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フラクタルでしょう。この状況も。
取りあえず、常に“四つの命題”に取り巻かれているのではないですか。
「攻めなければならないと知れ」「護らなければならないと知れ」
「攻める方法は何か」「護る方法は何か」という、
この四つですね。そしてそれが分からないと、
その問題は、さらに分裂し、4分されるかもしれない。
我々は未だ完全に烙印を押されていない、稀有なテーマを見つけたんでしょう。
そしてその「伝えなければならない」との側面は分かると思いますが、
「適切な」伝え方が分からないのかもしれません。
そのとき「伝える方法」を護るというのは、人に「その伝え方」を変えさせないということでしょう。
その「伝える方法」の護り方というのは、独立してやるということでしょう。
「伝える方法」で攻めるというのは、自分達が、それを始めるということでしょう。
その「伝える方法」による攻め方というのは、それを何処かの場で反復することで
方法として定着させる(方法論として理論的に確立し、明示する)ということでしょう。
しかし我々は、攻めの方法そのものが分かったわけではないでしょう。では「その伝え方」とは何か。
それでも彼らは安易な「伝え方」で、この問題に、世間からや仲間からの烙印を押させて
しまうかもしれない(安直であることでこそ、先んじえて)。
もしかすると「出鱈目の妄想だ、勘違いだ」「恐怖を煽る工作だ、手先だ」とさえも言わしめるほどに。
ここで騒いだのは失敗だったかもしれませんね。早くも敵に、
こちらが騒いでいることを知らせる騒ぎが再開されたかも。そうなると味方も裏切り者でしょうし。
人前に無理やり引きずり出し、未熟な段階で大恥をかかせて葬り去るかもしれないのです。
(そしてそれが答えですね、消去法でしょう)