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3)
往々にして故意に読みにくくしてある
限定伝達の手がかりでも、または先を急いでの、
場合によっては個別自我での生活上あえて急ぐ走り書きでも、
そのほか、容認できない稚拙さで、または歪んで
挑戦的な、「無能(・錮疾)」「怠惰(・僭恣)」
でも、じっさいには、有用な情報であれば、
例えば組事務所の壁に書いてあっても、読みに
行く価値があるかもしれませんね。コスト/と
/リスクとで相談でしょうが、もし読み易ければ
商品価値の高いサービスの提供として、その
人の伝達が、条件によってはスムーズに進み、
人気を博し(有意の別にでも優位に見えて)
活性化するなり、総体的に旨くいくというのだろうけど、
では程度の低い貢献は捨てていいのか、運動序列を
もって行動(運動行動を規制)したり、運動活動を
間接的に加圧したり、発生した加圧意欲を別の
運動行為にペナルティーとして
移転してよいものでしょうか。
4)
常に表現は自由ではないですか。
「運動能力」の差別は必要なく、
最大効率でなくても貢献はできると思います。
運動は任意であり、それ自体が「犯罪」であったり、
宣誓違反に当たる「自己崩壊」を招いたりなどしないなら、
参加程度も、効率・表現(伝達)効率も自由でしょう。直接に他者の
妨害をしないなら、マイナスですら自由であるはずです。悪意で
あっても、反運動としてでも、それへと対抗するに
しても「許容」はせざるを得ないと思います。