と低いが、エコロジカル・フットプリントはロシアで4・4と日本並に高い。環境負荷が高いにもかかわらず、幸福な社会も築けていないのだ。
GDPを追求する社会では駄目だと考えたとき、ではどうするのがいいのかは簡単には分からない。エコロジカル・フットプリントなどの指標を見ると、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフでは環境負荷が大きすぎることは分かる。では、これまたどうすればいいのかはなかなか見えてこない。
がともあれHPIの順位表を見ていると、理想的とはいわないまでもそれなりにいい線いっている国々があることが見えてくる。それは具体的に生活をどう変えていけばいいのかの参考になる。
(システムエンジニア)
nefのウェブサイト http://www.neweconomics.org
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地球に田んぼの価値は限りない
飯野佳奈
「アボン・小さい家」という映画がある。舞台は2000年のフィリピン・ルソン島北部の山岳地帯。イゴロット(古代タガログ語で山の民の意)と呼ばれる少数民族の人たちは、スペインの支配に対して抵抗しつづけてきた結果、他の低地フィリピン人よりは西洋文明の影響を受けるのがはるかに遅くなった。そのため独自の伝統的な生産様式や宗教、文化的伝統を現在に至るまで保持し続けている。
だが、自然と共生してきた山岳民族の固有の文化は、今、急速に失われつつある。映画では都会での「豊かな」生活を夢見て町で家族と暮らす主人公が、借金を抱え失意のうちに古里の山に帰り、何もない山での「豊かな」生活を再発見する。乱暴に言えばそんなストーリーになっている。
映画の舞台となったコルディレラ地方は、山裾から海抜千数百メートル〜二千メートル余りの高地まで続くライステラス(棚田)が有名だ。1995年には世界文化遺産として登録された。その規模の大きさと美しさに感動する。アジア文化の象徴的な存在ともいえる稲作―水田は、環境問題の視点からも再評価されるべきものだ。
水田は環境優等生である
畑作では連作を続けることにより、長期的にみると収量が減り砂漠化が進む。アメリカにみられるような大規模な畑作地帯では単作や連作がふえた結果、作物のない期間がふえて、土壌侵食が激しくなっている。作物のない期間に肥沃な表土が風や雨水などによって削られ、運び去られてしまうのだ。そのため作物の収量は低下してしまう。灌漑農業によっておきる土壌の塩類集積による塩害も、砂漠化の主な原因となっている。
その点で水田は優れているのである。水田の水は土壌を洗い流すので塩類の集積を防ぎ、新しい土を流しいれることもできる。稲を作っている間は地表面に水があるので風食は起きない。水を張るため土壌中への酸素の供給がなくなり、畑作物にありがちな連作障害の原因となる土壌中の病原菌は生息できなくなる。
水田のいいところは他にもたくさんある。水を一時的に貯留してコントロールし河川に徐々に出していく。水田がなかったら洪水による被害はさらに大きくなり、肥沃な表土の流出によって、今のような高い農業生産力を保つことはできなかっただろうといわれている。
水田が長い時間をかけて涵養(地表の水が徐々に土にしみ込んで地下水になること)してきた地下水を、現在私たちは工業用水としてくみ上げたり井戸水として利用しているのだ。さらに土壌の流出を防ぐ効果も見逃せない。急な斜面に作られた棚田はダムの機能だけでなく、雨水をため込み、土壌が流出するのを防いでいる。その前提としては森の存在が必要だ。森があって始めて水は豊かになり水田を潤してくれる。そして森と一緒になった棚田はひとつの生態系をつくるのである。
こうした水田特有のものに脱窒作用がある。水にとけている無機態の窒素―アンモニアや硝酸―は、水田の土層を通過するとき土壌中の微生物によって窒素ガスに変化して空気中に揮散する。畑でハクサイやお茶を作る時には、窒素肥料をたくさん与えることでおいしくなるといわれる。与えた肥料は作物に全部吸収されるわけではなく、そのままだと地下水中の濃度があがってしまう。しかし水田があればそういうことはない。
アフリカでも水田が
これらの水田の効能の結果、今や食料不足を解消するためにアフリカでもコメ作りへの期待が高まっている。実はアフリカはアジアと並ぶ稲作の歴史を持つのだ。アジアとアフリカの違いは、品種よりもコメの作り方なのである。アフリカには田んぼはあまりない。もし田んぼが広がっていれば、森は残り砂漠化も今ほど進まなかった筈だ。水田は肥沃度持続型の農業である。陸稲だがコメ自体は栽培されていたのである。米食の習慣はあるし、他の作物を作りながらも、水田での稲作をすすめる試みが始まっているのだ。今まで未利用だった低湿地を使う稲作は、農地の保全にもつながる。
現在アフリカの田んぼは200万ヘクタールほど。コメ作りに適する湿地はその10倍の2000万ヘクタールはあるといわれる。
食料問題と環境問題のどちらにとっても、アフリカに水田を増やしていくことのメリットは大きいのである。
棚田の写真を撮りつづけている写真家の青柳健二は、ある日地元の人に「写真にはいいでしょうけどねぇ。実際棚田を作っている人は大変なんですよ。きれいきれいだけではすみませんからねぇ」と言われたそうだ。
確かに、食うために猫の額のような土地にも苗を植えて育ててきたのは生活のためだ。きれいだなんていってられるのは、厳しい農作業をしたことがない連中の戯言だろう。
今、地球温暖化が問題とされるが、夏の水田では1日あたり6・5ミリ程度の水が蒸発散している。1ヘクタールあたりでは6・5トンにもなる。水田面積270万ヘクタールとして全国では1775万トンだ。これを冷房用の原油に換算すると1億キロリットルに相当する。食糧自給率が下がる一方の日本で、環境のためにも食料の確保のためにも、文化的景観のためにも水田が見直されるべき時がきていると思う。
(OL)
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(2006年11月15日発行 『SENKI』 1229号6面から)
http://www.bund.org/opinion/20061115-3.htm
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