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世俗自認
1 名前: 「信者に信じ込ませる事故と不審な事故を馴染ませる助走」 投稿日: 2006/07/04(火) 01:50:51
‥‥
「現在のところ、俗人というレッテルに
ついて、だいたい以下のように想像している」
●‥‥「俗人」自体の属性を象徴するのに、「肩肘はらない」「偉ぶらない」「本音で生きている」は不適当ではない。
●‥‥俗人のポジションは、「庶民(多数庶民に)親和的」で当然プラス評価である。
●‥‥だが、それが先ず言及されないほどには無自覚的に自明化されている。
●‥‥また、それがベーシックである場合には、世俗意識は充分に完成的である(変化が望み難い、至って加工・転覆し辛い)。
●‥‥ここでは加害世俗性を問題にしている(総体制補完もしくは補強ないし前提化である)。
●‥‥構造にメスが入るまでに悠久の時間を浪費している(自分は俗人だ、と開き直り笑いして済む段階は終わっている)
(通信欄)
およそ「文章力への賞嘆」などというものは内容への
否定を隠し残す場合がありうるような、矮小化に過ぎないかもしれないのである。
(他について全く評価しなけれぱ、むろん大いにその可能性が認められよう)
過去、私に対し“そうした一面的評価を与えた者”こそ、最悪の抑圧型多数主義者だったと思うのである。
(“己の優位を生かさんが為に代わりを差し出す”式の構図に持ち込む心理は分からなくもないが…)
「文章」は庶民的には、当然のごとく外側の問題(ハートや核心となる論旨を逸れた、比較的に取るに
足らない位置のもの)という単純な世俗意識(世俗構造意識)に裏打ちされていたり、その文脈に
見事に合致する場合も少なからず見られることだろう。庶民(俗人)の構造意識では、旧態依然として中心(大切な
もの)、外殻(2次的なもの)という差別世界観を“後生大事に”護持し続けているものと思われる。
それは“自己が中心から隔てられることを恐怖する”ところの「普通意識」とも関係しているはずなのである。
※‥‥陰謀を政治として扱う地点から多くが踏み出せないでいるとすると、政治ならば観戦体育競技の感想会と
同等の政治談議の系に属し、遠く隔絶されないからで、これに対して組織陰謀論のほうはといえば
世俗圏外ということなのではないか? 即ち俗世から不利な評価を頂戴せずに済ませたいとの「怯み」の
ようなものが実は根底に横たわっているのかもしれない。
‥‥
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/28269/1151945451/1